平田警部補の事件簿

小石原淳

第1話 うつされた死体

 梅雨入り前の最後の晴れ間になりそうな、日差しに熱を感じる一日だった。夕方近くになって気温は少し緩み、いくらか過ごしやすくなったものの、暑いことは暑い。週末のそんな金曜日だった。

 大熊吉人おぐまよしとは駐車スペースに愛車のミニバンを収めると、深く息を吐いた。半袖シャツから覗く太い腕で、額の汗を拭う。

 目で確かめると、思ったほど肌に汗は付かなかった。

 これから行う予定の“大仕事”に、柄にもなく緊張している。そのせいで、かいてもいない汗を意識したのだろう。落ち着かねば。

 大熊は改めて深呼吸した。そして車から降りると、目と鼻の先にある平屋和風建築に向かう。

 大熊の実家だ。と言っても、住んでいた両親は四年前、すでに他界しており、あとを見る親戚もいなかったため、空き家になるところだった。大熊が移り住んだのが、三年半前。軽い肺炎を一度やって以来、空気のきれいなところに住みたいなと漠然と考えていたのでちょうどよかったと言える。

「ただいま」

 小声で言って、三和土で靴を脱いで上がる。いつもなら郵便受けにほったらかしの夕刊が、今日は取り込んであると気付いた。待ちくたびれて、新聞でも読もうとなったのだろう。

麗菜れいな。ただいま」

 居間兼食堂に入ると、安谷麗菜やすたにれいなが可動式の鏡の前で、髪をとかしていた。結構暑い一日だったのに、橙色をしたカーディガンを着ている。日焼けを気にする辺り、女と男の違いを感じる大熊だった。

「お帰りなさい。もう、遅いよ。あんまり遅いから、ついうとうとしちゃったじゃない」

 第一声こそ優しげな調子だったのに、続く言葉はやけにつんつんしている。昼休みに彼女の家を訪ね誘い、この家まで送り届けたあと、ずっと留守番させていたのだから、無理もない。

「悪い悪い。生徒の質問に捕まってしまってさ」

 片手で拝む格好をし、付き合い相手に詫びる。

 大熊は大学で経営学を修めた後、友人と教材開発の会社を起ち上げた。ヒット商品をいくつか生み出したものの、その友人と金銭トラブルになり、あえなく廃業。現在は小中学生を対象にした塾で講師をしている。

 ただし、今日は本当は休みだった。“大仕事”のために、準備する時間が必要だったのだ。

「中途半端なのよね。食べに行くにはちょっと早いし、今からできることなんてない」

「いや、プレゼントを買いに行こう。前に言っていた何とかっていうネックレス、あれなら大丈夫だ」

「ほんとに?」

 安谷の声が喜色を帯びる。さっきまでの不満はどこへ行ったのかという変わり様だ。

「よっくん、話せる~」

 抱きついてこようとする彼女を手で制する大熊。

「準備があるんだろ。早くして」

 本当は、抱きつかれた際に髪やら皮膚細胞やらが、相手の身体に移ることを嫌っての行為だった。

 安谷はそのことに気付いた様子もなく、無邪気に応じる。

「ううん、別にこのままでもいい」

 そう答えた安谷だったが、スカートに皺が寄っているのに気付いたようだ。

「やっぱり、下だけ着替える。ちょっと待ってて」

 半同棲生活を送っていた時期もあったため、安谷の衣服の何組かはこの家にまだ置いてある。

「急がなくてもいいぞ。レストラン、予約してる訳じゃないんだし」

 クローゼットに飛んで行き、続いて脱衣所に向かう安谷を見送りながら、声を掛ける。

「でもまた何で? 誕生日には早いし、記念日、何かあったっけ」

 安谷の問い掛けに、大熊は新聞を片付けながら答える。

「何にもないときにプレゼントされる方が、より嬉しくない?」

「そうかも。じゃ、私の方も今からプレゼントを用意するのは無理だけど、せめて感謝の気持ちを表さなくちゃいけないね」


 助手席に彼女を乗せ、自分は運転席側から乗り込もうとしたタイミングで、大熊は「しまった。降ろしておく荷物があったんだった」と言い出した。無論、予定通りのお芝居である。

