第8話より 触れた代償~幸田マーサの最期
生き物の死臭を嗅ぎ分けることができる少女、幸田マーサ。彼女は自分の母親から漂う死臭を母親自身に告げてしまい、パンドラに触れてしまった。
それはマーサの命の終着点を大幅に早めてしまうことを意味している。
マーサの必死の助言を受け、母親はマーサと共に市内で一番大きな病院を訪れた。急に精密検査をしてほしいと言われても、それはなかなか難しいというのが現実なわけで、院内で受けられる可能な限りの検査を1日がかりで受けた。
病院で検査を受けている最中、母親とマーサは楽しく談笑し、普段一緒に過ごすことのできない時間を満喫した。
検査結果は2週間ほどで出るとのことで、それまでの期間はマーサも母親も普段通りの生活を送ることとなった。
今までと変わらない生活。たくさん笑い、人間だけでなく犬たちと一緒に散歩に出かけて家族のひと時を過ごす。
今までと何ら変わらないその時間が、永遠に続けばいいのにとマーサは内心強く思っていた。
だが彼女の鼻は母親から漂ってくる強烈な死臭を感知し続けていて、心の底から穏やかな時間をマーサは送ることができなかった。
2週間後。母親の検査結果が届いた。
結果はかなり進行した膵臓がんだった。
自覚症状はほとんどなく、毎年通っている人間ドックでも引っかからなかったのに。マーサの言っていたことはやはり当たっていたのだと、口には出さないかったが、両親はマーサに対して若干の恐怖心を抱いた。
検査結果を受けて母親は入院して、手術を受けた。
入院したから、何か有効な治療を受けられるに違いない!手術で癌を取り切ってしまえば、お母さんはきっと助かる!マーサはいつだって最愛の母の体調の回復を心から願った。
しかしその願いとは裏腹に、母親は一時退院を繰り返しつつも目に見えて弱って行った。最初は笑って退院していたのに、抗がん剤治療が始まって母親は笑う回数が目に見えて減少した。
元気を分けてあげたいと、マーサはいろいろなことをした。
バイト代の大半をつぎ込んで、ガンに効くと言われるお茶を買って飲ませた。
癌細胞は笑うと消えるという話を聞いて、できるだけ母親が笑えるような話題やテレビ番組を提供し、マーサも一緒に笑った。
母親が体調を崩しているときはできる限り寄り添い、寝ずに彼女の看病も行った。
それでも母親の身体に巣くう癌細胞の進行を食い止めることはできず、最初は歩いていた母親が寝たきりになるまで数か月とかからなかった。最初にマーサが母親に忠告を行って、半年後。マーサの母親はがん細胞に食い尽くされて、この世を去った。
死臭には敵わない。あの臭いがし始めれば、身体が朽ちていくのは時間の問題だと分かっていたじゃないか。心の準備はできていたはずなのに。誰よりもマーサは母親の死を悲しんだ。
自分にもっとできることがあったのかもしれない。もしも最初に死臭に気がついた時に、もっと自分がしっかりと家族を観察して早く忠告を行っておけばよかったのに。自分を責めるマーサを、祖母と弟のリクは背中をさすって慰めることしかできなかった。
母の死以降、マーサは元気が出ない日々が続いていた。今までのように友達を出かけることはなくなり、部屋に閉じこもるばかり。
「マーサの心の傷を、どうにかしてあげたい」
夕食後、マーサが部屋に戻って父親が祖母とリクに話を持ち掛けた。子どもの頃から元気が取りえだったマーサが、今では愛想笑いが精いっぱいなのだ。父親はマーサの今の状態が長く続くと…と考えると、耐えられなくなるほど心配している。
マーサを心配しているのは、祖母もリクも同じだ。マーサに笑顔になってほしい。でもどうすべきかわからない。
家族でちょっとした会議を開いていると、テレビから興味深い情報が流れてきた。
『飼い主さんを探している動物大集合!運命のペットと出会えちゃうかもしれませんね!』
