憂鬱なドロシー
久里
憂鬱なドロシー*前編
「ねえ、
親友の突然のカミングアウトに、口に含んでいたオレンジジュースを噴き出すかと思った。
何故だか告げてきた当の本人以上に動揺しながら、声を潜めて返答する。
「ええっと……
「うん、そう。咲と同じクラスで、軽音部の間嶋くん」
やっぱり、あの
それにしても、どうして美月がアイツなんかのことを?
「へぇ、そうなんだ。でも、なんか意外かも」
「そう?」
「そうだよ! だって、アイツのどこが良いの?」
無愛想だし、ドラムにしか興味なさそうだし、何を考えてるのかいまいちよく分かんないし。バンドを結成してからもう半年近くの付き合いになるのに、未だに距離感も掴めていない。
喉まで出かかった言葉を、慌てて呑み込んだ。
誰だって、好きな人の悪口を言われたら良い気はしないだろう。
美月は白い頬をうっすらと上気させながら、口元を綻ばせた。
「クールな感じで、格好良いじゃん。それなのに、ドラムを叩いてる時は本当に楽しそうに笑うんだよ。思わずドキッとしちゃった」
「あー、終業式ライブのあの時かぁ。ってことは、私のことなんて全然目に入ってなかったってこと!? 私だって一生懸命ベース弾いてたのに! ひーどーいー!」
「え? あぁ。咲の勇姿もしっかり見届けてたよ、ついでに」
「ついで!? 美月をライブに呼んだのは私なのに!」
けらけらと笑って、目の前のアイスティーを口に含んでいる。同じタイミングで私もストローをくわえた。オレンジジュースの爽やかな甘みが口にいきわたる。
美月は、しばらく明るく染めた茶色い髪を指で弄んだ後、私を真正面から見据えてきた。
「それでね、咲。もし、良かったらなんだけど」
「うん」
マスカラに縁取られた意志の強そうな瞳が、珍しく弱気そうに伏せられる。
「間嶋くんのこと、協力してくれないかな」
いつも自信に満ちあふれている親友に似つかわしくない、掠れた声。
「もちろん。良いに決まってるよ」
私の言葉を合図にして、彼女の後方から光が差し込んだようだった。
「ほんと!? 嬉しい! ありがとう!」
美月の瞳がサンタさんからクリスマスプレゼントをもらった子供のように輝いた時、心臓がどきりと飛び跳ねた。
そっか。
真剣に恋をしている女の子って、こういう顔をするんだ。
*
廊下の開け放った窓から響いてくる運動部の歓声を脇目に、私は音楽棟を目指していた。肩には、ベースギターのずっしりとした重みがのしかかっている。この半年間で、この重圧感にも少しずつ慣れてきた。
今日は、一学期の終業式ライブぶりの練習日。
夏休み中は練習がなかったから、随分と久しぶりに感じる。
十一月の文化祭で披露する新曲を、初めて合わせる予定だ。
円形校舎になっている音楽棟に足を踏み入れると、吹奏楽部員達の奏でる色鮮やかな練習音に包まれた。譜面立てを前に自分の楽器を高らかに響かせる彼らの脇を通って、ちょうど半周ぐらいしたところに軽音部の部室は位置している。
防音のため二重重ね仕様のドアを、力を込めて押し開けた。
「やっほー」
瞬間、バスドラムの低音が心臓を揺らすようにずしりと響いてきた。音を漏らさぬよう、慌てて後ろ手にドアを閉める。
今日も、間嶋が一番乗りか。
彼は、いつもバンドメンバーの誰よりも早く部室に到着している。今日も、そこそこ広いスペースを有する部室中央に設置されたドラムセットに腰掛けて、既に練習を始めていた。
「間嶋、いつも部室に来るの早すぎじゃない? もしかして、掃除さぼってるんじゃないのー」
そこそこ大きめの声を張って話しかけてみたけれど、ドラム音は鳴り止まない。そもそも、未だに私が到着したことにすら気がついていないみたいだ。完全に自分の世界に入り込んでしまっている、相変わらずのドラム馬鹿ぶり。
ムッとしてわざと大きな足音を立てながら近づくと、彼はようやく手を止めた。
「
「気がつくの遅すぎ」
「ああ、ごめん。集中してたから」
あっという間に途切れる会話。
どう言葉を繋ぐべきか迷っていたら、間嶋の方から尋ねられた。
「今日合わせる曲、練習してきた?」
「もちろん。あったりまえでしょ」
「へえ、期待しとく」
話を振ってきた割にあまり興味もなさそうな顔をして、再びドラムを叩き始めようとしたものだから、慌てて遮った。
「ねえ、間嶋。間嶋ってさ、その……好きな子とかいるの?」
再び楽器に向けられようとした視線が、もう一度、私の方へと向けられる。
少し長めの前髪からのぞく切れ長の瞳の視界に捉えられた瞬間、胸騒ぎがした。
あれ。
間嶋って、こんなに整った顔立ちをしていたっけ……?
