新装開店に寄せて

「ドードリアの市場で偶然、令嬢の従者にばったり会ってな。あれから暫くして段々と正気に返った令嬢がずっと詳しい話を聞きたがっているとかで、むりやり邸に引っ張ってかれたんだよ」

 党本部への出頭命令を無視したルシオは中立国ドードリアでそのころ潜伏生活を始めたところだった。ルシオの話からアイヴィ・ダンテスといま連絡が取れない理由と窮状を察した令嬢は、彼にアイヴィ・ダンテス救出までの支援を申し出た。

「まさか俺があんな豪邸に一年も住まなきゃならなくなるとはな。しかもシュナウツさんと一緒に」

 従者はアイヴィ・ダンテスと令嬢が交わした報酬の約束を覚えていたのである。

 精肉店の正面扉の硝子から白い塗料のついた小筆を浮かせてルシオは右を振り返った。

 床屋の店先に出された木椅子でアイヴィ・ダンテスはのんびりと魔痺タバコをくゆらせている。

「豪邸でぬくぬくと暮らしながら考えた作戦が苦痛と恐怖の豚箱輸送とは恐れ入ったもんじゃ。おかげで頭がコブだらけじゃ」

「ああ、はいはい。悪かった悪かったよ」

 偽装の肉屋が軍の車体を乗り回すわけにもいかない。馬力のある原動機だけを利用してドードリアで組み上げた改造二輪は、衝撃吸収に難のある代物になった。帝都まではぎりぎり保ったからいいようなものの、最新の原動機に車体強度があきらかに足りておらず、途中で空中分解してもおかしくなかったことはもう絶対に言わないでおこう。

「そういや、トリ・セルノーから伝言があったんだ。『ダント・テスオロス王は生きておられます』だそうだ」

 虹色の煙を吐いてアイヴィ・ダンテスは目を細めた。

「知っておるよ。党本部でヴィオロンの元宰相と会ったときに聞いた。父はもともと身体の大きくて頑健なひとじゃからな。かまいたちくらいでは死なんじゃろ」

 左隣の雑貨屋の前で鼾をかいて昼寝していたシュナウツが、いつの間に耳を立てていたのか、それを聞いて哄笑した。

「然もありなんぞ」

 塗料の缶に筆先を落としながらルシオは難しい顔をしてみた。

 老夫婦のおかみさんに古着を貰って老婆風味へと戻ったアイヴィ・ダンテスの姿からは、彼女が昨今の大陸情勢の鍵を握る存在だったことを想像するのは難しい。

 この一年の間に、アイヴィは密かにヴィオロンの政治首脳と通じ、戦争回避の道筋をつけることに成功していた。

 彼女の話によればアマデオ・キンケルは一年前にすでに死んでいたという。

 〈忘れられた羊の帝国〉の継承者、という大言壮語に吸い寄せられてきた青いドレスの堕天使によって、頭からバリバリと喰い殺された、という。

 青いドレスの堕天使は、ゴルトシャーフ家の王の一人だったミハの血を引く人間を求めている。その血肉を入口にしてミハの元へと至るために。

 むろん、アマデオ・キンケルを喰ったところでミハに至る道は開かない。がっかりする堕天使にアイヴィは提案を持ち掛けた。ミハの元に至る標と交換に、ちょっとした計画に協力してくれまいか、と。

 その計画というのが、アマデオ・キンケル皇帝とアイネ皇妃による茶番劇である。

 そう、彼女はつい最近まで丸一年もの間、元夫を喰い殺した堕天使と共に暮らしていたのだ。

 アマデオ・キンケルとアイネ・ゴルトシャーフによる偽の夫婦生活を演じながら。

「私はな、あるとき堕天使に訊いてみたんじゃ。人間を喰うときどんな気分がするのか、罪悪感はないのかとな」

「そりゃまた、修羅場みたいな会話だな」

「あいつは『だって人間も人間を食べるんでしょう?』と言った。どうやら巷のくだらない噂を真に受けていたらしい。流浪民は人間を喰ってその魂を手に入れるとかいうやつじゃ。馬鹿馬鹿しい。魔心師は魔草研究の中でほうぼうの土着の文化にも馴染みを持つようになるが、流浪民のどの源流にも人間の肉や臓腑を喰う習俗などない」

