わすれもの

ヒガシカド

わすれもの

 彼はやっとの思いで森を抜けた。時計の針は夜の十一時を指しており、フクロウと思わしき鳥が一定のリズムで静かに鳴いている。

 彼は旅人である。彼は何も無い、何者にも邪魔されない世界を求め旅していた。しかし、森を抜けた先に小さな人家を見つけ安堵する自分を嫌悪することはできなかった。

 家の前まで来ると、彼はトレンチコートについた土や葉を手で払った。

「夜分遅くにすみません、どなたかいらっしゃいませんか」

 鍵を開ける音がした後、痩せた男が顔を覗かせた。

「旅の者です。今晩泊めていただけませんか」

 男は無言で部屋に目をやり、奥へ入った。彼はそれを了承の返事と取り、男に続いて家の中へ入った。

「ここを」

 男が示したのは、木の簡易ベッドが一つ、ガラス張りで人形が飾られた棚が一つ、小さめの本棚が二つあるだけの簡素な部屋だった。

「何かあれば」

 男は自室へ去った。

 どうしたものか。彼は部屋をぐるりと一周した。といっても、さほどの広さは無い。彼は全ての引き出しを開けて探ってみたが、物は入っていない。つまり部屋には人形が一体、それ以外には何も無いということだ。

「札がついているぞ。成程、この人形の名前はアンジェリカなのか。こんばんは、ミス・アンジェリカ」

 彼はルームメイトへ優雅に一礼した。

「ミセス」

 振り向くと、いつの間にか男が彼の側に迫っていた。

「彼女はミセス・アンジェリカ」

 男は言うと踵を返した。彼は彼女に再び一礼した。


 翌朝、彼は男と共に朝食をとった。部屋といい男の態度といい奇妙な点が多くあり、彼は一刻も早くこの家を去りたいと考えていたのだが、男は何故か熱心に朝食を勧めてきた。彼は折れ、今に至る。

 明るい場所でよく見ると、男はさほど年をとっていないようだ。彼と同じか少し上だろうか。

「ご職業は何です?」

 彼は沈黙を苦にして口を開いた。

「古物商を」

 男は短く答えた。

「店は街に持っていらっしゃるんですか」

「いいえ、この家で」

「そうなんですか。後で売り物を見てもよろしいですか」

「もうすでに見たはずだ、その内の一つを」

 彼は怪訝そうな表情を浮かべた。見たものといえば、棚と人形くらい。

「この先も、まだ険しい道が続く」

 男は唐突に話し始めた。

「君ら旅人は、死ぬ」

 彼は黙ったままでいる。男は続けた。

「しかし、この家を出る時に忘れ物をしなかった者だけが生き残る事ができる。そういうジンクスがある」

 男は言葉を切った。

「あの人形は、ミセス・アンジェリカの忘れ物」

「そうなる」

 二人は沈黙した。

「今すぐ荷物をまとめます」


 彼は階下に戻ると、身の回りを綺麗にし始めた。念入りに、かつ素早く。この家に何も残してはならない。二十分後、彼は玄関に立っていた。

「泊めてくださりありがとうございました」

 彼は簡単に挨拶を済ませ、男の家を去った。


 彼の姿が見えなくなるまで、男は玄関先に直立していた。男は右の握り拳を開き、中にあったボタンを眺めた。

「あのコートか。しかし売り物にはなるまい」

 男は考えた。

「ミセス・アンジェリカにならって、人形に作り変えるか」

 男はボタンを下駄箱の上に置き、自室から裁縫箱を取ってくると外に出て、適当な切り株の上に座った。

「外での裁縫ほど快いものはない」

 作業は順調に進んだ。男は昼食も取らず人形作りに励んだ。そして夕方、人形はほぼ完成形となった。残りはボタンを付けるのみ。

 男は気づいた。

「忘れたぞ、ボタン」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わすれもの ヒガシカド @nskadomsk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