4

  食器を片付けた後、二枚のパネルを壁に立てかけて座る。

「で、どちらが?」

「ええと……こっちが私の」

 預かっていた物とハルが描いたものの見分けがつかなくなったら困るので、裏面の署名だけは複製していない。絵の上部を持ち、壁との隙間を覗き込めば、ちょうど手元に当たる位置に中田秋成の文字がはっきり読めた。

 意識が戻ってから改めて自分の描いた絵を見るが、特に不自然な点は見つからないので、及第点と言っていいだろう。

 絵の具は一般的に市販されているようなもので、特殊な顔料や混ぜ物はなかったのが救いだった。中田秋成は最近の画家だが、もっと古い時代になると、画材の準備が骨の折れる仕事になることもある。

 ハルはそわそわと雨の反応を待った。

 雨は色覚に先天的な異常を抱えている。再会した直後に、それを利用して罠にかけたこともあったが、今更言うなら、あれで勝てたのは相当運が良かった。色彩の他については、雨の鑑定眼だって相当なものなのだ。筆の運びや濃淡から判断する分、判定は厳しい。

 二枚を見比べて、雨が小さく息を漏らした。

「相変わらず……むかつくよ」

 ハルは、予想外の囁きに目を瞬かせる。褒めろとはいわないが、労いぐらいあっても罰は当たらない。

「何、その暴言……」

「解釈はお好きなように。で、何か思い出したことは? もしくは気付いたこと」

 曖昧に濁したまま本題を持ってこられたので、不可解な態度は追求しきれぬままになる。

「『明星』を昔見たかどうかは思い出せなかった。私も、ものすごく好きだった絵じゃない限りは覚えてないよ。テーマも技法も何も考えずに、たくさん描き散らしてた時期だった。描いたかもしれないし、描いていないかもしれない」

「そうか、残念だよ。結局真贋つかず?」

「何とも言えない。描くときに、いろいろと資料をかき集めて調べたけど、この絵が中田秋成のものではないとは思わなかった」

「随分曖昧な言い方だな」

「この人の作品は、ほとんどが人物画で風景画は少ないんだよね。だから、自信をもって言えるわけじゃないけど、真ん中の女の人の描き方は中田らしい感じがする。仕草とか、髪の一筋一筋とかまでがすごく丁寧。この女の人が誰なのか知りたかったんだけど、後ろ姿だからよく分からなくて……」

「その情報は必要か?」

「描くときに知りたいとは思ったよ」

 雨は、乱雑に積んだままの資料の山に目を向ける。全部読んだのかと問われたので頷けば、奇妙な顔をされた。

「あと、気になることは……ずっと思ってたんだけど、くだらないこと言ってもいい?」

「ああ、どうぞ」

「この絵が偽物なのって、田中だから?」

「は?」

「表札。中田じゃなくて田中だなあって思ってた」

「本当にくだらないな」

 雨は呆れた顔を作る。

「でも、結構大事なことだと思う。依頼主が、何を以ってこの絵を偽物だと断言したのかが気になる。雰囲気も構図も全く違う別物なのか。それとも、絵の雰囲気は類似していて、一部に決定的な違いがあるのか」

 雨はその言葉を聞いて、しばらく何か考えるように目を伏せた後、ポケットから携帯電話を取り出した。何やら画面を操作し、立ち上がって部屋の隅へ向かう。

「しばらく音をたてるなよ。 ……ああ、こんばんは。アマサキですが」

 知らない名前を名乗って、雨は誰かと話している。内容までは聞き取れないが、おそらくは女性の声だ。耳元で怒鳴られたようで、端末から少しだけ耳を離すのが見えた。

「ええ、ええ……その通りです。ええ、はい勿論」

 やけに丁寧でへりくだった口調は、雨のことをよく知っている身として、かなり胡散臭く感じる。何となくハルの父とイメージが重なって、少し嫌な気分だ。

「はい。それでですね、『明星』について少し伺いたいことがあるのですが……いえ、そこを何とか……いえ、わたくしとしましても……はい。本当ですか? ありがとうございます。では明日の二時に、駅前の……承知しました。ありがとうございます。よろしくお願いします」

 電話を切った雨は重い溜息をつき、疲れた様子で腰を下ろす。

「詐欺師みたい……」

「何とでも言えよ」

 ぼそりと呟けば、雨がワントーン低くなった声で投げやりに返してきた。

「依頼人さん?」

「そう。明日話を聞けることになったから行ってくる」

「……場所は?」

「まさかお前、来る気か?」

 ハルが頷けば、彼は嫌そうな顔をして、指でこめかみを叩いた。


***


 喫茶店で、男女が向かい合って座っていた。テーブルの上にはコーヒーと、写真を撮ってプリントアウトした絵が一枚。

「母なんです。『明星』に描かれているのは」

 中田秋成は、遅咲きの画家だった。若い頃は、大きく話題になることはなく、苦しい生活を送っていたという。

 青年がこちらに気付いて手を振っているような作品『友』や、スケッチブックを広げる少女を描いた作品『画家』などを皮切りに、生き生きとした人物画への人気が徐々に高まり、四十代半ばで一躍有名になった。しかし、その後十年も経たぬうちに病死したそうだ。生前に脚光を浴びた時期は長くなかった。

