40.騒乱


「…………ただいま」



 知人がファンのバンドメンバーと知って浮足立つ有ヶ谷ありがやとは裏腹に、精神的にも疲労困憊した七瀬ななせがマンションの部屋に帰り着くと、見慣れぬ靴が二組、玄関に投げ出されていた。

 ついでに、やたらと威勢の良い音楽が耳を突く。


 このエンジニアブーツとハイヒールという組み合わせは、もしかして。


 思うが早いか、七瀬は室内に駆け込んだ。有ヶ谷も急いで靴を脱ぎ、彼女の後を追う。



 黒を基調とした落ち着いたリビングは、雑然の一言に尽きる有様となっていた。


 大音量で流れる陽気なお囃子と凄まじいアルコール臭に満ち満ちた空間の中――――七瀬が想像した通りの人物二名と飼い猫はいた。そこかしこに転がる空缶や空瓶を蹴散らし、仲良く揃って阿波踊りを踊りながら。



「あ、ナナセさん、おかえりなさいませニャン! 今宵は無礼講ですニャン。えらいやっちゃなのですニャン」


「お、ナナセぇ、お邪魔してんよ〜。いやはや、踊る阿呆に見る阿呆ってかあ? ウヒャヒャヒャヒャ〜イ!」



 凍り付く七瀬を認めたサラギとトガイが、酔って甘く溶けた笑顔を向ける。


 これだけでも腹立たしいというのに、今日は更に面倒な奴がいた。



「ちょっと、ナナセぇぇぇ! 何なの!? 何でこんないいとこ住んでるの!? こんな家、テレビでしか見たことないよお!? ねえ、これドラマなの!? あんたがヒロインなの!? うおぉぁぁあ、認めん! ちょっと若いからって調子に乗るんじゃねえぞ、小娘ぇぇぇ! ヒロインはあたしだ! あたしはお姫様なんじゃあああ!!」



 泣き上戸、というやつなのだろうか。


 号泣し喚き立てながら掴みかかってきたリヅキを、七瀬は軽く突き飛ばした。それから短く息を吐き、蹌踉めいた彼女の顔面目掛けて上段回し蹴りを食らわせる。


 鋭い弧を描いて打ち上げられた足の甲は、綺麗にリヅキの横っ面にヒットし、吹っ飛ばされた彼女はそのまま動かなくなった。



「…………で?」



 次なる攻撃へと素早く体勢を整えた七瀬が、低く問う。


 サラギとトガイの全身から、血の気と共に急速に酔気が引いた。明るく楽しい『よしこの節』が流れる中、氷のような冷たい空気が落ちる。



「ち、違うんですよ!? トガイが無理矢理連れて行けと命じたのです! ナナセさんがいない間に、またあの豪華なお風呂に入らせろとか何とか言って、挙句に酒まで買ってきて! 悪いのはトガイです!」



 主の深く重い怒りを察知した飼い猫は、楽器遊びをしていた時とはうってかわって、友人を犠牲にして許しを乞おうとした。


 しかし、二度も目の前で彼女の武闘の腕前を見せ付けられたトガイも黙ってはいられない。



「ふ、ふざけんな! お前もノリノリだったじゃねえかよ! 酒を飲むなら踊りも楽しまなきゃなりませんっつって、音楽まで用意させといて! おおお俺だけのせいにすんな!」



 ぎゃあぎゃあ喚くトガイから、酒の匂いに混じって自分の使っているボディオイルの香りを嗅ぎ取ると、七瀬の憤りは頂点に達した。


 バスルームは二つあるのだが、それぞれきっちり使用者を分けており、マスターベッドルーム側にある家主専用の方にはサラギすら立ち入らせたことがないのだ。



「てめえ……私のバスルーム、使ったな!? 絶許!」



 そう告げると七瀬は、斜めに前転するようにしてトガイとの距離を詰めるや、その勢いに任せて足を打ち下ろした。身長差があるので頭部こそ狙えなかったものの、上手い具合に仰け反ってくれていたため、見事、鼻っ柱に踵を叩き込むことに成功した。