「えー、タイミング悪いー」

「帰るのが遅れて焦ってたんだよ。麗菜に少しでも早く会いたくてさ、忘れてた。ちょっと待ってて」

 愛車の後ろに回り、バックドアを開ける。荷物は置いてあるが、降ろすつもりはない。

 大熊はジャケットの懐から紐を取り出しつつ、助手席の背後へとにじり寄った。前もってシートを倒してあるから、障害物はほとんどない。

 勘付かれるようなら、「前を向いて。実はもうネックレス、買ってあるんだ。着けてやるよ」なんていう段取りを想定していたが、必要はなかった。安谷は前を向いたまま、やや俯きがちの姿勢で大人しくしている。

 大熊はこれから凶器となる紐を、素早く彼女の首に掛けた。そして助手席のシートと背中合わせになるよう、自分の身体の向きを換えると、いわゆる地蔵背負いの形に紐を両手で思い切り引いた。

「ぐ」

 短い声が聞こえた気がしたが、気にしない。今はただただ紐を強く引き絞ることに集中する。

 二、三分か、それとも五分以上経ったろうか。振り返って、安谷の息の根を止めたことを確かめた大熊は、手の力を慎重に緩めた。このあと、首吊り自殺に見せ掛けるのだ。首の絞め跡と紐とがずれないように、ガムテープを貼っておく。

 それからシートを倒し、物体と化した安谷麗菜を後ろの荷物スペースに引っ張り込んだ。このままでは遺体が丸見えなので、前もって用意していた黒いゴミ出し用の袋で覆い隠す。ゴミ袋は、両親が昔買って仕舞い込んだままだった物だ。ようやく役立てることができ、無駄にせずに済んだ。

(これからが肝心だ)

 今日、三度目の深呼吸をする大熊。車を出ると家に入り、廊下を走った。安谷が最前着替えて脱いだ方のスカートを、脱衣所の洗濯籠の中から回収する。紙袋に詰めてから、自宅の固定電話を使い、知り合い何人かに電話を掛けた。

「携帯端末の調子が悪くて修理に出すつもりなんだ。大丈夫とは思うけど、念のため、固定電話の番号を知らせておこうと思って。そっちに表示された?」

 このフレーズを繰り返した。アリバイ作りのためだ。

 偽装工作を三十分ばかり続けた後、くだんの紙袋を持って車に戻った。これから約四十分をかけて、安谷の家に向かう。

 安谷麗菜は両親とも歯科医で、裕福な家の生まれなのだが、大学に入って間もない頃に禁止薬物に手を出し、それが親にも知られてほぼ勘当同然に放り出された。と言っても、大学卒業までの金は出す、住まいは古くなった別荘をやるという大甘な裁定だった。

 警察沙汰にせずに処理したのは両親が世間体を気にしたからであるが、そんな秘密を打ち明けるくらい、大熊と安谷は互いに心を許していた。

 変化が訪れたのは、大熊の方。塾講師として、ある三兄弟姉妹を続けざまに有名高校・有名中学に合格させたのだが、その子らの親が大熊を高く買い、良縁を持ち込んできた。相手は、大手事務機器メーカーの社長の長女。文学少女がそのまま大きくなった感じで、商売や会社には興味がない。年頃になっても、父親のコネで見付けてきた相手をことごとくはねつけ、これはよそから見付けてくるしかないぞという情勢になっていた。

 社長には長男がいたが、彼に万が一のことがあった場合を考え、長女の婿にどこの馬の骨ともしれぬような輩を宛がう訳にも行かぬ。野心は持たないが、いざというときに相応の対処が取れる素養のある者をという条件に、大熊はぴたりと当てはまった。

 大熊としても、舞台裏までぶっちゃけてくれた上での打診に、むしろ好感を持った。相手の女性――川島奈央かわしまなおと会ってみて、特段問題が浮き彫りになるでもなく、どちらかといえば話は合った。強いて言うなら、大熊は年上が苦手だったが、顔かたちは好みの範疇だったし、気にするほどじゃないと受け止めた。

 問題は安谷麗菜だった。仮の話を装って、もし別れると言ったらどうする?みたいな形で水を向けると、強硬に別れないと言い張った。「もし私と別れて新しい女と付き合うつもりなら、その女にはあることないこと伝える。私には薬の前歴があるから、一緒にやっていたことにしたら鵜呑みにするかもね」などと言い出す始末。

