サマータイム・ザ・スイムウェア!

成井露丸

サマータイム・ザ・スイムウェア!

「この女性物の水着――着てみようかなぁ?」


 夏の太陽に照らされたグラウンドを生徒会室のガラス窓から眺めつつ、僕は独り言のように呟いた。僕が「僕」である憂鬱を抱えながら。


「え? 何言ってるんですか? 二之宮先輩?」


 生徒会室の中央にある新調したばかりの豪勢な応接セットに快適そうに沈み込んでいた副会長の水沢くんが、弾かれたように上体を起こした。読んでいた雑誌をソファに下ろして。

 夏季休暇中の学校は閑散としていて、グラウンドからはサッカー部の掛け声、体育館からは剣道部の竹刀がぶつかり合う音、うだるような暑さの中で青春の欠片が響き合っていた。


「いやぁ、出来心っていうかさぁ」

「流石に、生徒会長が出来心で落とし物の女性物水着は着ないでしょう? それはヤバイですよ」

 夏真っ盛りの陽光が生徒会室の窓から差し込んで、僕と彼、二人っきりの空間をじりじりと温めている。机の上には女性物と男性物の水着が一着ずつ並ぶ。


「え〜、やっぱり変態っぽいかな?」

「いや、変態っぽいというか、変態でしょう」

「でも、可愛くない? この水着?」

「なんですか、先輩、その水着の持ち主である女の子のことを妄想して、ムハムハッ、ムハムハッてするんですか? するんですね? そうなんでしょ?」


 一年生の生徒会副会長――水沢くんがソファに座ったまま詰め寄ってくる。そうやって真っ直ぐ言葉責めされると「やっぱり、不味いことを言ったかも」という自覚が、さすがにじわじわと育ってくるのである。これは変態行為なのかもしれない。いやきっと変態行為なのだろう。


 生徒会室で『女性物の水着』を着たいと口走るなんて、確かにどうかしている。

 僕も四〇度を超える真夏の暑さに頭をやられてしまったのかもしれない。

 でもその一方で、正直なところ「水沢くんに言われてもナァ」という気がしなくもないのだ。


 秀才だけど「変態」と名高い一年生――水沢くん。


 背も高くて王道的美男子のイケメンだとの呼び声が高かったのは桜の花弁が散るまでだった。桜の青葉が芽吹く頃には、既に彼のイケメンという名声は変態という名声によって上塗りされて上書き保存されていた。天才と変態は紙一重。この水沢という男は、それを言葉通りに体現する生徒だったと言えよう。


 事例を一つ。水沢くんは一年生の四月冒頭に自身で購入したという女性物の下着を現代文の授業中に机の上に広げたとがで、職員室に呼び出された経歴を持つ。

 注意された水沢くんは「現代文といえば私小説です。姪のことを好きになる男の気持ちに寄り添うには、女性下着の一つや二つを大衆の面前ででられなくて、いかがいたしましょうか?」と開き直っていたという。


 イケメンにして変態、変態にしてイケメンと全校生徒から認識された水沢少年は、この春、突如、生徒会役員選挙に打って出た。そして、新入生にもかかわらず、その知名度だけで、副会長の座を射止めたのだ。彼の後方から、新しい風は確かに吹いていた。

 僕の相方になるはずだった生真面目な二年生の副会長候補は、そのせいで落選したのだから救われない。正直、あの時は落選して落ち込む友人を慰めながら、水沢くんに腹を立てたりもしたものだけれど、今となっては良い思い出である。

 蓋を開けてみると、水沢くんは存外――というか非常に仕事ができたので、副会長としての彼に何の不満もない。むしろ、元々一緒に生徒会役員をやるつもりだった友人よりも、水沢くんは立派な副会長になっているようにさえ思えるのだ。


 ――彼と僕は生徒会役員としては、良いパートナーになったのかもね。


「ムハムハッ! なんてしないよ。ただ、着てみようかなぁって思っただけだよ。うん……コスプレみたいなものだよ」

「どうですかねぇ。いくら落とし物で身元不明のビキニが届いたからって、生徒会室で突然『女性物の水着』に着替えるなんて、健全な高校生の所業だとは思えませんよ。しかも、それが全校生徒の憧れの的、二之宮生徒会長とあってはなおのことです」


