処刑台の皇妃
〈赤い鉄線〉が、三十年をかけて拡げたその広大な版図の名を〈ふたたび現れた羊の帝国〉と変えてから一年が過ぎた。
皇帝を僭称しはじめたアマデオ・キンケルの傍らにはいつも、人形のように小さく大人しく美しい皇妃アイネ・ゴルトシャーフがいた。
〈ふたたび現れた羊の帝国〉は宣戦布告の用意を内部で進めていたヴィオロン侵攻を実行に移す前に、外交折衝によってヴィオロンの内政に干渉し、半幽閉中のダント・テスオロス王の退位と王太子の新王即位を求めた。アイネ・ゴルトシャーフの弟である王太子は辺境の館で事実上の蟄居生活を強いられてきた不運の王族だ。新王は〈赤い鉄線〉の革命で絞首されたガッラ王と〈剣授〉の義兄弟の関係にあったことから強硬な反〈赤い鉄線〉派であり、狂王ダント・テスオロスの政治的怠惰を利用してのらりくらりの生存戦略を保ってきたヴィオロンにとっては国内政治の均衡を崩しかねない嫌な要求だった。
よって、この要求は〈ふたたび現れた羊の帝国〉が開戦前にヴィオロンの弱体化を目論んだものとみられた。
しかし、〈ふたたび現れた羊の帝国〉もまた足元から揺らぎはじめている。
帝国皇太子妃アイネ・ゴルトシャーフを妻に迎えて帝国を再興するなどという荒唐無稽な考えと政治的理想の変節に、党員は指導者アマデオ・キンケルへの信奉をつづける者と造反者とに二分された。造反は水面下で進行していた。その影響は占領各地の抵抗運動の活発化に少しずつ発露しはじめた。前線では抵抗軍による都市奪還の戦果が聞かれるようになっていた。
そして、その大事件は皇帝夫妻の婚礼からきっかり一年目の日に起きたのである。
皇妃アイネ・ゴルトシャーフによるアマデオ・キンケルの暗殺未遂——。
皇妃の即日逮捕が公式発表された翌朝から事件は巷を騒がせ、まもなく皇妃の処刑が布告された。
皇帝を暗殺しようとした皇妃。
おそらくそれが合図だ。
ルシオは支度をはじめた。
処刑の朝は空気のよく乾いた晴天となった。
冬の入口の季節に群衆は興奮から発する湯気を上げながら広場を埋め尽くしていた。
火刑台には薪と丸太と藁が燃焼効率を熟慮し幾何学的な模様を描いて積み重ねられていた。
この現代に火炙りなんて野蛮すぎるとか、まるで大昔の万象教の魔心師狩りのようだとか、みな内心で思っていたとしても官憲の前で口にする者はいない。特にこういうとき広場に集まってくる者たちは、そこまで深く物事を考えたりしない。〈上げ草〉の匂いに酔わされて暴れる地下鬼と大差ない者たちなのだ。
党本部の前に設置された指揮台の
党本部の階段を役人に連れられてアイネ・ゴルトシャーフが降りてきた。幅広の黒い目隠しで小さな顔の半分が隠れているが、美しい銀髪と可憐な唇のかたちはアイネ・ヴィオロン・ユマーティカ・ゴルトシャーフ本人に間違いない。ほっそりした小柄な身体に青色のドレスを纏い、両手首を後ろ手に縛られたまま、彼女は確かな足取りで火刑台の頂へと上りつめる。
群衆の怒号が高まった。
売女とか。疫病神とか。帝国殺しの毒婦とか。あらん限りの蔑称と野次が投げ付けられ、方々から礫が飛んだ。
官憲が笛を吹いて群衆を抑えた。
藁に火が点く。
炎はあっという間に燃え上がり、乾いた風が吹くと灰まじりの煙はもうもうと広場にたなびいた。轟音をたてて丸太が火炎を噴く。陽炎の向こうでアイネ皇妃が身をよじった。開いた口から意味をなさない悲鳴が洩れる。
どこかで原動機の始動音が鳴っていた。だが群衆はわずかに伝わる地面の振動に気付く余裕がなかった。指揮台の櫓の上で踊っていたアマデオ・キンケルが古びた山高帽から黒光りする拳銃を取り出したからだ。
アマデオ・キンケルは片手に持った拳銃の銃口を、自身の目尻に刻まれた三本の皺に当てると、いともあっさりと引き金を引いた。
広場は騒然となった。
