第4話

 その後は別の級友と話し込んでいたために、ユウキとそれ以上話す事はなかった。

 僕は……その時、そうとうアルコールが回っていたのだろう。列車で出会った女性の事など、すっかり頭から抜け落ちていた。

 思い出したのは、店を出て帰り道の途中だった。


 肩を組んで歌いながら、かつて通った川沿いの通学路を歩く。

 まるで、昔に戻ったような気分だった。川の流れる音だけは、昔と何も変わらない。

 不意にタケシがユウキの首に腕をかける。。


「そういやユウキ、子供が産まれるって?」


 タケシもそうとうに酔っているようだ。そもそもユウキが何のために里帰りしているのかすらも、頭から抜けている。しかし、それは僕も同じだった。


「おう、もうすぐだな。カミさんの腹、もうこんなになってるぜ」


 ユウキは手を腹の前で丸く動かした。


「アイツもさぁ、遠距離だったろう? 寂しい思いをさせちまったな、って俺も反省してるんだ」


 ユウキがスマートフォンのメモリーから写真をロードすると、僕は息を呑んだ。

 大きなお腹を抱えたその女性の姿を、僕はよく知っていた。


「ハナ……さん……?」


 高校時代、一年先輩だったハナさん。

 図書委員だったハナさん。

 物静かで、いつも図書室のカウンターで本を読んでいたのを覚えている。

 僕は――といえば、そんなハナさんと二言三言話すのだけが楽しみで、読みもしない本をよく借りていたものだった。

 今にして思えば、僕は彼女の事が好きだったのだろう。

 でも、当時はどうしたらよいかわからなくて。

 卒業式の後、顔を真っ赤にして小さな花束を渡すのが精一杯だった。

 彼女は微笑んで、僕にブレザーのボタンをくれた。

 普通逆だろと思いつつも、大切な宝物となった。


 タケシがユウキの肩越しに端末を覗き込む。


「お、ハナさん全然変らねーな! いつからだっけ? ユウキと付き合ってたの」


「ハナが高校の三年の時か。バイト先で一緒になったのがきっかけ」


 ユウキがハナさんとの日々を生々しく語るのを聞いて、僕は胃袋を万力で締め上げられるような感覚を味わっていた。

 僕は何も知らなかった。

 ハナさんとユウキが付き合っていただなんて事は。

 僕がハナさんと二言三言話す事で満足を得ていた頃、二人は二歩も三歩も、いや太陽と海王星の距離ほど先へ行っていたのだ。

 僕の気持ちなんて全く無関係なところで。

 僕の事など気にする事もなく。


「やっぱ一番スリルがあったのは、俺が図書室のカウンターに隠れて、それでハナのスカートに潜り込んでた時だな。アイツ図書委員だったから、本借りに来る人がけっこういたんだよ。で、バレないように――」


 もしかしたら。僕がカウンターに本を載せている時も。二人は。

 吐き気がする。頭から血液が恐ろしい勢いで下がっていく。指先が震える。寒気がする。


 やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ!


 聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない!


「どうした? 顔色が悪いぞ。お前、飲み過ぎたんじゃねーの?」


「いや、何でもないよ」


 タケシが不安そうな顔で覗き込んでくる。

 何でもない訳がない。しかし、半ば反射的にそう言ってしまった。


「いやいや、真っ青だって。少し休んだほうがいいぞ。タクシー拾うか?」


「ははは、平気だよ」


「いやいや、ぜってーヤバいって。待ってろ、そこのコンビニで冷たいもの買ってきてやる。あんまり動くなよ!」


 タケシはポケットの財布を確かめると、コンビニに駆け込んだ。


「あ、アタシも~。ちょっと待ってて~」


「ちょっとサキ、待ちなさいよ~」


 女の子二人もタケシに続いた。


「…………」


 電柱に背を預け、一息つく。残った級友たちは、ユウキを中心に雑談を続けていた。


「でもユウキ、お前リカと付き合ってたじゃん? 他にもミキ、アキ、ミヨに……ええと、シノ……とか言ったっけ? 向こうで知り合った……そういやお前、同じ県だったろ。何か聞いてる?」


「いや」


 僕はかぶりを振る。ユウキと同じ県に居たなんてことは、今の今まで知らなかった。


「あれ、同じ県だっけ。すまねえな、連絡しないで」


 ユウキは僕の方を軽く叩くと、話を続けた。


「――色々あったけどよ。若気の至り、ってやつだ。ハナが卒業して、その時一回別れたんだよ。で、大学の頃にハナと偶然再会して、それからだな。また本格的に付き合い始めたのは。結局何年かして俺も向こうに行っちゃって……シノの事もあったから、ハナとは別れるかと思ってたけど、まあ見ての通りさ」


 背中がずり落ちる。天を仰ぐと、まるで死体のような目をした男の姿が歪に浮かび上がった。

 カーブミラーに写った自分自身だ。

 そう、死体だ。僕はとっくの昔に死んでいて、延々と地獄の底で這いずり回っていたのだ。

 身も心もすり減らす重労働。

 疲れ果てて眠るだけの休日。連日の怒号と、人格否定。

 いくらでも替えの効く、使い捨ての消耗品。ただの部品。雇用の調整弁。


「いや、大変だったぜ。シノなんて大泣きしながら、別れるくらいならアンタを殺してアタシも死ぬ、なんて大騒ぎしてさ。でも、ハナがデキた、って言うから。さすがに堕ろせとは言えんでしょ」


 ユウキとは、住んでいる世界が違うのだろうか。

 同じ人間だというのに。ユウキと級友たちの話は続く。


「でもまあ、シノには堕ろさせたけどさ」


「あれ? 順番おかしくね?」


「仕方がないだろ。ハナはもう堕ろせなかったんだから」


 種を仕込んだ順番を時系列的に並べると、妻であるハナ、そしてそのシノという女性の順番となり、オーバーラップしている。


「いや~ん、不潔よぉ~。女の敵ぃ」


 女子の一人が割と本気で嫌そうな顔をしていた。じつにもっともだ。

 男女の数は統計上はほぼ半々。

 しかし、僕の実感としては男のほうがずっと数が多いと感じている。

 ユウキが二人の女性と付き合うと言う事は、その分ほかの男の割り当てが減ってしまうのだ。


 女の敵どころではない。男の敵でもある。すなわち、人類の敵だ。こいつを放っておけば、何人の人が悲しむことだろう。


 ……生かしておく訳にはいかない!


 この時の僕は、今にして思えば相当にアルコールが回っていたのだろう。

 普段の僕であれば、絶対にあんな事はしなかったと思う。ただ、実際にはわからない。


 その時、視界の隅に白い影が映った。

 しかし、僕の手足には脳から発せられた指令が伝わっており、すでに取り消しは効かなかった。


 周囲の人から離れ、一人になったユウキの背を――思いっきり押したのだ。


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