 水沢くんはそう言って、僕の体と机の上の水着一式を、憐れむような目で見比べた。僕も自分の視線を机の上に置かれた二つのビニール袋に落とす。

 そこには女性物と男性物の水着が一着ずつ、合計二着置かれていた。奇しくも僕ら二人が身に着けられるだけの数の水着が。


 今日は夏休みのプール開放日。生徒会役員は学校で待機なのだ。

 本校では夏休みに生徒会主導ということで生徒たちへのプール開放日が夏季休暇期間中に数日設けられている。もっとも、生徒会主導といっても、伝統的にそういうイベントがあり、生徒会主導ということになっているだけで、僕たち自身が企画したものではない。僕たちからしてみればプール開放日が、先生たちにとって都合よく生徒会のお仕事になっているというだけのことだった。

 であるからして、プール開放日であるにも関わらず、僕たち自身は水着を着てプールに飛び込むことも許されず、それどころか水着姿で戯れる女子生徒と男子生徒のキャッキャウフフをプールサイドから眺めて目の保養をすることさえも許されずに、ただ生徒会室で待機していなければならないのだ。

 安全巡視や生徒対応といった実務は生徒会の下部組織である体育委員会が行う。生徒会長と副会長はただ不測の事態に備えて待機していればよいのである。灼熱の屋外に比べて、生徒会室がクーラー完備で涼しいことだけがせめてもの救いだった。


 そんな僕らの元に、先程、現場担当の体育委員の女子生徒から「忘れ物で〜す」と、二着の水着が届けられた。それが今、机の上にある二着の水着なのである。

 僕はそんな机上の水着から視線を上げた。


「『健全な高校生の所業とは思えない』だなんて、よもや、僕が水沢くんにそんな風に言われる日が来ようとはね」

「副会長は生徒会最後の理性であるとちまたでは言われていますからね」

 キリリッと眉を寄せる水沢くん。その曇りない眼差しに唖然とさせられて、その瞬間、僕は反論の言葉を見つけることさえ出来なかった。絶対にそんなこと言われている筈がないのだ。そんなのは僕の知っている『ちまた』ではない。校内の一般常識に照らせば、水沢くんこそが絶対的な変態で、どちらかといえば僕こそが生徒会最後の理性なのである。

 少なくとも、これまではそれが常識だった。


 水沢くんは変態だ。大事なことなので二回言う。


 事例をもう一つ。水沢くんは学校に勝手に宿泊したとがで、職員室に呼び出された経歴を持つ。

 「なぜ、家に帰らなかったのか? 学校に残って一晩中、何をしていたのか?」と教師から問い詰められたところ、「一晩中、屋上で夜空の星を見ていたんですよ。夏の大三角形。デネブ、アルタイル、ベガ。真夜中の校舎から見上げる星空って何だかロマンがあるじゃないですか」と開き直っていたという。

 多数の生徒と教職員が「水沢は馬鹿だ」と口を揃える中、一部のロマンチックな女子からは王子様ポイントを稼いでいた。水沢くんはイケメンだからね!


 端的に言って『本校の生ける伝説』。それが生徒会副会長――水沢くんなのだ。

 入学して、たった半年で確立した校内の名声と地位。

 そんな本学園における変態の代表者、いや、変態の権威である水沢くんに、僕の何気ない一言が「変態でしょう!」と糾弾されているのが現在なのである。

 「変態に変態って言われたくないっ!」って言い返しかけたが、忘れ物として届けられた女性物の水着を生徒会室で身に着けるという行為は、冷静に考えると確かに変態行為なのかもしれない。攻守逆転。もしかしたら、僕の致命的失策。


 ――そうかなぁ、そうなのかもしれないなぁ。


 「水着を着てみたい」と言っただけで、そこまで言われるなんて酷いなぁって思いもするのだけれど。しかし、自分自身の行為のおかしさや、自分自身の考え方のおかしさというものは、なかなか自分自身では気付けないものだと言う。幼少期の自己を客観視出来ない特性は、発達心理学において中心化と呼ばれるのだと、誰かが言っていた。


 ――僕は何が変態で、何が変態でないのか、分からなくなってしまっているのだろうか?