 この調子では将来別れを切り出しても、きれいな決着は不可能だと感じた大熊は、熟慮の末に結論を下した。つまり、安谷麗菜を亡き者にしようと。

(麗菜があんな別荘に住んでくれていて、ラッキーだった)

 計画を立てるに当たって、安谷の家が大熊の家から近からず遠からずの距離にあり、しかも車庫が地下に潜る形で設置されている点は、とても重宝した。あの設備のおかげで、遺体を彼女の自宅に搬入するという難題が、比較的楽に片付く。人目を遮ってくれるのが大きい。

 安谷のキーホルダーにあるスイッチを使い、地下車庫のシャッターを開け、バックで進入。再びシャッターを閉じたところで、また一息つく。今度は別のキーを使って車庫奥横のドアを開けようとしたが、ロックされていなかった。シャッターを閉じておけば必要ないということらしい。

 それでも念のため、そのドアから家の中に入り、ざっと見て回った。侵入者がいるなんてことはなかった。

 改めて車に戻り、安谷の遺体を担いで運び出す。

 どこに吊すかの目星は付けていた。家の中央を走る太い梁。その一本が、飾り彫りの施された欄間で、貫通した穴があるため紐を通しやすい。丈夫さはテスト済みである。

 目当ての位置に、安谷の遺体を吊り下げてから、再び車に戻る。助手席に敷いてあった尻当てと、大熊自らが持ち込んだ皺の寄ったスカートを取って、また家の中へ。首吊り遺体の元まで来ると、まずスカートを履き替えさせた。そして遺体の真下に、木製の椅子を配置し、さらにその上に尻当てを表裏を間違えぬように置いた。

(麗菜はここで椅子を踏み台にして首を吊った。失禁して下の尻当てに滴り落ちた。スカート履きだから、スカート自体は濡れなかった)

 おかしくないよな。と大熊は口の中で呟いた。

(あと、願わくば、麗菜が私の言い付けを守っていたのかどうか、確認を取りたいところだけれど)

 大熊は安谷と男女の付き合いを進める中で、「周りには内緒にしておこう」と希望を出していた。未だに聖職者とみられがちな職業だから、なるべく伏せておきたい。あんまり言いたくないけど、麗菜には薬の件があるしね。そんな女性と付き合っていて、子供に勉強を教えるなんて以ての外!」ってな具合の過激な保護者もいるご時世だし――そういった説得に、安谷も納得していた様子だった。

 ただ、公言していないからといって、個人的な記録を残していないとは限らない。ここに来るまでの間に、携帯端末の通話履歴や画像は全てチェックした。あとは、部屋に日記帳の類がないか調べねば。

 それから――三十分近く探したが、日記やそれに類する物は出て来なかった。見付からないイコール日記はなかったとは断定できない。元々、百パーセントの結論を求めるのは無理だ。

(もしも麗菜との関係を警察に掴まれたときは、かつて付き合っていたことそのものは認めるとしよう)

 実際にそうなる可能性は低いだろうと踏んでいた。


「あなたが大熊吉人さん?」

 大熊が塾教室での一コマ目を終えて、控室に戻ってくると、事務員からお客様ですと伝えられた。警察だという。

 どきりとしつつも平静を装って、その訪問者が待っているという応接室に出向く。ドアを開けるや、ソファから弾かれたように男が立ち上がり、名前を聞いてきたのだった。

「はあ、そうですが」

「こんな待ち構える形になって、すみません。次の授業は?」

「他の人に代わってもらいましたから、大丈夫ですよ。それよりもあなたのお名前は……何でも警察の方とか」

「こりゃいけない。挨拶がまだ途中でしたね。私、平田民洋ひらたたみひろと言います。階級で言えば警部補になりますが、ドラマなんかで見るいわいゆる刑事だと思ってくださって結構です」

 そこまで話したとき、応接室のドアがノックされ、さっきの事務員が熱いお茶をお盆に載せて運んで来てくれた。

「ありがとう。あの、所長はこのことは?」

「伝えていませんけど」

「それならいいんだ。あとで私自身で報告するから」

 事務員を送り出し、ドアをきっちり閉めてから、大熊はソファに座り、平田もその正面のソファに腰掛けた。お茶の湯飲みとお盆の載ったローテーブルを挟み、やり取りがスタートする。

