憂鬱なドロシー*後編
吹いてくる風が少しずつ冷気を含み始めてきた中で、私は美月と学校近くのクレープ屋を訪れていた。
二人が付き合い始めてから、そろそろ一ヵ月が経つ。
「昨日、
苺クレープを頬張りながらはしゃいでいる親友の前で、「はは」と渇いた笑い声を漏らしている私。作り笑いを浮かべるたびに、心に薄汚い澱が沈殿していく。
私の様子がいつもと違うことに気がつかないぐらい美月が浮かれていることだけが、唯一の救いだ。
「陸って不愛想だから誤解されがちだけど、本当はすごく優しいんだよね」
知ってる。
美月なんかよりも、私の方が、ずっと前から知っている。
「へえ」
投げやり気味に返事をしながら、チョコクレープにかぶりつく。
嫌に甘ったるくて、全然、美味しく感じられない。
「ほとんど話したこともなかったのに勢いで告白しちゃったから、正直、最初はちょっと不安だったけど。直観を信じて良かった」
胸焼けしそうになりながら、無理矢理、生クリームを喉の奥に流しこんだ。
「ふうん。お幸せにね」
私、本当に最低だ。
だって、心の中では早く別れちゃえば良いのに、だなんて思っている。
そんなこと思いたくないのに、どうしたって思ってしまう。
こんなの、親友失格だ。
*
偶然、美月と放課後に遊んだその翌日が、久しぶりの練習日だった。
今日は、珍しく、私が部室に一番乗り。
機材にベースのシールドを挿し込み、各々のつまみをひねって音作りを始めていたら、間嶋が部室に現れた。彼はこちらまで歩み寄ってくるなり、少し困ったような顔をして首を傾げた。
「なぁ、水瀬。今日の練習どーする?」
「へ?」
「河野から、体調不良で早退したから今日は練習行けなくなったって連絡きてる。とりあえず、お大事にって返しといたけど」
途端に、血管を泳ぐ小魚たちが、そわそわし始める。
「ボーカル不在で練習するのは、流石に厳しいか」
次の瞬間、何かに突き動かされたようになって、間嶋のワイシャツの裾を掴んでいた。
「えと、その……無理ではないと思う。二人で、練習しない?」
「良いけど、合わせらるのか? 構成が完全に頭に入っていないと難しいと思うけど」
「ば、馬鹿にしないでよね。遼太がいなくても、合わせられるもん」
「そうか。じゃ、やってみよう」
ふっと口の端をゆるめる。そんな少し馬鹿にされているような表情にすら、胸がぎゅっと締め付けられたようになってしまうなんて重症かもしれない。
『親友の彼氏と、二人きりだ』
違う。たまたま遼太が来れなくなったから、二人で練習をするだけだ。
決して、やましいことはしていない。
誰に責められているわけでもないのに自分で自分に言い訳をしたりして、何をしているのだろう。
屈みこんでエフェクターを操作しながら、何気ない風を装って聞いてみた。
「ところで、美月とは最近どうなの?」
「どうもなにも。まあ、普通じゃないかな」
「なにそれ。つまんないの」
「知るかよ。そういう水瀬はどうなの?」
それは、間嶋からしたら本当に何気ない質問だったのだろうけれども。
私のなけなしの理性を瓦解させるのには、充分だった。
「いるよ。好きな人が、いる」
「へえ。オレの知ってる人?」
脳が、警報サイレンを真っ赤に点滅させて、けたたましくサイレンを鳴り響かせ始める。口内は、急速に水分を奪われたようになってからっからだ。
もう、これ以上は、口にしたらダメだ。
後に、退けなくなってしまう。
しまうのに……!
「ねえ。もしも、間嶋だって言ったらどうする?」
静寂が、訪れた。
開け放った窓から吹いてくるそよ風が備え付けられた空色のカーテンをはためかせる音と、アンプから漏れ出るわずかな電子音がこの空間に流れる音の全てで。
ドラムスティックを手にした間嶋が、時を止められてしまったかのように固まって、私だけを凝視している。
今この時、彼の世界は、紛れもなく私だけだった。
ややもして、彼の薄い唇が半開きになり何か音を発そうとした瞬間、ハッと我に返った。
「なーんてね、冗談に決まってるでしょ」
まだ呆けたような顔をしている間嶋の視線から逃げるように、スタンドに立てかけていたベースを肩に背負う。
「間嶋は、美月の彼氏なんだから。好きになんて、なるわけがないでしょ」
その帰り道、別方向の電車にさらわれて彼の姿が見えなくなった瞬間、
もう、嫌だ。
こんな抱いていても苦しいだけの想いなんて、とっとと棄ててしまいたい。
どうして私は、親友の彼氏なんかを好きになってしまったんだろう。
*
肌を撫でる風が、本格的に鋭くなり始めた今日この頃。
塞ぎこんだ心で漫然と過ごしていたら、あっという間に文化祭がやってきて、楽しみにしていたライブ本番もなんとなく過ぎ去ってしまった。
間嶋への恋心を自覚してからは、美月と距離を置くようにしていた。というよりも、私が一方的に避けるようになったという方が正確かもしれない。幸せに満ち溢れている彼女と一緒にいて、嫌な自分を抑えられる自信がなかったのだ。
だから、ぼんやりと登校している最中に、美月の方から不意打ちで肩を叩かれた時には本当にびっくりした。
「おはよー、なんか久しぶりだね!」