「う〜ん。変態的かなぁ?」

「そうですね。変態的ですね。まぁ、二之宮先輩はそれでも良いのだと、僕は思いますけどね。先輩のそういう真っ直ぐなところ――嫌いじゃないですよ」

 そう言って、水沢くんは爽やかに笑う。不覚にも、その微笑みに僕の視線は吸い寄せられた。


「変態って言ったくせに」

「変態って言葉は必ずしも悪い言葉じゃないですからね」


 僕は知らない間に水沢くんに感化されて変わってしまったのかもしれない。

 僕が会長になり、彼が副会長になり、この数ヶ月間の間は何かと二人で行動することが多かったから。今、この瞬間も、彼の影響を現在進行形で受け続けているのかもしれない。

 僕は変態への道を歩み始めてしまっていたのだろうか?

 先ほど僕の唇からこぼれ落ちた水着に関する何気ない一言だって、知らない間に水沢くんの影響を受けた結果なのかもしれないのだ。


 そんなことを考えながらも、僕はビニール袋から順番に水着を取り出して、机の上へと広げ始めた。あ、いや、別に「水着を着る」ことを実行に移そうとしているわけじゃないからね!

 一応、生徒会として、プール開放日の落とし物の確認作業を行う必要があるのだ。そして、もし可能ならばこの二着の水着を置き忘れた生徒を特定し、その生徒の元へと忘れ物を無事届けるのである。それは純然たる生徒会としてのお仕事なのだ。


「ほう」

 気づけば知らぬ間に水沢くんが机の側までやってきていた。

「何か気づくことはあるかな?  水沢くん?」

 ミステリー小説の探偵役が興味深い証拠を見つけた時のように、水沢くんは顎に手を添えて立っている。

 卓上に広げられた女性物の水着は空色のギンガムチェック。上下セットのビキニで腰は紐で結ぶタイプだ。プール開放日で、正課の授業日ではないからといって、腰紐で結ぶタイプのビキニを学校に持ってくるのは如何なものかと思わなくもないが、まぁ、そういう話は一旦脇に置いておこう。

 机の上にきちんとトップとボトムを並べると、それを身につけたモデルのような美しい女の子の姿を妄想として思い浮かべることができた。こういうビキニが似合う可愛い女の子は大好きだ。そういう女の子に自分を重ねたいっていう衝動は、とても自然なものだと思うのだけれどなぁ。

 対して、男性ものの水着はスタンダードな紺のサーフパンツ。これに対しては、特に何の感想も感傷もないので、左側にポイと置いておく。


「両方の水着とも濡れていないですよね、二之宮先輩? ということは、今日使った水着ではないみたいですね?」

「――そうみたいだね」

 水沢くんの推理するような言葉を受けて、僕も広げたビキニを改めて確認する。

 確かに、紐の部分もサラサラしていたし、濡れている様子はなかった。しかし、本当に濡れていないかどうかは布地の部分を触ってみないと分からない。確証を得るために、ビキニのボトムの布地を僕は人差し指でそっと擦った。


「ちょっと、二之宮先輩っ! 何やっているんですか?」

 水沢くんの声に、僕はビクッとして手を引っ込める。

「えっ? あっ、……ご、ごめん」

 思わず反射的に謝ってしまった。なぜ謝らないといけないのかも分からぬままに。

「いくらなんでも、そんな部分を擦るなんて、先輩……変態が過ぎませんか?」

「え、……あ、いや、そんな変態だとか、そういうつもりは全く無くて、水沢くんが言うから濡れているかどうかの確認をしようとしただけで――」

「『濡れているかどうかの確認』っ?」

 水沢くんがその言葉に過剰反応して眉を寄せる。

 僕は誤解を解こうとコクリと頷いた。

「……そうだよ。純粋にね。『濡れているかどうかの確認』」

「ビキニの股間部分を触って?」

 水着が濡れているかどうかの確認行為の何が変態行為なのだろうか? さっぱり分からない。

 しかし、本校における変態の代名詞であるところの水沢くんに「変態が過ぎる」だなんて言われるのは心外だ。うん? 何か僕は見落としているのだろうか。

 思考すること数秒。僕はようやく先行する水沢くんの思考に追いついた。

(アッ! そういうことか!)

