第5話
「うわっ!」
ユウキはマヌケな叫び声を上げる。
事故でもあったのだろう、へこんだガードレールを乗り越えて下の川へと落ちていった。
水音が深夜の街に響き渡り、僕の顔にもいくつか飛沫がぶつかった。
空中で手足を振り回し、何が起こったのかわからない、といったユウキの表情を、僕は永久に忘れる事はないだろう。
人生のピークからのあっけない転落は、僕のような底辺無職の手によって成されたのだ。
ざまあみろ、と素直に思った。
しかし、僕の優越感はほんの数秒で終わりを告げた。
「……えっ?」
何が起こったか、さっぱりわからなかった。
右の脇腹寄りの背中に、焼け付くような感触。ゴリゴリとした違和感。
何かが流れ行く感触。そう、これは命が流れ出している。
「うそ……なんで……あなたが……?」
聞いた事のある女の声。
振り向くと、街灯の白いLEDに照らされたその顔は、帰りの列車で隣になった彼女だった。
白いワンピースドレスの腰から下は、真っ赤な血で染められていた。
悲鳴と怒号が響き渡る。
僕の全身の力が抜け、思わず膝を付いた。
首をどうにか動かして脇から背中に視線を向けると、そこには銀色に鈍く光る三徳包丁が生えていた。
「おいお前、何やってんだ!」
コンビニから戻っていたのだろう、タケシの声が響き、彼女を突き飛ばす。
そして僕の方を見ると、その顔から血の気が引くのが見えた。
「だ、大丈夫だ。しっかりしろ! すぐに救急車を呼ぶからな! 傷は浅い、死にはしないって!」
級友たちも異変に気が付いたのだろう。心配そうな顔で僕を覗き込んでいる。
タケシの腕の中、僕は今までに経験した事のない眠気を感じていた。
やがて、遠くからけたたましいサイレンの音がいくつも響いてきた。
◇ ◇ ◇
彼女――シノは殺人未遂の現行犯で逮捕され、ユウキも無事に川から引き揚げられたという。
僕は……といえば、六時間に及ぶ大手術と大量の輸血によって一命を取り留めた。
痛み止めが切れる度に耐えがたい激痛に襲われながらも、僕はどうにか生きている。
「いや、スゲェよ。普通あんな勇気出せないもんな。お前は昔から、きっと何かスゲェ事をするって思ってたんだ。でもまあ、こういうのはこれっきりで頼むぜ。勇敢なのはいいけど、死んじまっちゃお終いだからよ。ま、何にせよ助かってよかった。あんま心配させるなよ。……おっと、休憩時間が終わっちまう。また来るからな」
そう言ってタケシは病室を出ようとし――ドアの縁に手を掛けるようにしてUターンしてきた。
「そうそう、これだ。忘れるところだった」
「何だい?」
タケシはリュックサックの中から、本屋の紙袋を取りだした。
「お前に必要な物だよ、履歴書用紙と求人情報誌。置いておくぜ」
「はは……ありがとう」
今度こそタケシは去って行く。
会社の休憩時間に、わざわざ来てくれたのだ。油汚れのついた作業服姿に目をしかめる者もいるが、彼の姿は少し前までの僕だ。
ベッドの横に置かれたサイドテーブルには、本屋の袋と丸ごとのスイカが残された。
スイカもタケシがお見舞いに、と持ってきてくれたものだ。
確かに好物ではあるが、どうしろというのだろう。
現場に居合わせた級友たちの話や新聞記事から推測するに、僕はどうやらシノに刺されそうになったユウキを助けるために川へ突き落とし、代わりに刺されたという事になっているらしかった。
「……ダメだなぁ、僕は」
学歴無し、無職、童貞はともかく、……人殺しすらも上手く行かない。
少なくとも僕は、ユウキを殺すつもりだった。
いや、殺すつもりだったというのは少々言い過ぎかもしれない。
だが少なくとも、ユウキが死のうが構わない、と思っていた。
酔っていたとはいえ、それは間違いない。
今にして思えば、シノさんが僕を人殺しにさせないために庇ってくれたようなものだ。
溜息をつきながら、僕は病室の白い天井を見つめていると、ドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」
入ってきたのは、どこかで見覚えのある紳士だった。しかし、思い出せない。
「はじめまして、かな。このたびは息子が大変世話になってようだね」
「息子……? ええと」
彼の名刺を見て、ようやく思い出す。ユウキの父親だ。
「無事に男の子が生まれたよ。私にとっては初孫だ」
「おめでとうございます」
母子ともに健康、だそうだ。
「ところで――」
◇ ◇ ◇
翌日、窓の下にある駐車場に重厚な、それでいて静かなエンジン音が響いた。
ドアを閉める音が響く。
その音だけでかなり高級な車種だという事がわかる。
程なくしてユウキが病室を訪れた。
「よ、元気か?」
「見ての通り重傷さ。子供、産まれたんだってな。おめでとう」
