39.帰路


 コンビニのバイトを終えて外に出た七瀬ななせは、全身を攫う冷たい秋風に大きく身震いした。


 マフラーに包んだ首をそっと伸ばして空を仰いでみれば、絢爛な星が視界いっぱいに映る。金木犀はもう盛りを過ぎたようで、ほんのりと甘い残り香を微かに漂わせるのみだった。


 晩秋から冬へと変わりゆく季節の移ろいを味わいながら、七瀬は自宅までの道をのんびり歩いた。



 時刻は午後十時過ぎ。あまり栄えているとはいえないこの土地では、大きな主要道路を外れると忽ち人気がなくなる。


 だが、自宅マンションまでは徒歩で十分もかからない上、道中は街灯や監視カメラも充実しているし、通りに隣接する家々には灯りが点いているところも多い。


 そのため、いつも安心して帰途のお一人様散歩を楽しんでいたのだが――自宅マンションが見えてきたところで、七瀬は背後から近付いてくる足音に気付いた。そいつはランニングにしては激しい足取りで、真っ直ぐにこちらへと向かってくる。


 荒い呼吸音が射程圏内に入ったタイミングを見計らい、七瀬は振り向き様、相手の足を狙って鋭い横蹴りを見舞った。



「…………あれ、有ヶ谷ありがやくんだったか」



 太腿を強打された苦痛に、有ヶ谷は声も出せず、蹲ったまま何度も頷いた。


 バイトが早く終わったので彼女が働くコンビニに駆け付けたのだが一足遅かったようで、慌てて後を追ってきたらこのザマだ。



「『タマキ』のグッズ、引き取りに来たんだよね? わざわざ来てもらわなくても、筒見つつみさん経由で返却しようと思ってたところだったんだけど……」



 有ヶ谷の目的をすぐに悟った七瀬は、立つこともままならない彼に手を差し伸べ、助け起こしながら小さく呟いた。



「いや、そんなことしたら、それこそいつ返ってくるかわからなくなるから。アイに横取りされる前に、阻止できて良かった」



 貸し出したグッズの中には、初期からファンクラブに入会していなければ手に入らない貴重な写真やお宝映像もある。熱心な『環胞わほう』ではあるが、まだファン歴の浅い筒見にとっては垂涎の品々だ。彼女の手に渡れば、長期レンタルは必至だろう。一応、その内に貸そうとは思っているのだが。



「ああ、有ヶ谷のものはアタイのもの、永久に借りとくだけだっていう理論ね。ジャイアイって呼んでやればいいよ」



 絶妙なネーミングに、有ヶ谷は盛大に吹き出した。



「やめてよ、七瀬さん……アイが、あの某ガキ大将に見えてくるじゃん。ばらばらのめためたにされたら、どうするんだよ……っ……」



 肩を震わせる有ヶ谷を横目にしつつ、七瀬は胸に感じたのが痛みではなく安堵であったことに軽く落胆した。


 せめて心くらいは無痛症を克服してくれれば、と思ったのだが、そううまくはいかないようだ。



すばるさんは、大丈夫だった?」



 あれから、二週間近く経つ。その間、有ヶ谷とは一度も連絡を取り合っていなかったので、七瀬は最も憂慮していたことについて切り出した。



「うん、全然大丈夫。病院では大泣きしてたけど、関節嵌めてもらったらケロっとしてたよ。その後、司馬しばさんに二人揃ってこっ酷く叱られた時はまた泣いてたけど。七瀬さんは?」



 有ヶ谷もまた、彼女に尋ね返した。



「私も平気。骨折どころかヒビすら入ってなかったし、内臓も問題なかったよ。何やらかしたって、こっちも主治医にすごい勢いで怒られた」



 怒髪天を衝くといった勢いで詰め寄る藤咲ふじさきの凄まじい形相を思い出し、七瀬はその時と同様に肩を竦めた。



「いやあ、怪我した二人には不謹慎だけど、ホントすっごい催し物だったよね。リヅキさんの特殊メイク、マジ完成度高かったなあ。あれでアマチュアだっていうんだから、プロになったら余裕でハリウッドだよ!」



 有ヶ谷が目を輝かせて無邪気に笑う。


 見たといっても遠目であったし、時が過ぎるにつれ現実感も薄れていったのだろう――当時は『ドッキリ映像』を発案した二人を質問攻めにするほど懐疑的だった彼も、今では全てフィクションだったと心から信じ切っているらしい。


 確かに、と七瀬はあの時の光景をそっと思い返してみた。


 豊かな月の光の下、飛び散る血は作り物のように赤く、皮膚を突き破って露出した骨はやけに白く、引き裂かれる肉も垂れ落ちる内臓も質感が明瞭過ぎて、まるで質の悪いB級映画のようだった。何もかもが、真実であるというのに。



 吐息を一つ落としてから、七瀬は有ヶ谷に告げた。



「……でも残念ながら、動画はアップできなくなったみたい」


「えっ!? 何で!?」


「屋根に仕掛けてた定点カメラが動いてなかったんだって。肝心要のアクションシーンが撮れなかったから、諦めたそうだよ」


「えええ〜…………超楽しみにしてたのに。ニラ動もチューユーブも、毎日チェックしてたのに……」



 遠足が雨で中止になったと知らされた子供のように、有ヶ谷ががっくり肩を落とす。これでは昴共々、骨折り損だ。


 あまりにも可哀想なので、七瀬は代わりに良い情報を教えてやることにした。



「そういえば今度の『環』のライブ、レアキャラの琴が出るらしいよ」

「ホントに!? どこ情報!? ソースは!?」



 嬉しそうにはしゃいでいたかと思えば深々と落ち込み、悲愴な顔をしていたかと思えば直ぐ様立ち直って驚き慌てふためくという忙しない百面相をしながら、有ヶ谷は七瀬に詰め寄った。



「実はトガイくん、『環』のメンバーなんだよ。こないだウチ来た時に聞いたよね? あれは篳篥だったけど、バンドではオーボエやってるんだって」


「へ………?」


「で、リヅキさんが琴の人なの」


「う、嘘おおお!!!! マジでえええええ!!!!」



 夜道に、有ヶ谷の絶叫が轟く。


 近隣のアパートや民家から何事かと顔を出してきた住民達に、七瀬は慌てて詫び、頭を下げた。


 なのに誤解を招くような迷惑極まりない行為をやらかした張本人は、一緒に謝るどころか、サラギやトガイまでも圧倒した環胞魂を炸裂させ、熱狂に燃え上がるがままに、懸命に事情を説明する七瀬の隣であれこれ問い質そうとするばかりだ。


 住民達の冷たい視線を浴びながら、七瀬はやっぱり余計な情けをかけるべきじゃなかった……と激しく後悔した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る