 僕の両頬は急激にその温度を上げた。


「いやいや、いやいや! 股間を触るとか、濡れているか確認するとか、そーいうのじゃないからねっ!」

 僕は思わず胸の前で両手を振る。水沢くんの変態フィルターにかかれば、僕の何気ない仕草さえも、変態行為として認定されてしまうらしい。危険。極めて危険である。


「どうでしょうねぇ。先輩もお年頃ですし」

「いやいや、『お年頃』とか、後輩の一年生に言われる言葉じゃないでしょ」

「そうでしょうか? 生徒会室で誰の物かも分からない『女性物の水着を着たい』なんて言い出すなんて、先輩が『お年頃』である何よりの証拠だと思いますよ?」

「うーん、そうかなぁ?」

「そうですよ」


 確かにそうかもしれない。

 きっと、僕は変わりたいのだ。自由に――開放的になりたいのだ。

 今着ている服を脱ぎ捨てて、新しい何かに着替えたいのかもしれない。

 それは必ずしも、水着である必要はないのかもしれないけれど。


 僕はいつも小綺麗な服を身に纏って生きてきた。

 家では親の言うことを聞く良い子、学校では優等生、そして憧れの生徒会長。

 年を重ねる毎に、成長する毎に、進級する毎に、僕は自らを彩る多くの服を幾重にも幾重にも重ねてきたのだろう。

 それが今の自分自身という人格。僕自身の「僕」という人格。


 そういうことに思い悩んでしまうこと自体が、水沢くんの言う「お年頃」ということなのかもしれない。


 水沢くんは僕より年下とは思えないほど大人びて、涼やかで、人生を達観したようなところがある。変態だ、変態だ、と学校中から言われる彼だけれど、常識に囚われない彼だからこそ見えている風景があるのではないかと、時々、僕は思うのだ。

 縛られない思考、縛られない生き方。

 そんな彼のことを「カッコいいな」「羨ましいな」と思うことが確かにあるのだ。

 自分の方が一歳年上だから、そういうことを思ってしまうこと自体、正直に言って、悔しいのだけれど。


「先輩には変身願望があるんですよ」


 投げかけられた水沢くんの言葉にドキリとする。


「変身願望?」

「そう、変身願望ですよ」


 そうなのかもしれない。

 今までの殻を破って、新しい自分になる。

 水色のビキニを目にした時に僕を襲った思いは、そういうものだったのかもしれない。

 この水着を着て、今までの「僕」という自分らしさを捨てて、自由になれたらどんなに素敵だろう。そうすれば何かが変わり始めるのかもだなんて、そんな気持ちを抱いたのは、熱すぎる太陽のせいばかりとも言えないのだろう。

 僕のことを優しく眺める水沢くんの細められた目を、僕は真っ直ぐに見返した。


「先輩、さっきも『コスプレみたいなもの』って言ってましたよね?」

「うん、言ってた」

「それが、変身願望なんですよ。きっと。先輩は成績優秀で品行方正、女子にも人気の生徒会長ですけれど、その人格――いえ仮面ペルソナに窮屈さを感じているんじゃないですか? だから、そんな小さな冒険を、生徒会室なんて狭い閉鎖空間でやりたくなるんですよ」

 そう言って、変態の水沢副会長は僕のことを正面から見つめた。


(そう――かもしれない)


 そうかもしれない。

「でも、それなら『女性物の水着』を着てみようかなって、僕が呟いちゃう理由を水沢くんは理解できるているってことなんじゃないかな? さっきは『ヤバい』とか『健全な高校生の所業とは思えない』とか否定的なことばかり言っていたけどさ」

 僕が指摘すると、水沢くんはゆっくりと首を左右に振った。


「それは違います、先輩。僕は先輩の願望は理解できますし、先輩が『女性物の水着』を生徒会室で着たくなってしまう気持ちも理解できます――」

(――理解できるんだ……!)

「でも、僕の感覚からすれば先輩が『女性物の水着』を着ようとする行為は、余りに安易で、余りに近視眼的な代償行動だいしょうこうどうに思えるんです」

「安易? 近視眼的? 代償行動?」

「はい。確かに、ビキニの『女性物の水着』はセクシーだし可愛らしさがあるでしょう。プールという文脈コンテクストから切り離してそれを身に纏った時、開放的な気分になり、性的な意味付けが容易になされて二之宮先輩という仮面ペルソナから切り離された自由を感じることができるでしょう。先輩がそういう類の分かりやすい逸脱行動に走りたくなる気持ちも分かります!」