 ルシオは硝子に白い線を引く手をとめた。

 黙り込んだ彼にアイヴィが怪訝そうな視線をくれた。

「どうしたんじゃ?」

「いや、何でもない」

 頭を掻いて誤魔化してから、白い塗料で手が汚れていたことに気付いた。

「で、堕天使はミハの元へ行けたのか?」

「行ったはずじゃ。約束通り私はクソ師匠の髪の毛をごっそり譲ってやったからな」

 堕天使より一足先に大願成就を果たしたというアイヴィ・ダンテスは、ミハの身体の一部を一束しっかり持ち帰ってきていた。

 通路を開く標としてはなかなか上々のものだ。

「でも、大丈夫なのかよ。その第四世界がどうのこうので世界が滅びる云々かんぬんってのは。堕天使が引き金になるんだったよな?」

 ルシオは塗料のムラを潰しながら一字一字を見栄えよく仕上げてゆく。

「それはたぶん、大丈夫じゃろう」

 深刻な話題のわりに妙に呑気な調子でアイヴィは答えた。

「何故というて、あの堕天使は人間の真似をするからな」

「あの堕天使は、人間が好きなのかな」

「人間を学び、人間をよく知ることが、ミハが堕天使に託した目的だからというのもあるじゃろうが、しかし……おそらく堕天使の中のミハが……」

 呟きかけて、アイヴィは言葉を切った。

 そして彼女は、認めたくない一つの答えと想像から遠ざかるように頭を振った。

 急いで咥えた魔痺タバコに珍しく噎せて咳き込んだりした。

「なあアイヴィ、あんたもう魔心がないなら魔痺タバコもやめろよ」

「口寂しいんじゃ。しょうがないじゃろ」

「わざわざ身体に悪いもん吸うことねえだろ」

「後家の口が寂しいなら干し肉でもしゃぶっておるがよいぞ。おいモニーク、干し肉をよこせ」

「シュナウツさんの腹ん中に消えた旅の分で在庫の全部だったんだよ」

「ルシオよ。この食い意地の汚い老いぼれの畜生はいつまでここにいるんじゃ」

「小娘! わしは畜生ではない、人間ぞ!」

 右から左から悪口雑言を投げあう罵倒試合がはじまり、真ん中のルシオが仲裁に入らざるをえない。

「まあまあまあまあ。そうだよ、そうだ、一つわからないことがあるんだが、三十年前のアイヴィさんは魔心をどうやって手に入れたんだ?」

 喧嘩から気を逸らそうとして無理に話を変えたが、却って地雷を踏んだらしい。

 急にシュナウツさんが犬歯を剥き出しにして唸りはじめた。

「ふむ。王族が下手な魔心師に借りを作っても厄介じゃからな。なるべく老い先の短そうな奴を選んで〈意識〉の氷原に連れて行かせたんじゃ。事情があって夫の死からは一年後になったがな」

 なるべく老い先の短そうなって誰のことなんだ。

「事情ってのは宮廷のゴタゴタか?」

「いや、違う。皇太子が死んだ後の皇太子妃なぞ誰も見向きはせんかったよ。一年待ったのはな、その間に赤ん坊を産んどったんじゃ」

「へえ、赤ん坊か。赤ん坊……、……赤ん坊?」

 ルシオは筆を取り落としかけてとっさに扉から遠のいた。

「ああ。最初のつわりは夫の肉片の前じゃったがな」

「おい、ちょっと待てよ。じゃあ、シュマイラ・ネーの邸にいた皇位継承者は……」

 まさか本当に本物だった可能性があるのか?