「それで刑事さんは、一体何の御用で来られたんですか」

 交通違反を犯した覚えはないけれども、知らない内に速度オーバーしていたのなら罰金を払いますよ云々と付け足そうとしたが、すんでのところでやめた。あまりにも芝居がかっている気がしたから。

「おや。心当たりがない? では最初からお話しするとしましょう。先生のお知り合いの方が亡くなられたので、こうしてやって来たんです」

「“先生”は何だか居心地が悪いな。名字にさん付けでお願いできませんか」

「あ、かまわないですよ。大熊さんは安谷麗菜という女性とお知り合いですよね?」

「――そうですね」

 一瞬、否定しようかという誘惑に駆られた。だが、当初に決めた方針通り、事実を把握されたときは、とりあえず付き合っていた過去だけは認める。これで行く。

「知り合いだったと言うべきでしょう。別れて半年は経つはずだ」

「別れた? ふうん。何が原因で? あ、いや、いきなり根掘り葉掘りで失礼。これも警察の仕事なんでお答えいただけると幸いです」

 刑事から悪印象を持たれぬよう、返答の拒否はしない。大熊はしばし考えた。

「半年ぐらいに前に、僕は別の女性と結婚を前提に付き合うことになりましたので、安谷さんとは別れることにしたんです」

「もめなかったんですか」

 質問を発すると、平田警部補はお茶をごくりとやった。そのときも両の眼はしっかりと大熊の表情を窺っている。

「少しごねられましたけど、最終的には理解してくれましたよ。それ以来、音信不通でしたから……話の流れからすると、安谷さんが亡くなったのでしょうか?」

「はい、さようで。別れたと仰るあなたに言うのも変かもしれないが、お悔やみ申し上げます」

「いつどこで? どんな風に亡くなっていたのですか」

 単なる関係者として、気にして当然の事柄を聞き返す大熊。だが、平田刑事は返事を渋った。

「うーん、すみませんが、そういうことは後回しにしてですね。質問に来たのは私の方なので、まずは答えていただきたいんですよね」

「あ、そうですよね」

 平田の人懐っこさと柔らかい物腰に絡め取られ、大熊は質問を引っ込めた。内心では警戒を強める。

(まずいな。これでは麗菜の死に様に関して、こっちは何も知らないふりをしなければいけなくなったぞ。知らないはずのことを口走ってしまわぬよう、気を引き締めなくては)

「まず……話の順序として、どうして大熊さんを訪ねたかについてを説明します」

 平田刑事のその言葉を、大熊はありがたいと思った。

(そうだ、その点は気になっていた。麗菜と自分を結び付けたのは何だったんだ? 日記やメールはないはずなんだ)

「安谷さんのご遺体を調べたところ、口の中から便箋が見付かりまして」

「口から便箋……」

 刑事の口から思いも寄らない情報が飛び出し、大熊は絶句してしまう。頭の中では混乱の嵐が吹いていた。

(便箋? 何でそんな物を口に。そこに書かれた文章が、つながりを示す内容だったのか?)

 唾を飲み込み、刑事の話の続きを待つ。

「歯でしっかり噛まれていたことと、唾液で濡れていたせいで、しかとは読み取れていなんですが、どうにか判別できた文字は、『大熊吉人』『サプライ』『プレゼン』『ありがと』『感謝』『お返しし』そして最後に『谷麗菜』と読めました」

「……私への感謝?」

 呆然として答える振りをしつつ、胸の奥では全く別のことに思いを馳せる大熊。

(麗菜のやつ! お礼をしなきゃなとか言ってたけど、あの場ですぐに感謝の気持ちを手紙で表そうとしてたんだな? 似合わないことをしやがって。――そうか。助手席で下を向いていたのも、手紙の文章を読み返していたのか。そこを私が首を絞めた。麗菜は殺されると感じて、犯人の名前を残すつもりで便箋を口に入れたんだ。まずい。これはまずいぞ)