「……え、あ、いや」


 突然、難しい言葉を話し出す水沢くんの声は熱を帯びていた。その瞳は優しさと情熱、そして、強い意志の輝きを放っている。そして、なんだか分かられてしまったらしい。

 ただ、その言葉を聞いていると、よく分からないけれど、彼の言っていることが正しいように感じられてくるから不思議だ。確かに、僕のしようとしていたことは衝動的な代償行動だったのかもしれない。この「僕」という仮面ペルソナを脱ぎ捨てるための。


「しかし、それじゃあダメなんです。今、二之宮先輩が背負っているものを本当の意味で放り出して、縛られている常識を打ち破りたいなら、そういう代償行動じゃ駄目なんです! 変身願望を叶えて、確かな一歩を踏み出すために選ぶべき選択肢は、それじゃあ、ないんですよ!」

「え? じゃあ……、どういう行動を選ぶべきだと、水沢くんは思うの?」


 僕が聞き返すと、水沢くんはゆっくりと右手を持ち上げた。

 しなやかにのばされた右人差し指の先を辿ると、その先には無造作に置かれたもう一つの水着があった。

 それは、もう一つの落とし物。


 『男性物の水着』――紺のサーフパンツ。


「なっ……、なんで僕が、何が悲しくて、どこの男の物かも分からない『男性物の水着』を着なきゃいけないんだよ!」


 そうだ、『女性物の水着』ならまだいい。そりゃ、こんな生徒会室でいきなり着替えたら「変態だ」と言われるのもわかるけれど、それで満たされる欲求が確かに存在する。

 たとえそれが、水沢くんの言う「代償行動」だとしても。

 それに引き換え、どこの男のものとも分からない男性物の水着を着るなんて、僕の中で何一つ満たされないじゃないか。それは、本当にただの変態行為だ。僕は自分がその男性物の水着を身につけた時の様子を想像して、胸の前で両腕を抱えた。


 しかし、水沢くんは、ゆっくりとかぶりを振る。

 そして、僕のことを落ち着かせるように、言葉を紡いだ。


「だからこそ……だからこそですよ、二之宮先輩。先輩が安易な代償行動に走るのを引き留めて、より良き革新の道へと導きたいと、僕は心の底から願っているのです。何かに挑戦する姿は美しい。たとえそれが、常識から外れていると見做される行為であったとしても。しかし、挑戦は、その外見が革新的に見えていれば良いのではありません。その挑戦が自分の中で確かな一歩となり、その超克ちょうこくが、まだ見ぬ未来へのいしずえになることこそが――真に重要なのです」


 僕は机の上に並べられた二着の水着を見比べて、そしてまた、水沢くんへと視線を上げる。目の前に立っているのは、その信念に瞳を輝かせた『本校の生ける伝説』だった。

 入学以来、数多の逸脱行為を繰り返し、それでも、先生や生徒から一目置かれ、そして、凜とした佇まいと自らの信念を失わない美しい少年――生徒会副会長、水沢くん。


 自分よりも一歳年下の副会長でありながら、生徒会長である僕自身に「カッコいいな」「羨ましいな」と思わせる、そんな水沢くんの澄んだ瞳が、真っ直ぐに僕を捉えていた。


「……水沢くんは、この『男性物の水着』を僕が着てみることが、その未来に繋がると言うのかい?」

「ええ、そうです。二之宮先輩」

「……水沢くんは、僕の変身願望を――僕が生徒会室で『女性物の水着』を着たいなんて言い出してしまう心情を理解して、その上でこの『男性物の水着』を僕が着てみることを勧めているのかい?」

「ええ、もちろんです。二之宮先輩」


 僕はずっと「変わりたい」と――そう思ってきた。

 それが彼の言う変身願望なのだろう。


 父親や母親、そして先生たち、いろいろな大人の言葉を聞いて、僕は「僕」という人格を作ってきた。品行方正な自分という人格を。清く正しく、そして、性的なものは感じさせない「僕」という人格を。成績も良くて、友達も多くて、生徒会長にもなって、僕の人生は順風満帆だったはずだった。

 それが間違いだなんて可能性を僕は考えさえもしなかった。――水沢くんに出会うまでは。


 副会長として僕の前に突如として現れた水沢くんは、僕の世界にこれまでとは全く違う色彩と視点もたらした。逸脱を繰り返し、変態行為を繰り返しては、彼はその輝きを増していく。逸脱しながらも一本の筋を通し続ける彼は、確かに彼自身だった。


