第3話 冒涜の赤玉

「香澄さん、質問があるの」


 夜。お日様の匂いが香るリネンに横たわったお嬢様が、お尋ねになりました。


「どうして人は眠るのだと思う?」

「睡眠の意義、ですか」

「だって、起きている方が楽しいのだもの。香澄さんとお話できるし、本も読めるわ。だけど眠ってしまったら何もできないでしょう?」


 お嬢様と暮らすようになってはや一週間。毎夜、就寝前のこうしたやりとりは半ば習慣になっておりました。お嬢様にとって、毎日は発見の連続。よほど新鮮な感性をお持ちなのでしょう。

 そのため私も、回答には一苦労します。


「人間をはじめ、生命にとって睡眠は必要不可欠だから、でしょうか」

「ええ、お屋敷のそばでフクロウやリスが眠っているのを見たわ。生き物にとって睡眠は大切なもの。でも、なぜ、眠らないといけないのかしら」


 お嬢様は庶民的な常識こそ欠如していますが、知能が低い訳ではありません。物事の本質を見極めようとする賢さを備えています。それが純粋な好奇心の発露なのか、幼少のみぎりより養われた薫陶のためかは不明ですが。


「すみません。学がないので断言はできませんが、生物学を学べば答えが見つかるやもしれません」

「魔女の香澄さんでも分からないことがあるのね……」

「あいにく、高卒ですので」

「お屋敷の書斎を調べれば見つかるかしら?」


 一応、シャーロット記念邸には書斎がありますが、割れた天窓から風雨が吹き込むというほぼ野ざらしの状況です。書籍の類はほとんど朽ちてしまっており、一部を除いて読むことはおろか、本としての体裁を保っているかどうかも怪しいものです。


「おそらく、難しいかと思います」

「そうなのね……」


 しゅん、と残念そうに唇を尖らせると、お嬢様は布団を引き上げて口元を覆い隠しました。そんなお嬢様の額をひと撫でして、ベッドサイドのライトを薄明かりに調光します。これがおやすみの挨拶です。


「もしかしたら、夢の中で解決策が見つかるかもしれませんよ」

「ええ、きっと見つけるわ! おやすみなさい、香澄さん」

「よい夢が見られますように」


 意気込んで夢の世界へ落ちていったお嬢様を見送り、ベッドサイドを離れました。静かに私室のドアを閉めれば、メイドとしての一日も終わります。


「ふう」


 部屋の外で、お嬢様に聞こえぬようため息をつきました。今日はなかなかにハードな一日でした。お茶漬けにお洋服の改造、そしてシエスタの中止。もちろん、お嬢様のために遂行することがメイドの勤めですので、不満はありません。

 不満はありませんが、やはり疲れる時は疲れるというもの。


「こういう日は、飲むに限りますね」


 住み込みのメイドにとって、ご主人様が寝静まればプライベートタイムです。気持ちを切り替え、少しばかりるんるんとした足取りで、地下室へ続く薄暗い廊下を歩みます。


「ふふ」


 シャーロット記念邸には地下階があります。余程の道楽者と見える以前の住民の物であろう映写機やスピーカーが並んだ防音室が一室。ガラクタの倉庫が一室。書斎のような野ざらしではないものの、どちらも湿気でダメになっていましたが、私の興味はそちらではありません。地下に残っていた、もう一室のほうです。


「今日はワインにしましょうか」


 誰に告げるともなく口にして、ひんやりした地下室の棚に並ぶ瓶を手に取ります。


 赤玉ポートワイン。かつて流通していた国産ワインです。

 お屋敷勤めの初日。ひんやりした地下階にワインセラーを発見した私は、心密かに小躍りしたものです。なにせ住人が去って幾星霜、立ち入る者のない地下は酒類――特にワインの熟成に最適な環境だったから。

 多くのヴィンテージボトルが死蔵されている中でも、心躍ったのがこの赤玉。赤玉ポートワインはその昔、ポルトガル政府から抗議を受けて赤玉スイートワインに名を変えた歴史があるのです。この出来事が今からおよそ半世紀前、つまり未開栓の赤玉ポートワインは現在となっては幻のワイン。半世紀は眠っていたヴィンテージという訳です。思わず唾液を呑み込みます。


「このラベルの色褪せ具合、たまりませんね」


 喜び勇んでキッチンへ舞い戻り、作法に則って赤玉をデカンタ――ワインの澱を分離するための容器――に移しました。赤玉はまだ何十本と死蔵されていますし、どうせ一晩で飲みきってしまうので問題ありません。