 絵に没頭する夫に代わり、働き手として一家の生活を支えていたのは中田の妻だった。

「父が絵に向き合う時間をとるために、母が毎日、働きに出ていました。父は見送りこそしなかったけれど、母に『すまない』とか『ありがとう』を口癖のように言っていましたから、私も覚えています」

 朝は夜が明けきらぬ薄暗いうちに家を出て、夜は真夜中を過ぎてから帰宅する毎日を続けていたようだ。

「だから、この絵は変なんです」

 中田の娘の声が硬さを帯びる。

「『明星』って何かご存じですか」

「……金星のことですよね。明けの明星・宵の明星と聞いたことがあります」

「そうです。夕方に西の空に見える一番星が宵の明星、明け方に東の空に見えるのが宵の明星……アマサキさん、あなたはこの絵がどちらだと思いますか?」

「明けの明星ですかね。あなたのお母さまが玄関先に立っているなら、早朝が深夜ということになります。深夜には明星は見えない。それなら、明け方ということになります」

「ええ。でも、それならおかしいことがあるんです」

 女はそう言って、絵の一点を指さした。絵の右肩にある小さくも強い輝き――題にも表された星が示される。

「明けの明星は、西の空には見えません」

 きっぱりとした口調の彼女に対し、雨は首をかしげる。

「でも、どうしてこちらが西だと分かるんですか」

「簡単な話です。この家が、そう建っているからです」

 意味を理解するのに少し時間が必要だったようで、雨の返答に僅かな間が空く。

「実在の場所なんですか?」

「父は実際に見たものしか描きませんでした。これは、昔住んでいた家なんです。近くにはアトリエもあって……」

 かつて中田が住んでいた家は、南の空を背にして建っているらしい。屋敷を正面から望むと、左が東、右が西。明けの明星ならば東側の空――向かって左にあるはずなのだ。

「それに、もしこれが明けの明星ならば、母はこれから家を出るんです。この絵ではなぜ、家に帰ってきているんでしょう?」

 女の指は、今度は後ろ姿の女性を指さした。

 雨は黙って口元に手を当てる。考えたところですぐに答えは出そうにない。

 中田の娘はその反応に満足そうに頷き、紙を突き返した。

「この絵は矛盾だらけです。だから、完成した絵を初めて見た私でも、この絵が偽物かどうかはすぐに分かりました」

 それを聞いた雨は、はっと目を瞠(みは)り、絵のほうに注いでいた視線を女のほうへと向ける。

「初めて? 貴女はこの絵を見たことがあるわけではないんですか?」

 その問いに、女の言葉尻が初めて弱いものになった。

「完成した絵は、残念ながら……。父が珍しく、今度描くのは母の絵だと言っていたので気になって、下書きのときに一度見て、それっきりだったんです。父の荷物を整理しているときに見当たらないことに気付いて」

「そうですか……今日は、貴重なお時間をありがとうございました。私のほうでも、再度『明星』の情報を集めさせていただきます」

「いえ、こちらこそ。この間はごめんなさい。本当は諦めるべきだって分かっています。それでも諦めきれないんです。父の最後の作品であり、母が描かれた唯一の作品ですから」

 小さいときから母は仕事に出ていた。父は自宅近くのアトリエに籠りっきり。寂しい思いはあったし、一人で寝る夜に父を恨めしく思ったときもあったらしい。それでも、家族のために頑張りたいという母の思いや、そんな母に感謝を惜しまない父の姿があったから、家族が好きだった。『明星』は、父が母への思いを込めて描いた、自分たち家族の絆の絵だ。

 中田の娘は話をそう締めくくり、席を立ってコーピーショップを後にする。

 窓から彼女が見えなくなったのを確認してから、伊達眼鏡とマスクを外して、ハルは席を移動した。先程までは、中田の娘の背面に座って聞き耳をたて、時々雨に質問や助言のメモ書きを見せていたのだ。

 雨はネクタイを緩めて、首や肩を回している。機嫌はあまりよくなさそうだ。

 手つかずのコーヒーはすっかり湯気が立たなくなっていた。一口飲んで顔をしかめていると、雨はこちらに問いを投げかけてくる。

「どう思う?」

「あの人が、この『明星』を偽物だと言った理由はよく分かった」

 実際に見たことはないという一点が気になるものの、絵が矛盾だらけという話は納得できるものだった。

「やっぱり偽物なのかな」

 そういえば、表札についても聞き忘れた。ただ、実在の家がモデルならば、中田亭には中田の表札が掛かっていることだろう。

 雨が大きく息を吐いたのをきっかけに、その場はお開きになった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る