ローカルニュースの一コマ。いわゆる地元イベントの宣伝。
犬を飼う予定はない。これ以上動物が増えると、家が狭くなってしまう。だが、自宅に居ない動物との触れ合いは、きっと動物好きのマーサの心を明るくしてくれる。
家族はそう信じ、マーサを動物イベントに誘うことにした。
誘った当初は乗る気でなかったようだ。移動中の車内ではうつむいてばかりで、話しかけても反応は薄かった。しかし会場の市民公園の芝生が見えてくると、犬や猫だけでなく馬やフェレットなどの動物もたくさん展示されている様子が目に見えてきて。マーサの表情が久しぶりに、晴れやかでにこやかなものになった。
会場内でのマーサは、子どもの頃と変わらずはしゃぎっぱなしだった。中でも幼い赤ちゃんの動物コーナーではマーサは動物たちが入っているゲージの前に座り込んで手をさし伸ばして動物たちと触れ合っていた。
ここの動物は、基本的に触ることはできない。それは動物たちのゲージに勝手に入ってはいけないという意味であり、動物がゲージの隙間から鼻や小さな手を出しているときは少しだけ触れることが可能だ。
子犬や子猫はもちろん、少し珍しいマングースやキツネなどの動物の赤ちゃんとも少し触れあった。
動物の赤ちゃんの歯は小さくて、噛まれてもさほど力がないため痛くない。甘噛みは今まで飼育してきた歴代の愛犬たちが子犬だったころに、たんまりと経験している。だからマーサは甘噛みされてもなめられても、子犬たちとの触れ合いを心から楽しんだ。
とても充実した時間だった。心満たされたと思えたのは、いつ振りだろうか。それはマーサの表情にも目に見えて現れていて。帰宅時の車内では、マーサの晴れやかな表情を誰もが心の底から喜んだ。
「楽しかったかい?」
運転席の父親が振り向いた時、マーサはにっこりと笑って頷いた。
「すっごく楽しかった!元気が出たよ。ありがとう」
感謝の気持ちを伝えると、父親の目じりが下がって彼も嬉しそうに笑った。
マーサの心に少し元気が戻り始め、学校にも笑顔で登校してようやく安定しだした頃。父親が帰宅すると、リビングのソファでマーサが横になっていて、心配そうに彼女に寄り添う祖母とリクの姿があった。
「どうしたんだい?」
心配して父が3人に声をかけると、マーサは力が入りきれない笑顔を父親に向けた。
「少し熱っぽいみたい。身体もだるくって、胃がムカムカしてるの」
マーサからのそれに、父親は仕事用のカバンを床においてすぐさま彼女の元に駆け寄った。
「ああ…かわいそうに。明日病院へ連れて行ってあげよう」
父親の温かな手が、マーサの頬を撫でる。
「大丈夫。きっと疲れが出ちゃっただけだから。しっかり休めば、すぐに元気になれる」
母親の死。それはやはりマーサにとって、大きなショックだった。そのショックから立ち上がるために、少し頑張りすぎただけ。マーサはそう信じて止まなかった。
しかしマーサの体調は一向に回復しないまま、時間ばかりが過ぎて行った。発熱と倦怠感に続き空咳や食欲不振の症状も出始め、学校を休んで療養しているにもかかわらず悪化していくばかりの体調に、マーサ自身不信感を抱き始めていた。
ただの風邪じゃないのかもしれない。でもどんな病気かわからないから、どの科を受診すればいいかもわからない。でもこのままじゃ悪くなるばかりのような気がする。どうするべきか、マーサ自身答えを出せずに、さらに時間が過ぎていった。
いたずらに時間ばかりが過ぎていき、マーサの体調はさらに悪化して行った。
時間を追うごとに最初はなかった嘔吐や筋肉痛、頭痛といった症状も出始めてしまった。
―これは何かおかしい
家族全体に不穏な雰囲気が漂い始めていた夜。マーサの体調について父親と祖母が話し合いをしている時に、事態が急変した。
「おばあちゃん!お姉ちゃんが指の先が痛いって泣いてる!」