「では、おそらく半世紀ものの赤玉」


 キッチンの裸電球で、デカンタからサーブしたグラスを照らします。色は濃赤。かつて人気アーティストが歌ったワインレッドよりも赤く濃い、それはまさに血の一滴。

 薫りはどっしりとした葡萄と鼻を刺すような酒精。ポートワインは酒精強化ワイン、途中でブランデー等の蒸留酒を加えるため、他のワインよりアルコールの香りは強めです。ただ、葡萄酒特有の酸味の刺激臭はまろやかになっています。


「いただきます」


 一口含んだ途端、渋味が舌を突き刺しました。瞬間、酒精の薫りと葡萄の風味が鼻に抜けます。赤玉特有の酸味はわずかに残っているだけ。このわずかなすっぱさが引き金となって、強烈な甘味が口内に広がります。俗な喩えをすれば、西瓜に塩をかけると甘味が増すようなものです。


「美味しい」


 思わず、「ほう」と言葉が漏れてしまいました。赤玉は決して、高いワインではありません。量販店で売っているチリ産ワインと同程度の価格帯の代物です。そんな安物がこれほど複雑な風味に変わるのは、半世紀の眠りについていたからのこと。まさに歳月が創り上げた芸術品という訳です。

 まさに芸術、既存のヴィンテージに対する冒涜。

 そこからの行動は、飲兵衛そのもの。冷蔵庫を漁って、即席の肴――ワインの場合はアペリティフと呼ぶべきでしょう――を用意します。まずは仕込んでいた漬けマグロをいくつか。次に、スキレットにオリーブオイル、そしてニンニクと鷹の爪。油が温まったところで茹で戻した冷凍ふかしイモ、大きめに切った玉ねぎと一口大の鶏もも肉をスキレットに投入し、煮込みます。ご存じ、アヒージョです。


「早く食べ頃にならないとワインがなくなっちゃいますよ?」


 なんて、オリーブオイルの中で踊る生煮えの鳥肉に話しかけながら、右手に煙草、左手にワインを愉しみます。完全なるキッチンドランカーです。いつしかワインは二杯目に突入、だんだん楽しくなってきました。


「ふんふふ~ん」


 思わず鼻歌が漏れてきてしまいます。楽しすぎて。ついでにお屋敷の外で取ってきた野いちごを洗って三品作り上げたところで、私ははたと我に返りました。

 キッチンに立っていたのです。眠ったはずの寝間着姿のお嬢様が、どこか不服そうな顔で私を睨みつけておりました。それも、頬をぷっくりとリスのように膨らませて。


「香澄さん」

「おや、お嬢様?」


 努めてなんてことない風を装いますが、手には酒と煙草、テーブルには漬けマグロと野いちごです。挙げ句、ガーリックオイル特有のお腹をくすぐる薫りが部屋中に漂っています。ごまかしは効きません。

 さすがにお叱りを覚悟すべきでしょう。お行儀の悪いメイドであることは自覚していますが、メイドなら主人のお叱りはしっかりと受けるものですので。


「香澄さんはズル川ズル美よ。夜更けにパーティーをしているなんて!」

「申し訳ございません、お嬢様」

「そうよ、抜け駆けなんてズルいわ! 私もご一緒していいわよね!?」


 どうやらお嬢様は勝手に酒盛りをしていたことではなく、自分を誘わずに酒盛りをしていたことにお怒りのご様子でした。であれば方法はひとつ。

 誘ってしまえば叱られることはない。同じ穴のムジナの論理です。


「承知しました」

「よかった。なら私も香澄さんと同じものが飲みたいわ。お願いできるかしら?」

「しかしお嬢様、これはワインですのでお召し上がりには」

「それでも飲みたいの! 香澄さんと同じがいいの!」


 子どものように――齢15歳の子どもではありますが――だだをこねるお嬢様を前に、さすがに困り果ててしまいました。大人への憧れのような可愛らしいワガママなのでしょうが、未成年でお体の弱いお嬢様にアルコールは禁物です。おまけに赤玉は度数も高く、醸造酒は悪酔いしやすいとも言います。もちろん、醸造がダメなら蒸留すればいいなどという話でもありません。


「お嬢様には5年ほど早いですね」

「でも!」

「ですが、ひとつ方法があります。お嬢様でもワインを飲める方法です」


 醸造がダメなら蒸留、のあたりでようやく、方法に思い当たりました。あり合わせのものでも、なんとかできるかもしれません。


「では、少々お待ちいただけますか。お嬢様が飲めるワインをご提供いたしますので」

「本当に!?」

「ええ。どうぞ、お任せくださいませ」


 自分の頑張りを労うための晩酌なのに、お嬢様が現れてしまいました。こうなると気が抜けません、メイド仕事は延長戦です。ですが、気が滅入るといったことはありません。むしろ、半世紀ものの貴重なワインでを作るなんて冒涜を犯すのだと思うと、なんだか楽しくなってきます。

 では、小鍋を取り出し、始めることとしましょう。お嬢様のための冒涜のワイン作りを。

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