第7話より 触れた代償~大本聡夫のその後

 転換期を匂いとして感じ取ることができる、中年サラリーマンの大本聡夫。

 彼は石鹸のような心地の良い香りが鼻をくすぶっているときは、出世や出会いなど良いことが起こるということを知った。

 それを機に聡夫は今までのごみまみれの生活を脱し、人並みの生活を始めた。それはとても良いことだ。

 しかし聡夫は、まだこの能力の本当の恐ろしさを知らない。


 公私ともに順風満帆。あの石鹸の香りも、絶賛漂い続けている。この香りさえ途絶えなければ、自分は無敵だ。この香りがしている間に良い行いをしておきさえすれば、楽に上手に世の中を渡っていける。

 何の疑いもなく信じていたことは、聡夫の知らぬ間に徐々に崩れ始めていた。




 石鹸の香りがし始めてそれが転換期のサインだと分かり、聡夫は洗剤やシャンプーや家の芳香剤を全て石鹸の香りで統一した。

 シャツからも肌からも、家の中でも。ずっと聡夫の周りにはあの香りが漂っている。女性社員からも若手男性社員からも慕われ、将来の嫁となると信じて止まない詩音とも文句なしの関係が続いていて。聡夫の心理状態は、ほぼ無敵だ。


 しかしある日、聡夫の鼻が今までと異なる匂いを拾った。

 石鹸の香りのような良い香りではなく、なんとなく青臭いような匂いが聡夫の鼻をくすぶったのだ。

 草のような匂い。でも青々と茂る美しく生命力にあふれたそれとは違い、土から引っこ抜かれて地面に置かれ、じりじりと力任せに踏みにじられて地面に草が持っている緑色がにじみ出た時のような居心地の悪い青臭さである。

 植物の類は聡夫の部屋には置かれていない。すぐに枯らしてしまうから。ではこの匂いは一体どこから漂ってくるのだろうか。

 匂いの根源を少し探してみたが、見つけることはできなかった。


―外で誰かが雑草を抜いてそのままにしたんだろ


自分の中に沸いている違和感に蓋をして、無理やり自分を納得させる言い訳をして。この香りから聡夫は目を背けた。



 だがこの匂いが聡夫の鼻に付きまとい始めて、いつしか何もせずとも漂っていた石鹸の香りは聡夫の周囲から消えてなくなっていた。

 この頃から、聡夫の周囲では不幸な出来事が起こり始める。

 まず手始めに起こったのが、聡夫を慕っていた社員の移動や退社。ようやくできた数少ない仲間が、日を追うごとに社内からいなくなっていった。聡夫の人間関係が少し良くなったとは言っても、関係性を良好に保てていない人間の方が断然多い。ふと気がつけば、聡夫はまた社内でぽつんと一人になっていた。

 社内での人間関係の慌ただしい変動の経験から、聡夫は草を踏み潰したような匂いは自分にとって良くないものだと学習した。


 その匂いは全く薄れることはなく、周囲の状態は聡夫にとって好ましくない形態に変化していく。昔は周囲の人間に相手にされないことが当たり前だったが、ここ最近の聡夫は周囲の人間と初めて良好な関係を築き、その居心地の良さを知ってしまった。だからその居心地の良い空間が破壊されていくことが、どうしても耐えられなかった。

 聡夫は次第に相手の出方を見て行動し、言動を選ぶようになっていった。

 目上の人から声をかけられればできるだけゴマをすり、同僚に積極的に話しかけ、後輩にねぎらいの言葉をかけるよう勤めた。だが事態は思うように好転せず、聡夫の精神は徐々に削れ始めた。

 とはいっても聡夫の性格の根本は全く変わっていない。基本的に相手がどんな人間であっても最初から見下し、どこかのタイミングで自分の配下に置く。特に女が相手とあれば、自分の嫁になりうる資格のある女以外は全員ブス。世間を僻み、自分の短所を改善しようとはみじんも思わない。これが大本聡夫という男である。


 青臭い匂いは、どうあがいても聡夫の鼻から離れない。石鹸の香りが強いという口コミの柔軟剤を使用してみても、入浴時に石鹸を肌に力任せに刷り込んでみても、石鹸の匂いに近い香りの香水をいくら振りかけて見ても。あの心地の良い石鹸の匂いが戻ってくることはなかった。

 聡夫の周りから、徐々に人が消え始めた。

「大本さん、最近すごい臭いがして…」

「話しかけると鬼がらみしてきて気持ち悪い」

女性社員たちが給湯室でこんな話をしていたのを、聡夫は間が悪く立ち聞きしてしまった。

 何かがプツンと切れたような音が、聡夫の耳の中に響いた。


―ふざけるな!俺がどんな思いで、毎日お前らと話してやってると思ってるんだ!


できるだけ抑え込んでいたつもりの不平不満が、まるで間欠泉が吹き上がるように聡夫の脳内に猛烈に湧き上がってきた。


―お前らみたいな底辺の女に、俺の何がわかる!何もわからないくせに、いい気になって人様の努力を踏みにじりやがって!