 脳細胞をフル回転させるつもりで、対策を練る。やがて一つの閃きが訪れた。

「け、刑事さん。口に便箋て、どんな死に方なんですか? そもそも、事故なのか殺されたのか」

「ええ、私は捜査一課の人間でして、一応自殺と他殺の両面ですが。私はまあ、他殺だろうという線で、捜査しております」

「つまり、殺されたと」

「自殺と考える刑事もいるので、私はまだ断定はしません」

「自殺にも見える死に方って? 教えてくださいっ」

「仕方がありません。お教えします。安谷麗菜さんは、自宅の梁に通した紐で首を吊った格好で、亡くなっておりました」

「ええ? じゃ、じゃあさっき聞いた便箋は……遺書ではありませんか」

「はい。そのような見方をする者もおりました。確かに」

 あっさり肯定され、ほっとしたのも束の間。大熊は平田刑事の話の語尾が過去形だと気付いた。

「実は他にも自殺にしてはおかしな点が見付かっていまして」

「何なんです、それは? 出し惜しみせずに、早く教えてくださいっ」

「出し惜しみしてるんじゃあなくって、物事には順番があります。この発見は、司法解剖のときに判明した物でして。ご遺体の左肘から二の腕に掛けて、文字が転写していたんですよ」

「転写?」

 突然、使い慣れない言葉を使われたように感じて、おうむ返しをした大熊。平田警部補は一つ頷き、手帳を取り出してページを繰った。

「写真があればそれを見せて一発で理解してもらえるんですが、生憎と今日はまだ持ち出せないので、言葉でお伝えしますと……その転写物は黒っぽい文字で、新聞の紙面が写ったインクの跡だと分かりました。I新聞、五月三十一日付の夕刊の判明しております。この五月三十一日というのは死亡推定時刻に重なります。つまり、安谷さんは死ぬ直前まで新聞を見ていて、腕に文字が写った。そのことに女性が気付かずに自殺するものでしょうか?

「……ま、まあ、普通なら気付くでしょう。死んだあとも身ぎれいでいたいものでしょうから」

 認めざるを得ない。大熊は密かに歯軋りをした。

(麗菜め、新聞を取り込んでくれたはいいが、インクの痕跡が着くほど読むなんて。いや、逆か? 私が帰るのが遅くなったせいで、待ちくたびれて新聞を読む気になったが、広げた紙面の上で寝てしまった?)

 ついていないと思った。

 もしかすると、自分の帰りがちょっと遅れたことが、全ての原因なのか?

(だが、まだだ。落ち着くんだ。決定的な証拠は出ていない。刑事が言ったのは何だ? 自殺を否定する論拠だけだ。私とのつながりを示す文章だって、過去のこと。遺書で昔の男に付いて触れていても、別に不思議じゃあるまい)

 大熊は最後まで白を切ると決めた。

「お話を聞いた限りでは、自殺とも他殺とも、どちらとも取れるんじゃないですか?」

「いやいや。とんでもない。今言った新聞の件ですが、ここに自殺ではない決定的な理屈が秘められています。彼女の家は新聞の配達をしてもらっていないんですよ」

「はあ?」

 力が抜けた。塾講師として、世間の動向や情報を新聞で得ることは、身に付いた習慣だ。まさか、麗菜が新聞を取っていないとは。大熊はついさっきしたばかりの決心もどこへやら、あまりの成り行きに笑いそうになっていた。

「安谷さんはI新聞どころか新聞そのものを取っていない。もちろん、亡くなった当日に駅かどこかで買って来た可能性はあります。しかし、その新聞が彼女の家のどこにも見当たらんのです。腕に痕が写るほど見た新聞を、家に持ち帰らずに捨てたというのはまず考えられない。そして私どもが調べたところ、大熊さん、あなたはご自宅宛てにI新聞を届けてもらっていますね?」

「……ええ」

 続く刑事の台詞を、大熊はもう聞きたくはなかった。

「これからご自宅にある五月三十一日付のI新聞夕刊を調べます。恐らく、安谷さんの触れた痕跡が多数見付かるでしょう」

 平田刑事の先刻を半ば呆然として聞きながら、大熊はふと気が付いた。

(そうか。あの日は暑かったのに、麗菜がカーディガンを羽織っていたのは、日焼けを嫌ったわけじゃなかったんだ。腕に着いた新聞の字を、私に見られて笑われるとでも考えたんだな)


 終わり

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平田警部補の事件簿 小石原淳 @koIshiara-Jun

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