彼は、ただじっと私を見つめるばかりで、何にも返事をしてくれない。
積み重なる沈黙が作り出す神妙な空気が、嫌に心臓の鼓動を早めていく。
「べ、べつにっ、大した意味はないんだけどさ。そういえば、間嶋のそういう話って聞いたことなかったなぁと思って」
何故か、言い訳をするような口調になってしまった。
間嶋が、わずかに戸惑ったような顔をしながら口を開こうとしたその時、部室入り口のドアが空気を読まずに思い切りよく開かれた。
「ちーっす。二人とも、久し振りじゃん」
「久し振り。
「まーね。校則スレスレってところかな」
結局この日は、ギターボーカル担当の
*
「ねえ、本当に大丈夫なの? 部外者がいきなり行ったりして迷惑にならないかな」
「大丈夫だって!」
翌週の放課後。
私は早速、恋する親友を引き連れて、軽音部の部室前までやってきていた。
接点を持たないことには、実る恋も実りようがないもの。
「たしかに、協力してとは言ったけど……その、まだ心の準備がっ!」
頬に朱色を差しながら隣でわめいている美月をスルーして、馴染みの部室のドアを勢いよく押し開ける。
「やほー」
既にドラムセットに腰掛けて音の調子を確かめていた間嶋が、今日は部室に入ってきた瞬間に気がついたようで、のそりと顔をあげる。
「おっす」
彼は私に視線を向けた後、不思議そうに隣の美月に視線をやった。
「えっと、私の友達が、バンドの練習風景を見てみたいっていうから連れてきたの!」
憧れの人を前にしてすっかり固まっていた美月も、流石にもう後には退けないと悟ったらしく、意を決したように小さく息を吸った。
「あ、その……は、橋本 美月、です」
風に吹かれたら消えてしまいそうなか細い声。
「そ、その、いきなり、来たりしてごめんなさい。め、迷惑だった?」
同級生に話しかけているとは思えない、不自然さ。
ぴんと張り詰め始める空気。ああ、聞いているこっちの方まで緊張してきた。
間嶋は、私の親友の精一杯の言葉を受け止めると、相変わらずの素っ気ない様子で答えた。
「別に、いいけど」
「ほ、ほんとうにっ? ありがとう!」
彼女が喜びを隠しきれない様子で恥じらうように笑った時、それまで仏頂面を貫いていた彼が驚いたように瞳を見開いた。
「えっと……まだ練習始めたばっかりだし、そんなに期待されても困るけど」
口では平静を装いながら、照れを隠すように美月から視線を逸らして間嶋が腕まくりをした途端、胸がドキリと高鳴った。
あれ。
おかしいな。どうして、私の方までドキドキしているんだろう。
まるで、美月の心臓の高鳴りが伝染してしまったみたいに。
意志に反して加速していく鼓動を止められずに自分で自分のことが怖くなり始めたところで、入り口のドアが再び開かれた。
「よっす。あれ? 橋本じゃん!」
予想外の来客に目を丸くしている遼太に、美月は「あ、河野くんだ。練習、見学させてもらいたいんだけど良いかな?」と声を弾ませた。お気楽者の遼太は、彼女がここにやってきた真の目的など露とも知らず「マジで!? うわー、緊張しちゃうなぁ」とか言いながら、まんざらでもなさそうな顔をしている。そういえば、遼太と美月は同じクラスだったっけ。
遼太の登場によって、先ほど流れ出そうとした繊細な空気は一旦鳴りを潜め、普段通りの練習が始まった。そうはいっても、
結局、美月は飽きもせず最後まで私たちの練習を見学しきったので、その日の帰りは四人で駅まで向かうことになった。なんだかいつも以上に間嶋に話しかけることが躊躇われて、意図的に遼太に話しかけるようにした。
「文化祭までまだ日があるし、あともう一曲追加しても間に合いそうじゃね?」
「えー、もうこれ以上増やすのは無理だよ! キャパオーバーだって」
「いや、咲ならできる。今日合わせた曲だってもう完璧だったじゃん! 咲ってば、いっつも弾けない詐欺してくるんだからー」
