第7話
男が帰って来た。二の腕をさすりながら階段を上がって来る。昼間の暖かさはもうない。
鍵を開けると、明りも点けずに廊下の先にある台所の換気扇を回す。部屋には入らず、そこで煙草を一本吸う。
咥え煙草のまま、風呂を沸かすために風呂場へ行き、また台所に戻って来る。椅子に座り、煙草を消すとすぐにまた新しい煙草に火を点ける。
男が心の中で一日を反芻しているのがよくわかる。
左の手をじっと見ている。手のひらと甲を交互に見つめ、握っては、開く。「手か」と男が呟く。
それから男は一言も発さず、風呂に入り、いつもの動作を繰り返して眠る準備を始めた。また、何も動かない夜が始まろうとしている。
二時過ぎ、雲に遮られることなく月の光が地上に届く。間断なく吹く風は東京を冷ます。
風は強く、匂いを感じる暇もない。家がまた揺れる。
道を挟んだ向こう、アパートの一室に明りが灯る。そこは、昼間にノースリーブのワンピース姿で出掛けて行った女性の住む部屋だ。いつの間に帰って来ていたのだろう。
彼女は洗面所で顔を洗ったあと、外に出て来た。顔には水滴が残っている。
灰色のパーカーを着込み、寒そうに二の腕をさすっている。空を見上げ月を探すが、そこからではアパートに隠れて見えない。髪が顔にかかって、うっとうしそうに「あぁ」と声を出す。
随分と大きな声だったが、部屋の中で眠る男は反応しない。そういえば、男は風邪をひいていたのではなかったか。
男は同じ姿勢のまま眠り続ける。外に出て来た女性も、もう家の中に戻ってしまった。風はまだ強く吹いていて、空に雲はなく、犬の鳴声もしない。
突然、男の携帯電話が鳴る。男は目を瞑ったまま腕を動かし、緑色の点滅を掴むと通話ボタンを押した。
「もしもし」と小さく声を出す。まだ目を開けていない。
「良いよ。気にしないで」
電話を続けながら、男は明りを点け、鞄の中からきれいに包装された箱を取り出す。
「こっちも風が強いよ。窓がうるさく鳴ってる」
風が強い。
電話を終えてから一時間、男は布団の中で起きている。男が壁に掛けられた時計を見たのは、始発電車の音が聞こえたからだろう。
電車の音は風に乗って、昨日よりも強く響いている。
―――風が 了
風が 伊藤 @itokencan
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