 そして、いつしか思うようになったのだ。他人の価値観や倫理観を受け入れて、良い子になるために作っていく誰かのための自分自身よりも、水沢くんのように他の誰のものでもない自分の欲求や信念で作り上げていく、自分のための自分自身になりたいと。

 目の前に立つ水沢くんは、そんな僕が憧れた確かな輝きを瞳に宿らせたまま、僕のことをじっと見つめていた。


 溜め息を一つつく。


「わかったよ。負けた。じゃあ、水沢くんの言うことを聞いてあげる。僕をこんな水着に着替えさせて水沢くんが嬉しいのかどうか、正直なところよく分からないのだけれどね」

 観念した僕が照れながらそう言うと、水沢くんは「僕のためじゃありませんよ、先輩自身が歩む一歩のためですよ」と、楽しそうに微笑んだ。

 その無邪気な瞳は、何故だか僕自身の気持ちを開放的に、そして愉快な気持ちにさせるのだ。変な言葉でも、何故だか信用できてしまう。そんな彼らしい囁きだった。


 そして「僕」は机の上から男性物のサーフパンツを手に取った。


 外から見えてはいけないと、水沢くんが率先して生徒会室の遮光カーテンを閉め、生徒会室入り口の鍵をかけて、部屋の電気を消してくれた。

 夏の太陽に照らされて青春の欠片が舞う校舎の中で、一つ、薄暗い空間が浮かび上がる。

 カーテンの隙間から漏れ入る微かな光だけが、僕と水沢くんの居る二人っきりの空間を、間接光で仄かに照らした。


 暗がりの中、僕は身に着けていた制服に手を掛けてトップスとボトムスを順に脱いで、下着姿になっていく。部屋の電気は消えているけれど、真っ暗ではないから水沢くんから見えているかもしれない。でも、水着に着替えるためには、下着も脱がなければいけないのだ。

 僕は水沢くんの居る入り口方向に背を向けて、身に着けていた下着を順に取り外した。そして、机の上に置かれた男性物のサーフパンツを手にとって、右足、左足と順に通す。

 最後に、その誰の物とも分からない少し大きなパンツを両手で引き上げて、お腹の前でキュッと紐を結んだ。


「――出来たよ……」


 仄暗い生徒会室の中で「僕」は水沢くんの方を振り返る。

 両腕は胸の前で交差させたまま。

 恥ずかしいけれど視線を上げると、暗がりの中で水沢くんがこちらを見ているのが分かった。


「暗い? 明るくしようか?」

「ううん、大丈夫。明るいのは流石に恥ずかしいから」

「どう? 初めて『男性物の水着』を着てみた感想は?」

「……胸がスゥスゥする」

「新しい経験をしているって感覚、あるんじゃないかな?」


 「僕」は両腕で胸を隠したまま、俯きがちにコクリと頷いた。


「先輩は確かにこれで一線を越えられたのだと思いますよ。きっと、二之宮先輩なら新しい自分に変身できます」

「そうかな?」


 「僕」が小首を傾げると、水沢くんは嬉しそうに「そうですよ」と目を細めた。


「いつの時だって、自分を形作るのは自分自身なんです。自分をどう呼ぶか、自分にどんな服を着せるか。それが自分という可能性を枠にはめもするし、その可能性を広げもする。心配しなくても、先輩は何だってできるし、何にだってなれるんですよ」


 自分自身で作り上げた人格――仮面ペルソナ

 良い子でありたい、迷惑を掛けたくない、常識的でありたい。

 そうやって作り上げてきた「僕」という人格。

 でも、高校二年生になって、水沢くんと出会って、変わりたいと思い始めた。

 だから先ず、自分自身で、新しい自分を認めてあげることから始めたいと思うのだ。


「私――特別な自分になれるかな?」

「なれますよ、二之宮先輩なら。もともと先輩はとても素敵な女性なんですから」


 二人っきりの真夏の生徒会室は薄暗くて。

 私の視線の先に水沢くんが居る。

 一歳年下の少年は水着姿の私を見つめたまま、優しく微笑んだ。

 私の頬にも自然と微笑みが浮かぶ。


「ありがとう。水沢くん」

「どういたしまして。二之宮先輩」


 そして、私はゆっくりと胸元から両腕を下ろした。

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