役人たちは群衆を広場から追いやるため官憲とともに走り回った。
党幹部の連中は愕然と顔を見合わせ、ある者はそのまま立ち竦み、ある者は党本部に駆け込んでゆく。
その間にも火刑台の業火は勢いを増し、広場に大風を呼び込んで、火の点いた灰を散らかした。目に沁みる煙に視界を奪われた人々は恐慌状態に陥って逃げ惑った。
右往左往と走る人々は肉屋の広告看板をぶら下げて広場を一周するポンコツ風味な原付二輪の存在にも気付くことがなかった。煙の壁に隙間ができた一瞬を狙い、青色めがけて鞭が振るわれ、小柄な肉の塊が出荷用の木箱にどすんと納められた。その一連の光景を目撃した者もいない。
人の流れにつられて広場に迷い込んだ仕入れ途中の肉屋のポンコツ二輪車は、何事もなかったように広場から人波とともに押し出され、動乱の兆しに粟立つ街の喧騒の中へと消えていった。
街道沿いの廃屋の裏手で肉屋は豚柄の焼き印がついた木箱から釘を抜いた。
「アイヴィさん、無事か?」
剥がした蓋の下、不自由に身体を折り曲げるアイヴィ・ダンテスが、久々のしかめ面を覗かせた。
「無事なわけがないじゃろ。手足は動かせんわ、振動で頭はぶつかるわ、真っ暗だわ、手足は動かせんわ、頭はガタガタとぶつかるわ、すきま風……」
「無事だな、よし」
ルシオは素早く蓋を打ちつけ直して、改造二輪に跨った。
架空の店名入りの前掛けからちょこんと老犬が首と舌を出してはあはあ息をする。
「ちんまい雌豚がぶうぶう喚いておるぞな。モニーク、何故あのまま丸焼きにしてやらなんだ。腐った肉など持ち帰ったところで買い手はつかんぞ。後家と腐肉は飢えた犬猫も食わん……」
シュナウツの頭を片手で押し込み黙らせながらルシオは車体を返した。
「まだ旧ガッラ本土内だからな、安心できねえんだよ。マラルサを突っ切って旧帝都に入るまでは我慢してくれ」
一人と一匹のぶつぶつとつづく文句は軍製原動機の轟かす音に掻き消された。
彼らが旧帝都に辿り着くまでの数日間で、〈ふたたび現れた羊の帝国〉とその周辺の情勢は刻々と変動していた。
アマデオ・キンケルの自殺があまねく大陸中に知れ渡ったその夜、ヴィオロン王国の支援を受けた抵抗組織が一斉蜂起し、旧帝国領北部の奪還に成功した。最高指導者の急死によって起きた権力移譲の混乱は、占領軍の統制にもすぐさま影響を与えていたのである。自治独立を宣言した旧帝国勢力は、しかし旧帝都以南での行動を自制した。旧帝都には〈赤い鉄線〉から入植した人間が多くいることから、本国人保護を至上命令とした帝都駐留軍との激しい戦闘が予想されたためだ。
自治独立の宣言につづいて万象教の若手聖職者から発せられた共同声明には、新政府によって実現されるべき信仰の自由と、占領者に相対してなすべきは戦闘ではなく対話であることが語られていた。——〈虚空神〉が人々に求めるものは祈りの自由と平和である、人々が心から求めるものを〈神〉もまた求める、と。
アマデオ・キンケルの死から五日経って巷に流れた噂には少し妙なものもある。党本部の地下で国葬の日まで安置されている棺から、真夜中に青いドレスの女が出てきて衛兵を驚かせたとか。
荒唐無稽な噂が大手を振って流れても市民を流言飛語の罪で検挙している暇がないほど、党幹部の権力闘争と粛清の嵐に〈ふたたび現れた羊の帝国〉はざわざわしていた。
情勢は、まだまだこれからも流動的で予断を許さない。大国スリャンが〈ふたたび現れたがすぐに忘れられそうな帝国〉に食指を伸ばしてこないとは誰にも言いきれない。
アマデオ・キンケルの死で特務役人の監視の恐れもなくなった〈カーン精肉店〉へ一年ぶりに帰ってきたルシオ・モニークは、健在だった老夫婦から鍵を受け取ってすぐ、店の再開に向けた準備に取り掛かった。
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