 胴廻し回転蹴りなどというとんでもない大技を披露した七瀬が、最後に残った敵に向き直る。


 だが、彼女の疲弊を見抜いた飼い猫の方が上手だった。精彩を欠いた蹴りを寸でで躱し、重心が揺らいだ瞬間を見計らって一気に押し倒す。



「避けるな! 素直に食らっとけ!」


「許してニャン! 許してニャン! 許してニャン!」


「誰が許すか! ちょ……気持ち悪い! 離れろ、クソ猫!」



 組み敷かれた状態で頬を舐められた七瀬は、必死に顔を背け、逃れようと身を捩った。


 本人は非を侘び反省する猫のつもりらしいが、本物の猫なら可愛い行為も、自分よりも図体の大きな男にされれば悍ましい以外の何物でもない。



「有ヶ谷くん、交代! タッチタッチ!」



 そこで七瀬は、漸く有ヶ谷の存在を思い出し、リビングの入口で成り行きを見守っていた彼に助けを求めた。



「アリガヤ、さん……? 何故、あなたがここに?」



 サラギが眉を寄せて体を起こす。


 その下から七瀬が抜け出すより先に、有ヶ谷はスライディングするようにしてフローリングに滑り込み、額を擦付けて土下座した。


 伸びている『タマキ』のメンバー二人を仏像みたいに崇めるのかと思いきや、七瀬の想像を裏切り、彼はとんでもない言葉を発した。



「サラギさん! 俺を、弟子にして下さいっ!」


「……はあ?」



 突拍子もない彼の申し出を聞くと、七瀬とサラギの二人は同じ調子で同じ言葉を重ね、揃って唖然とした。



「今日ここに来たのは、あなたにお願いしたかったからなんです。サラギさん、あなたの咄嗟の判断力、そして勇気と度胸に心打たれました。俺の理想です! 憧れです! あなたみたいに、強くなりたいんです! どうかあなたの素晴らしい精神と心を、欠片でもいいんで俺に伝授して下さい!」


「え、ええ……? ちょっとちょっと、何でそうなるんです? いやいや、おかしいでしょう……」



 戸惑うサラギの傍で、七瀬もまた、有ヶ谷よ、どうしてそこいった……と、額を押さえて項垂れた。



「あらやだ、かっわい〜! いいじゃない、セラ。弟子にしてあげなさいよ。あたし、応援するわ!」


「タツキ〜、お前って奴ぁ……何て健気なんだよ! やべ、感動のあまり泣いちゃいそう。セラ、断るなよ? タツキ苛めたら絶交するからな!」



 失神から目覚めた二人まで有ヶ谷の側に付き、囃し立てる。


 憧れのバンドメンバー二人に頭を撫でられ抱き着かれても有ヶ谷は揺るがず、真剣な眼差しでサラギを見つめ続けていた。



「どうしましょう……彼、本気のようなんですけれど」



 サラギが七瀬に、耳打ちする。


 返事をするのも嫌だったが、七瀬は半ば投げやり気味に答えた。



「もう面倒臭いから弟子にすれば? その内『何でこんなアホに師事したんだろ』って勝手に自己嫌悪に陥って、自然に離れてくよ」


「しかし……何やらあれこれ教えろと言っておりますよ? それまでどうしのぐんですか?」


「そんなの、お前がいつも私に『女子たる者〜』とか抜かしてるあの調子で、ねちねちくどくど説教すりゃいいだけでしょ」


「ああ、なるほど。要するに、男子たる者の在り方を説けば良いわけですね? そのくらいならお安い御用、お任せください」



 七瀬の言葉を都合良く解釈したサラギは、二人を纏わり付かせたまま床に座す有ヶ谷の前に進み出て、その顔を冷ややかに見下ろした。



「アリガヤさん、先に言っておきますが、私の教育は厳しいですよ? 軟弱なあなたに付いて来られますかな?」


「はい、どこまでも付いて行きます! どうぞ遠慮なくビシビシ厳しく鍛えてください、師匠!」



 無駄に体育会系臭がするやり取りから、さらに彼らは新師弟の誕生祝賀会をしようと激しく盛り上がり始めた。


 もう口を出す気も失せ、七瀬は全員に片付けだけはきちんとするよう命じ、今度こそ忘れないように有ヶ谷に『環』グッズを押し付けると、一人、先に休んだ。




 浅い微睡みが訪れる。


 その人は、いつものように脳内に現れた。



『お前は、私の子なんかじゃない』

『お前は、人でなしの化物だ』

『化物だ。化物だ。化物だ』



 わかってる、と七瀬はその人に答える。


 大丈夫、そちらの世界へはまだ行かない。この忌まわしい存在を、あなたに近付けない。


 そのために生きるのだ。そのために、生かされたのだ。



『ア、カ、ツ、キ』



 蛆湧き変色した腕が、伸べられる。腐臭に満ちた彼女の身に、包まれる。そして――口腔内に、蕩けた血肉が流れ込む。


 躊躇いなくそれを飲み込み、七瀬は大丈夫、と今度は自分に向けて呟いた。


 けれど、どれだけ死なないようこの世に留まろうと努力し続けても、必ず限界は訪れる。何故なら自分は、『彼ら』とは違うから。ちょっとしたことで命の危機に陥る、脆弱な存在でしかないから。



『ア、カ、ツ、キ』



 それでもいつか、あなたと同じ世界に堕ちた時は。



『ア、カ、ツ、キ』



 もう一度、あなたに会える時が来たら――。



『ア、カ、ツ、キ』



 奥底に秘めた望みは、心の中ですら漏らすことが出来なかった。



 この本心を悟られまいと、変わり果てた姿で名を呼ぶ母親をがむしゃらに抱き締め、その身を食らいながら――――眠りに意識を完全に攫われるまで、七瀬は『至福だった最期の時』を再現し続けた。




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黒猫は、無色透明に戯れる。 節トキ @10ki-33o

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