「おだててもダメなものはダメ! もう、その手には乗らないんだからね!」
「ちっ。二度は騙されなかったか……」
きゃぴきゃぴと私たちが明るく会話を続ける傍ら、後ろからついてきている問題の二人からはいまいち楽しそうなオーラを察知できない。一応、会話はしているみたいだけれども、ぽつりぽつりと途切れがちなようだ。
そうこうしている内に、あっという間に駅まで到着してしまった。ここで『じゃあ、また明日』と解散になったのだけれども、間嶋と美月はたまたま電車の方向も同じだったらしい。
あの二人、大丈夫かな。
少し離れていてすら、どこかぎこちない雰囲気が伝わってきているけれども……。
同じ黄色の電車に吸い込まれていく二人を見つめていた時に感じていた不安は、帰宅後すぐに霧散した。
だらりとソファにもたれている時に、美月からかかってきた電話によって。
「ねえ、咲! あたしね、間嶋くんと付き合うことになった……!」
「ぶふっ!!」
青天の霹靂とは正にこのこと。
「えっ! う、ウソでしょ!? もう付き合ったの!?」
あまりの衝撃に鯉の如く口をパクパクさせることしかできないでいたら、美月は「本当はもっと慎重にいこうかと思ったんだけど……気持ちが、先走っちゃって。なりふり構わずに告白しちゃったんだけど、オッケーしてくれたんだ」と恥ずかしそうに笑った。
「ありがとう、ほんっとうにありがとう……! 咲のおかげだよ!」
「そ、そっか。おめでとう」
昨日、あの切れ長の瞳と視線を重ねたあの時のことが唐突にフラッシュバックして、心臓が嫌な風に飛び跳ねる。
どうして、今このタイミングで?
「美月が好きな人と付き合えて、私も嬉しいよ」
言葉を取り繕った時、黒い霧のように纏わりついてくる罪悪感に息苦しさを覚えた。
私、嘘吐きだ。
親友が、今まで一緒に過ごしてきた中で一番幸せそうな声で感謝を告げてくれているのに、心が重たく沈んでいくのを止められないなんて。
*
「間嶋ー、今日の放課後って空いてる? 遼太から、三人でファミレスでも寄らないかって連絡きてるけど」
「ごめん、今日は無理」
「えっ」
「橋本と帰る約束してる」
「あ、そっか。そうだったわ」
それはそうか。
なんといっても、彼女ができたのだ。
「悪いな。また今度で」
一週間前から付き合い始めて今まであまり実感がなかったけれど、そりゃあ、完全に今まで通りってわけにはいかないよね。
スクールバッグを手にして既に帰る準備万端の間嶋が、急にじっと私の頭のあたりを睨んできた。思わず廊下の壁際に後ずさると、開いた距離を埋めるように近づかれた。
「な、なにっ」
「動かないで」
急に手を伸ばしてきたから何をされるのかと思って目を瞑ったら、前髪に触れられて。そこには神経が通っていないはずなのに、肩がびくりと跳ねた。
まるで、淡い電流が走ったみたいに。
「ん。ゴミ、取れた」
少し動いたら触れてしまいそうなほど近くにいる間嶋を、放心状態で見つめ返す。身体がその場に縫い付けられてしまったようになって、動けない。
「ははっ」
「な、なにがおかしいの」
「いや。水瀬が、あんまりビックリした顔してるから」
彼が首を傾げながらこぼした控えめな笑顔がやけに眩しく感じられて、頬が、身体が、どんどん熱くなっていく。鼓動がとてつもなくうるさい。間嶋にまで聞こえてしまうんじゃないかって心配になるぐらい。
「じゃ。また、明日な」
彼が階段の向こう側に消えていくまで、一時も、その背中から目を離せなかった。しばらくの間立ち尽くていることしかできなくて、多くの同級生に不思議そうな顔をされたけれど、全くそれどころじゃなかった。
どうしよう。
瞳から、つるりと涙が滑り落ちた。
拭っても拭っても、こぼれてくる。
間嶋は、美月の彼氏なのに。
私、アイツのことが、好きだ。
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