「どうじゃろうな。本物なら堕天使はミハの元に行けたはずじゃしな。それに、あの堕天使の記憶の寝室の枕元に落ちていた毛は金髪じゃった。私の赤ん坊は黒々とした黒髪じゃった。我が父からの隔世遺伝じゃろうな」

 居場所のない宮廷から心の療養のためにヴィオロンに帰ったふりをして彼女は、帝国内でこっそりと皇子を産んだ。首が据わるまで育てた赤ん坊を彼女は、一切の手がかりを残さないようにして僧院の前に置いてきたという。

 ルシオは結局落とした筆を地面から拾い上げ、汚れた筆先を前掛けでしごいた。

「しかし、何で……」

「子を捨てた理由はいろいろじゃな。皇太子死亡による情勢不安もなくはなかった。だが、皇子の母をやるより復讐のほうが大事だったというのが最も心に近い理由じゃったろうな。王族の人生など何の得もないとも思っとったな。シュマイラ・ネーの事件までは知る由もなかったが、堕天使があのあと皇位継承者の血に味をしめてうろついていたとなれば、あんがい罪ばかりではない判断だったのかもしれん」

「その……子供の行方は知らないのか、本当に?」

「さあ、わからんし、知りたくないんじゃ。私は知りたくないんじゃ。親と子の関係はな、ときに強い呪いになることがある。私はあの赤ん坊がいま生きていようが死んでいようが、とにかく自由にやっていてくれればそれでいいんじゃ。それでいいと思っている。ただ……」

 虹色の煙を追って瞳を揺らしながらアイヴィは言った。

「ただ、できるなら良き伴侶と出会って、愛し愛されていてほしいとは思う」

 ただそれだけを願う。

 ルシオは硝子の養生と、裏側に貼り付けていた型紙を外した。

 シュナウツがトコトコとルシオの足元にやってきて、出来栄えを見上げた。ルシオは昼寝でずれた片眼鏡を直してやる。


〔モニーク精肉店〕


「あした石が飛んできても知らんぞなもし」

 この時勢にガッラ人の名前で商売をするのは得策じゃない。もちろんルシオにもわかっている。

 だとしても。

「いつまでも根無し草気取りってのは、よくねえんじゃねえかと思ってな」

 塗料の缶に蓋をしてルシオは道具箱を抱えた。

 店先で肉球を舐めはじめたシュナウツに「あとで魔草屋の店主が迎えにくるって言ってたぞ」と言い残し、倉庫に向かうため正面扉を開けた。

 ふとアイヴィを振り返って訊く。

「アイヴィさんは、いつまでここにいるんだ?」

 共同住宅の二階の部屋は大家がとっくに新しい住人を住まわせており、宿無しのアイヴィは精肉店の奥の仮眠室に転がり込んで寝起きしている。元々アイヴィ・ダンテスは異臭やゴミ騒ぎで有名な迷惑住人だったから、大家が行方不明の借家人の帰りを待っていてくれなかったのは致し方ないことだ。

「新しい住処すみかが見付かるまでじゃな」

 吸い尽くして道に捨てた魔痺タバコをぺたんこの靴底で踏み消し、アイヴィは両目を細めて答える。

「もうじき老いぼれ犬のシュナウツがくたばったら魔草園を研究ごと継いでやってもいいと思っとるんじゃがな」

 シュナウツがぐるぐると歯を剥いて唸った。

「小娘、わしはまだまだくたばらんぞ! モニーク、こやつを今すぐ追い出すんぞ! この小娘は銀行の貸金庫にたんまり金と宝飾品を隠し持ってるんぞなからなもし!」

「なるほど。だから魔心屋アイヴィ・ダンテスは金を取らないわけか」

 老婆風味の服のしわしわの膝に肘をのせてアイヴィは頬杖をついた。

「金をいくら積もうとも居心地のいい場所は簡単には見付からないもんじゃ。特に今度の住処には、難しい条件があってな」

 魔心を失くしてもアイヴィ・ダンテスは魔草を焚いてそいつらと戯れながら魔心屋をつづけていくのだろう。

 異臭やゴミ騒ぎをうるさく注意されない住居を探すのは、確かに大変だろうな。

「そうか。じゃあ、ゆっくり探せよ。俺はしばらく倉庫で寝るから」

「べつだん私は気にせんがな。何しろ四十九の婆あじゃし」

 道具箱を抱え直してルシオは店に入っていく。

「馬鹿を言うな。四十九歳はまだまだ若いぞ」


 アイヴィ・ダンテスは、瞳をなくして笑った。




                                   〈了〉

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魔心屋アイヴィ・ダンテスと失われた娘 石川 @herma

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