リクが二階から急いで駆け下り、リビングのドアを開けて大きな声を上げた。リクの表情から察するに、恐らくただ痛がっているわけではないと安易に察しが付く。父親を先頭にリクと祖母も階段を駆け上がり、マーサの部屋に駆け込んだ。
「指が痛い…!痛い…!!」
真っ暗な部屋の中で、マーサは震え、彼女の指先はけいれんしていた。
ただ事ではないと父親は判断し、救急車を呼んでマーサの容体について説明して大きな病院へと搬送してもらった。
その間マーサは救急車の中で精神的に不安定な状態が続き、車内の明かりをとにかく嫌がっていた。口からはよだれが垂れ、マーサが異常であることは誰が見ても明らかだった。
病院に到着し、マーサは精密検査を受けている間、最近の彼女の様子を家族が医師に話していて。
ある疑惑が浮上し、マーサの症状とも合致。マーサはそのまま緊急入院することになった。
マーサが回復する兆しはなく、日に日に症状は悪化。暗い部屋の中で水や風も怖がり、触れるだけでけいれんを起こし、全身の運動機能が著しく低下。
寝ているのか起きているのか、今何時で今日は何月何日なのか。マーサ自身、もうわけがわからなくなっていて。暗い部屋で飛び飛びにふと我に返る短い時間、マーサの鼻が死臭を拾った。
誰が死ぬんだろう。
私の近く、誰が居るかわからない。
真っ暗な部屋。
人の気配はない。
水も飲めなくなってしまい、唾液さえ嚥下できなくなって。
マーサはようやく気がついた。
―この死臭、多分私だ
マーサがマーサである最期の瞬間、彼女はそう感じ取ったのだった。
マーサの病は治らなかった。
それはそうだろう。発症すれば100%治らない病気だったのだから。
日本だから絶対に発症しないと思っていたのに。
でも世の中に“絶対”は存在していないことを、忘れてはならないのだ。
マーサの病名は、狂犬病。
あの動物とのふれあいで、子犬や子猫などの動物と触れ合った時に感染したと思われる。
子犬や子猫だから咬まれても深い傷にはならなかったが、マーサの手は小さなささくれがいくつかできていて、狂犬病に感染していた動物の唾液が傷口に入ってそこから発症したのだろうと医師は家族に説明した。
食べられない、飲めない。でも嘔吐してしまう。この症状はそう長く続かなかったが、マーサがこの世を去った時の姿はやせ細り、骨と皮に近い状態となっていた。
マーサの狂犬病は、世間に公表されることはなかった。あのふれあい広場に参加した人間は誰一人狂犬病を発症しておらず、数匹病死した動物は死亡してすぐに火葬してしまったため、狂犬病で死亡した確証がないとのことだった。
口封じに、どこかの偉い人達から、まずはある程度の金額が提示された。家族はそんなものでマーサの死をうやむやにするわけにはいかないと声を張り上げたが、そこから桁違いの金額の金と言葉を発することを許されない大きな圧力を受け、家族はマーサの死を世間に公表することを断念した。
マーサの能力は、現在リクが引き継いでいる。リクが最初に死臭を察知したのは、実はマーサの死後ではなく、マーサが体調を崩し始めてすぐの時だった。
祖母に一応変なに臭いを鼻が拾っていることを相談し、リクはマーサから死臭がしていることを誰かに公表することはなかった。
自分がこの能力を引き継いでいかなければならない。ほんのわずかな使命感が、リクの中にあったのは事実だ。
それよりも。
マーサみたいに誰かのために自分の命を投げ出すなんてばからしいと、リクは思っていたのだ。
マーサが死は、寿命だったのか。
いいや。自業自得でしょ?
自分が一番大事なんだから。それができなかったから死んだ。それだけだよ。
マーサの葬儀で涙を流しつつも、リクの心はマーサの死に様を笑っていた。
パンドラ・チルドレン みほし ゆうせい @mihoshi-s
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