振り向くと、美月の明るい茶色の髪は随分と軽やかになっていた。以前は鎖骨ぐらいまで伸ばしていた髪が、すっかり耳かけショートヘアへ様変わりしている。
「咲、最近忙しそうで全然構ってくれないんだもんー」
「美月! 髪、ばっさり切ったね!?」
「あー、そうそう。気持ちを入れ替えようと思ってね」
「どうゆうこと?」
「えっとぉ……陸と、別れたんだよね」
心臓が、大きな音を立てて飛び跳ねる。
「えっ、なんで!?」
「んー……やっぱり、あんまり相性が合ってなかったみたい。まぁ、元々、勢いだけで付き合っちゃったみたいなもんだしね」
そっか。
付き合った経験のない私には分からないけれど、そういうものなのか。
「はあー。折角、咲に協力してもらったのに、あんまり長続きしなかったなぁ」
それから他の話題に移り変わったけれど、相槌を打ちながらもどこか上の空で、ほとんど聞こえていなかった。
その日の放課後、珍しく間嶋の方から呼び止められて胸がひやりとした。話がある、と学校外に連れ出されたので、恐々と彼に着いて行く。
「なぁ、水瀬」
彼は、いつもと変わらず澄ました顔で、隣を歩いている。
少し長めの前髪も、艶やかな黒い髪も、私より少し高い身長も、何一つ変わっていない。いつも通りの、私が恋焦がれていた間嶋そのものだ。
それなのに。
つい昨日まで彼が纏っていた輝きだけが、すっかり消え失せて見えるのだ。
「オレさ、橋本と別れたんだ」
さして蒸し暑くもないのに、脇から冷や汗が滴り落ちる。
その言葉は、教室で呼び止められた時から、なんとなく予想できていた。
「どうして?」
「……まあ、元からあんまり互いのこと、よく知らなかったっていうのが大きいけど」
間嶋が立ち止まって、ゆっくりと私の方へ振り向く。
人通りの少ない、閑静な住宅街。
秋風が、私と彼の制服をはためかせている。
昨日まで、この切れ長の瞳に映るのが私だけだったら良いのにと、胸が焦げ付きそうなほどに願っていた。
「水瀬」
それなのに、どうしてなんだろう。
「オレ、たぶん、水瀬のことが好きなんだ」
これは、私が泣くほど切望していた言葉だった。
「オレと、付き合ってほしい」
そのはずだったのに。
どうして、こんなにも頭が冷めきっているのだろう。
*
「ねえ、美月。私、昨日、失恋しちゃった」
「へえ……って、ええっ!? そもそも、咲って好きな人いたの!?」
口をあんぐりとあけながら、ぱちぱちと瞳を瞬いている目の前の親友に複雑な気持ちを抱きながら、昨日の出来事に思いを馳せた。
『ご、めん。私、間嶋のこと、そういう風には見れないや』
間嶋から告白されたあの瞬間、私は紛れもなく、恋心を失っていた。
それまであんなにも彼のことを想って熱を帯びていたことの方が幻だったみたいに。
『……そっか。りょーかい』
淋しさを押し込めたような顔をして、無理に笑おうとする彼を見ていてすらも、心はびくとも揺れなかった。
『水瀬、冗談だって言ってたもんな。なのに、ちょっと、本気だったら良いのにって思ってた。オレ、ほんとにバカだな』
気まずい空気を和ませるように彼が掠れた声で笑った時、罪悪感で喉が締め付けられたようになって、息苦しかった。
『……ごめん』
『水瀬が謝ることじゃない』
『ちがう。ちがうのっ』
間嶋をあそこまで追い詰めてしまったのは、私だ。
あんな思わせぶりなことを言われたら、勘違いをしてもおかしくない。
それでも、募るのは後悔と自己嫌悪ばかりで、私の失われた恋が息を吹き返すことはなかった。
「ねえってば、咲! どうゆうことなの? 一から説明してよっ」
「ごめんね、美月」
「なんであたしに謝るの? あっ、もしかして……陸の、こと?」
思い当たる節があったのか表情が強張り始めた美月に向かって、ゆっくりと
「ううん。詳しくは話せないんだけど……違ったの」
昨日まで、私は、たしかに恋をしていた。
でも、それは、決して間嶋自身に対する想いではなかったらしい。
たまたま、間嶋が美月の好きな人だったから惹きつけられていただけ。親友の彼氏を好きになってしまったという、背徳的な状況に恋い焦がれていただけだった。もしも美月が好きになったのが遼太だったら、私は、遼太に恋をしていたのだろう。
だからこそ、彼が美月と別れた瞬間に、するりと魔法が解けてしまった。
まるで、色眼鏡を外されて、エメラルドの都はただの石の都だと知ってしまった『オズの魔法使い』のドロシーのように。
結局のところ私は、赦されない恋だから、心を燃やしていたに過ぎなかったのだ。
「ごめんね、美月」
それから、間嶋も。
身勝手な感情で振り回してしまって、本当に申し訳ないことをした。
「今度こそ、美月にも話せるちゃんとした恋をするね」
美月はじっと黙ったまま、いたわるような瞳で私を見つめていた。それ以上は何も聞かずにいてくれたことが本当に有難かった。
ドリンクバーで注いできたアイスコーヒーを、ストローで吸い上げる。
それは、今まで一度も味わったことのないような苦い味がした。
憂鬱なドロシー 久里 @mikanmomo1123
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます