第5話より 触れた代償~飼育員、的井の最期
飼育員の的井は、小宮山が動物と話すことができるというパンドラを知っている。前々からあいつは何かあると思っていたが、ついに園内のサルと話している現場を激写することに成功したのだ。
明日の朝、この動画をスタッフたちに見せびらかして、奇妙な能力をまずは仲間に晒してやる。そのあとネットに公開して、こんな能力を持つ男がいることを世間にも知らしめてやる!
小宮山は一体どうなるだろうか。大学か何かの研究機関に送られて、能力についての解析が行われるのだろうか。苦痛を伴う研究を受ける上、特異な人間だからこの園からも追放待ったなし。的井は小宮山に降りかかるであろう不幸な数々の出来事を想像して、にんまりとしながら駐車場へと走った。
カバンの中に手を突っ込んで車のキーを探す。的井の車はよく言えばビンテージなのかもしれないが、一般的には古い型の車なので、鍵穴にカギを差し込んで鍵を開け閉めしなければならない。
動画の再生回数が伸びれば車だって最新モデルのものが買えると、的井の想像力は無限に広がり、彼はさらに黒く微笑む。
どうしてこの動画の再生回数が伸びると思ったのか、それは的井にしかわからない。やはり今回の動画は、はた目から見ればどう見ても飼育員とサルのふれあい動画に他ならない。
だが彼は、犯してはならないことをしてしまったのだ。
的井はその意味をまだ分かっていない。
カバンの中の鍵を取り出して車のドアに近づけると、車の屋根の上に大きな何かガタン!と大きな音を立てて降り立ってきた。鳥。大きな鳥だ。的井はその鳥と目が合った。
長年飼育員をしてきたが、こんなに大きなフクロウは今まで見たことがない。フクロウの首が徐々に右に傾いていく。的井はそれに釘付けになった。ゆっくりと回る、巨大なフクロウの首。時計の秒針のようにゆっくりと回り、的井の目線が泳ぐことを一切許さない無機質な色を放つフクロウの目。
まるで時の流れが、このフクロウが首を傾けていく速さと同じくらいのゆっくりとしたものになったのではと錯覚し始めた時。
「その子はね。僕の使者だよ」
小宮山の声がして、的井はハッと我に返った。
振り返るとそこには小宮山が立っていて、つい今しがたまで自分の車の上に乗っていたはずのフクロウが小宮山の肩に留まる。
「…な、なんだ!あの動画を削除しろとでも言いに来たのか!」
ぼんやりしていた自分の意識を振り払うかのように、的井が吠える。
「いいや。だって貴方は、動画を公開することができなくなるんだから」
小宮山はにこりと笑い、的井に告げる。
「強がったって動画は俺の手の中にある!」
「どうだろうね」
的井のそれに小宮山が受け答えを終えたと同時に、的井のカバンの中から大量の虫の羽音が鳴り始めた。一匹二匹なんてものではない。しかもハエのような小さな虫の羽音でもないの。数十匹の大きな虫の羽音がけたたましく小さなカバンの中から鳴り響き、それらがカバンのチャックの下からここから出せと恐ろしいまでの勢いでカバンを突き上げてきている。
自分の持ち物にいつ虫が入ったのかなんて、どうだっていい。小宮山という男が普通の人間ではないということが分かっただけでも、的井にとっては大きな収穫なのだ。この場をしのぎ切ってしまえば、今あったことも公表してしまえばいい。恐怖心は確かにあるのに、的井の心は踊っている。
「貴方は心底救えない人間だ」
小宮山が一言声を発すると、今度はどこからともなく園内で生活していうであろう野生のネズミの集団が的井の足から目にも止まらに早さで数十匹駆け上がってきて。
「いてぇ!!!」
それらはカバンを抱え込む的井の手や腕をかみちぎっていく。
それでも的井はカバンを手放さず、さらに抱え込んで小宮山を睨んだ。
「どんな風に妙な力を使ってるのか分かんねぇけどな!お前はもう終わりなんだよ!」
的井のそれを聞き、ネズミの一匹が的井の脇の柔らかい部分を思い切り咬んだ。的井は悲鳴を上げ、ようやくカバンを握り締める腕の力が弱まってカバンのチャックが内側に居る虫の力によって開いた。
カバンの中からはおびただしい数のオニヤンマが飛び出し、数匹が的井の携帯をカバンから持ち出して小宮山の手に運んだ。カバンの中には、的井が力任せに握った際潰れてしまったトンボの亡骸がいくつも転がっている。
的井がうずくまっているのをしり目に、小宮山は運ばれてきた携帯電話を操作して彼の撮影した動画を確認する。
「あーあ、ばっちり撮っちゃったんだね。これじゃもう救えない」
小宮山はため息交じりにそう言って、ほんの僅か笑った。
「返せ!」
「返しても、もう操作できなくなるのに」
「なんだと?!」
小宮山は肩にフクロウを乗せたまま、ゆっくりと的井の前まで歩き、うずくまる彼の前にしゃがんだ。
「君は勘違いしている」
そう言って小宮山は、的井の額に人差し指を突き付けた。
「まず動物飼育員に向いてない。自分がこいつらを世話してやってるんだと思い込み、預かっている命を愛する責任さえ放棄してしまった。いわば人間はクズだ」
小宮山の言い分に噛みつきたいのに、思うように口が開かない。
「それに先輩風を吹かせて、後輩に雑務を押し付けて自分はさっさと帰る無神経さ。ミスを他人に押し付け、て周囲に当たり散らす傲慢さ。貴方は本当に、人間に汚い部分ばかりをかき集めたような人間だ。年齢にものを言わせて後輩をいじめ、愛すべき動物の命を軽くあしらう。汚い心と身勝手さは見るに堪えない」
目を細めた小宮山の目には、今にも噛みついてきそうな的井の姿が移っている。
「君は人間として生きていく資格を失った。僕というパンドラに触れ、動画を撮ってしまった瞬間に、君の人間としての人生は幕を下ろしたんだよ。君は飼育されるよりも、自分の身一つで生きていく道が合ってる」
的井の額に突き立てた人差し指がほのかに光始め、一瞬強い光を放ったと思った次の瞬間には、的井の人間としての姿はなくなっていた。小宮山の前には的井が今まで身にまとっていた作業服とカバンが乱雑に転がり、作業服の下から一匹のネズミが出てきた。先ほど的井に噛みついた園内で生息しているネズミと同じ種類のネズミである。
「こんにちは、ネズミさん」
的井の目には、小宮山が巨人のように映っている。
「ね?言ったでしょ?もう携帯なんて、操作できなくなるって」
にこりと微笑む小宮山に、的井はもう文句の一つもいうことができない。
「人間って噂話好きでしょ?ただの噂話なら、別になんでもなかったのに。噂を噂にせずに証拠なんて撮っちゃうから。でも心配しないで、的井さん。僕が今の力を使った時点で、大多数の人間の記憶から貴方のことはきれいさっぱりなくなってるから。戸籍も存在しない。だってネズミなんだもん」
普段の小宮山からは想像できない圧迫感が、ネズミになった的井の全身を押しつぶしにかかる。
「味覚と知能は人間の時のまんまにしといてあげたからね。命の重み、その命が絶えるまで身をもって思い知るといい」
もう言葉さえ、的井の口から出ることは二度とないだろう。
小宮山は的井の携帯を少し力を込めて握り締めると、携帯はいとも簡単に黒い煙を上げた。
「貴方とはもう最後になるから、僕の正体を教えてあげよう」
小宮山はネズミとなった的井の前に座り、的井を手に乗せた。ネズミになってもなお的井は小宮山に牙をむき、それを見た小宮山は小さく笑う。
「僕はね。神様なんだ。人間と動物の間を取り持つ神様。だから僕が神様であることがばれてしまうようなことは、どんな小さなことでもすぐさま潰さなきゃならない。この園のネズミたちが、どうして僕に従順なのか。今一度考えなきゃならなくなる時が来るよ。自分の力で食っていくって大変だからね」
そう言って、小宮山は的井を地面に降ろしてその場から立ち去って行った。
味覚は人間のまま残っている。これは非常に生きにくいことだ。
腐った野菜も動物の食べ残した肉片も、口が受け付けない。かといって事務所に忍び込めばすぐに見つかって、追い出されてしまう。水の在処もわからず、雨水を飲んで乾きを凌ぐ日が続いた。
知能が人間のままでも、今まで生きてきた環境と世界が全く違っている。的井は生きていくことに手いっぱいで、いつしか自分が人間だったことさえも忘れてしまっていた。
「ご飯だよ」
聞いたことのある声。
どこからだろうか。遠くない場所だ。的井はその声の方向へと全力で走った。
そこには小宮山の姿があり、彼はパンの耳を大量に持っていた。
園で生活しているネズミたちが、どこからともなく集まってくる。
パンの耳なんていつ振りに見ただろうか。
あれなら食べられる。あれは美味しい食べ物だ。こっちに投げてくれ!
小宮山はパンの耳をネズミが食べやすい大きさにちぎって、無数にいるネズミたち一匹一匹に手渡していく。
「どうぞ」
「まだあるからね」
「よく噛むんだよ」
声をかけながらネズミたちにパンの耳を配る。
それは的井にだって例外ではなかった。
「たくさんお食べ」
小宮山の声に、的井はネズミでありながら涙が出た。泣きながら食べるパンの耳は、今まで食べたどんなものよりもおいしかった。
小宮山は神様だ。
的井はこの時、心底そう思った。
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