「ああ、ありがとう。かわいいもんさ、お前も父親になればわかるよ。やっぱ男は家庭を持って一人前だ。お前ももっと頑張れって」
「……かもね」
ユウキは今日も上品で洒落たシャツを着ている。
ベルトには、上品な革製のカバーに覆われた、車のスマートキーが下がっていた。
髪だってきちんとセットされ、休日の社会人と言った出で立ちだ。
オーデコロンの臭い――匂いではない――が鼻につく。
ユウキは冗談めいて僕に言った。
「最初はビックリしたぜ、いきなり突き落とすんだから。お前、俺を殺す気だったのか?」
「ああ」
事実だったが、ユウキは冗談だと受け取ったようだ。
僕はありのままを言ったが、本当のことよりも、テレビや新聞記事を信じているらしい。
この事件はテレビのワイドショーでも放送されたそうだ。
しかし、僕の意識が戻る事にはほかの事件にすっかり埋もれてしまっていた。
タケシがテレビ画面を直接撮影した不鮮明な動画を、スマートフォンで見せてくれたくらいだ。
新聞にも地方の三面に載ったくらいで、すでに世間の記憶からは消え去っているかもしれない。
僕らのような当事者をのぞいて。
「言うじゃん。でもま、おかげで助かった。ありがとうな。ハナも心配してたぞ」
「な~にがありがとうだ。お前のせいだろうが」
ユウキはバツが悪そうに頭を掻いた。
「ま、どっちにしろお前にはでっかい借りができちまったな。お前、仕事無くて困ってたろ? 俺のところで働かないか? 俺が担当してる支店で、一人欠員が出てるんだ」
「ははっ……痛っ……」
思わず笑ってしまう。おかげで傷口が開いたかと思うほどの激痛が走り、僕の額には脂汗が浮いた。
「おいおい、大丈夫かよ」
「な、ナースコールを……お、押すほどでは……な、ないな。ははっ」
頭を枕に付け、深呼吸する。大丈夫だ。一度深呼吸し、ユウキを見据える。
「ユウキ、お前は確かに立派なやつだ」
「なんだ、いきなり」
「有名大学を出て、大会社の支店長。きれいな奥さんと、可愛い子供。立派だ。非の打ちようもない。今度、家を建てるって? さすがだよ。僕なんかよりずっと日本経済に貢献しているね。今日は車で来たのか? レクサスも乗り心地が良さそうで、羨ましいよ」
「お、おう」
ここからだ。ここから本題に入る。
「お前の親父さん、お前の会社の専務だってな」
「ああ。それが?」
「世間ではそれをな、コネっつうんだよ。正社員? 結構。支店長? マイホーム? レクサス? ご立派。だが、それはお前の力じゃない。お前の親父さんの力だ。いつから自分の実力だと勘違いしていた?」
ユウキは顔を赤くした。
「お前、言って良い事と悪い事があるぞ。俺は――」
「親父さん、来たよ。同じ話をしていった」
「えっ」
「確かにお前は努力していたかもしれない。だがな、その最初の一歩に親父さんの影響が無かったと思うか? お前の入社も出世も、親父さんの力だ。あの夜お前は僕に、たいそうご立派なお説教をしてくれたよな。でも、お前はしょせん親父さんの操り人形でしかないんだよ。自分の意思で何を決めた? 何の責任を取った? ふざけんじゃねぇ。そもそも僕が刺されたのはお前が原因だ。お前の下で働くなんて、天地がひっくり返ったってごめんだね! 僕はお前とは違う。自分自身の力で、自分の人生を切り開いてやるさ!」
僕の脳裏にはシノさんの思い詰めた顔が浮かんでいた。
ユウキの不貞の責任を取ったのは、シノさんだ。そして、僕だ。
力ある者の責任は、常に弱者が取る。
弱い事、それ自体がもはや罪であり、常に貧者は贖罪を強いられる。
それは資本主義という世界では、仕方がないことなのかもしれない。
しかし、弱者を蹂躙する事にに無自覚な強者を許せるほど、僕は人間が出来ていない。
「……わかった。この話は無かった事にしよう。すまなかったな」
ユウキは少しだけ寂しそうな顔をして、病室を後にした。
「ふふ……ふふふふ……あはははは!」
傷口が痛むが、僕は笑うのをやめなかった。
言ってやった。言ってやったのだ! あのユウキに! 人気者で、スポーツ万能で、女の子にモテたユウキに!
言いたい事を思いのままに言ってやる事が、こんなにもスッキリさせてくれるとは思わなかった。
「あ~あ。入院費くらい、払ってもらってもよかったかな。プライドじゃ飯は食えないし」
病室の窓からは、あの日と同じように真っ赤な夕焼け空が見えた。
「さ、楽しい読書の時間といくか」
僕は紙袋を漁り、求人情報誌を開いた。
(了)
地獄の同窓会 ―イケメン殺すべし、慈悲は無い― おこばち妙見 @otr2000
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