ただただ言われたいように、文句を言われる。それを聞く聡夫の表情は怒りにまみれ、顔は溶岩のように赤黒くなっていた。


 女性社員の陰口を聞いて以降、聡夫の態度が一変した。自分にしっぽを振らない女性社員には小さなミスも怒鳴りつけ、相手の人権を無視した罵声を浴びせかけるようになった。

 先輩には更にゴマをすり、後輩はまるで自分の下僕のように粗雑に扱う。

 聡夫の変貌ぶりに最初は社内の誰もが戸惑い、時の流れに比例して全員が可能な限り聡夫から距離を取るようになっていった。




 雑草を踏みにじったような匂いがようやく消え始めたころ。聡夫の鼻に新しい匂いがまとわりつき始めた。


―どっかで匂ったことのある匂いだな


 何かが燃えるような。でもその辺の野焼きとは違う匂い。アロマキャンドルとか、そういったおしゃれなものの匂いではない。

 お香の香りかと思ってお香を購入して家で試してみたが、それもどうやら違っている。何か身近にあったものの匂い。今の家になくて実家にあったこの匂い。なんだったか、なかなか思い出せない。でもその匂いは、どうしようもなく強く香ってくる。



 その正体は、思いのほかすぐに分かった。何かの匂いを察知し始めて数日後、聡夫の携帯に着信が入った。

 携帯の液晶部分には詩音の名前が表示されていたが、電話の向こうの人物は詩音ではなく詩音の父親だった。

 呼び出されてはじめて出向いた詩音の家は、ごく一般的な二階建て住居。案内されて屋内に入ると、そこには死装束を身にまとい畳の上に敷かれた布団に横たわった詩音の姿があった。

 何が起きたかわからず、詩音の両親に勧められるがまま聡夫は居間に通され、詩音がこの世を旅立った経緯を話してくれた。


 詩音は元々身体が弱く、デートの翌日には大体熱を出していたらしい。それでも彼女は聡夫に会いたくてデートを重ねていた。数日前に自宅で倒れ、翌日には息を引き取ったという。

 詩音の両親の話を聞いている最中、聡夫の鼻があの匂いを拾った。それは詩音が眠る場所の奥にある仏壇から漂っていた、お線香のそれだった。




 詩音のお通夜や葬儀に参列し、帰宅して。聡夫の心には大きな穴がぽっかりと開いてしまっていた。これから何を糧に生きていけばいいのだろうか。詩音以上にできた女なんて、これから先現れることなんてないだろう。聡夫は詩音の両親から譲り受けた、彼女のお気に入りだった聡夫がプレゼントしたデート服を抱きしめて、ひそかに泣いた。



 詩音を失い、聡夫は一度地に落ちた。

 精神的にも肉体的にも崩壊の一歩で手前まで追いやられた。

 自分の鼻の周りに漂う匂いに翻弄され、社内では居場所を失い、大切な人の死も味わった。

 聡夫にとって石鹸の匂いは詩音の匂いそのものだ。なんとか立ち直った今でも、聡夫の衣服はもちろん可能なものには全てきつい石鹸の香りがついている。

 前のような凶暴さは聡夫から消えていた。今の聡夫にあるのは、言いしれない不気味さばかりである。話しかけても応えることはなく、話しかけていないのにたまに小さな笑い声を漏らす。聡夫から漂う危険な香りは嫌でも社内に伝染し、今までと違った意味で社員たちは聡夫と距離を取っている。




 家はいつだってきれいだ。詩音はきれいな家が好きだと知っているから。

 家に帰ると、詩音がいつもリビングで出迎えてくれる。

 お気に入りのデート服を着て、ソファに座って自分のことを待ってくれている。

 俺には帰る場所がある。他の人間にはわからない、天国のような場所。


 聡夫は貧乏ではない。高給取りではないが、趣味がないためお金を使うことがなかった。だから貯金が知らぬ間に増えていたのだ。

 その貯金をはたいて、聡夫は業者に頼み、詩音そっくりのラブドールを作らせた。

 家を充満させているのは、もちろん石鹸の香り。それ以外の匂いは感知不可能なほどに部屋に充満したそれは、聡夫の嗅覚を通して脳を支配し、言いしれない幸福感を彼にもたらしてくれる。

「今夜も楽しい夜を過ごそう。詩音」

彼は帰宅してスーツを脱ぎ捨て、詩音にそっくりなラブドールにむしゃぶりついた。



 匂いに翻弄された、大本聡夫。

 彼は知っている。

 石鹸は幸福の香りであり、この匂いからもう逃れることはできないということを。


 そして、彼自身の体臭がどこかおかしいということも。

 この匂いは嗅いだことがある。

 先日亡くなった父親と詩音が旅立つ前に鼻の周りに漂っていた匂い。


 死を迎える、お線香の匂い。




 もうすぐ君の元に行けるよ。

 詩音。




 聡夫は今日も詩音を思い、石鹸の香りに抱かれて、身体全体に走る痛みに快感を覚えるのだった。


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