7
目の前で、ゆっくりとゆっくりとドアノブが回る。
ドアが小さく開き、隙間からそっと中の様子を慎重に伺ってから、雨は部屋の中に足を踏み入れた。開けたのは、本当に人一人が通るのに必要な幅だけだ。
まだドアノブから手は離さない。
周囲を警戒しつつもドアの方へ振り返り、自分が通った隙間をゆっくり狭めていく。慎重にドアを閉めた後で、持ったままだったドアノブをそろりそろりと回して、元の位置に戻す。
この間、無音。
手馴れた様子で部屋へ入り終えて、雨がこちらを向いた。
「これでいいのか」
ハルは頷いた。
「ありがとう」
「どういたしまして? 何の役に立ったかは知らないが」
「役に立ったよ。これで、確信が持てた」
「で、本物は?」
「雨が持ってきた絵。あれだよ、本物の『明星』」
はあ? と不機嫌にトーンの上がった声が耳朶を打つ。
「あの絵は矛盾だらけだ。たとえ画風が似ていたとしても本物のはずがない」
「矛盾が矛盾でなくなればいいんでしょう? 大丈夫。きちんと辻褄は合うから」
オリジナルは雨が持ち帰ったので、ハルが複製した『明星』を前に二人で座る。
「これは、中田が実際に見た光景だというのを前提に聞いてね」
「ちょっと待て」
説明を始めたところで、早速雨の中断が入った。
「中田の家を見に行ったとき、この絵のようには見えなかったはずだ。まさか湖に舟を浮かべて見たとでも?」
「中田が見たのは、アトリエにあった窓からだよ」
デジカメを取り出し、現地で撮った写真をもう一度見せる。
「確かに、窓の大半は邪魔な木や枝に覆われていた。でも、一か所空いているところがあったよね」
「結局そこからも見えなかっただろう」
「本物の家は。でも、気付かなかっただけで、家そのものは見えていた」
ややこしい言い回しに、相手が眉を顰める。
次の写真を表示して、画面を雨のほうに向けた。
「家は大きな枝が邪魔で見えない。だけど、その下のほうに、きちんと見える」
枝が途切れた場所からは、大きな湖の水面が見える。そこには、中田邸が鏡写しになっていた。
「まさか」
「まさか、だよね。でも本当だよ。『明星』は、鏡写しの絵なんだ」
写真に写っているように、複製画を一八〇度回転させて、上下逆に置く。地面が上に、空が下になるように。
屋根の右肩にあった星が、回転させると画面の左下にきた。
「水面の星がここなら、本物の星は……」
星に触れて、そのまま指を上に滑らせ、絵からはみ出た位置で手を止める。
水面に写った星が左下に、ということは本物の星は向かって左上に。東の空――明けの明星だ。
「やっぱり、朝早く家を出る妻を見て描いた絵だったんだよ」
大部分の矛盾はこれで解消した。表札の字も鏡写しになるから、中田がひっくり返って田中に見えた。
「……なるほど。一応の納得はできた。でも、根拠が弱い。依頼人が納得するかは五分五分だ」
雨は女性の上をトントンと軽く叩いた。
「依頼主の母親は、何故後ろ姿なんだ。今から出発するなら、ドアを開けて家から出てくるところを描けばいい。ドアを閉めるところをわざわざ描いた所為で、帰ってきたようにしか見えない」
雨の言葉に頷く。
中田秋成は、人物画を評価された画家だった。どの作品も、感情や仕草の一つ一つを丁寧に切り取って表している。自分の心に気持ちが溢れた瞬間を、忠実に。
『明星』で一番描きたかったのは、早朝に家を出る妻の姿であるはずだ。それならば何故、敢えて後ろ姿を描いたのか。
「偶然じゃない。意図的。中田の妻は、多分毎日こんな風に、後ろ姿を見せていたと思う」
「何故?」
「音を立てたくなかったから」
先程、雨自身が実演した。静かにドアを閉めようとすれば、後ろ手では難しい。ドアの方へ向いて、ゆっくりとドアを戻す必要がある。そして、それはきっと。
「家の中で眠る娘さんを起こさないように」
***
翌日の昼、見慣れない番号から電話がかかってきた。
「よお、ハル」
「雨の馬鹿」
真っ先に口を突いて出たのは随分と幼稚な罵倒で、電話口の向こうで相手が苦笑するのが聞こえた。
「ご挨拶だな」
「自分の行いを省みたら?」
ハルの言葉はスルーして、雨は事の顛末に触れた。
「本物の『明星』は依頼人の手に渡った。これで俺も損をせずに済んだよ」
「そう、良かった」
どういう風に話して相手が納得したかは知らないが、うまくやったのだろう。
「じゃあ、もういいよね。返して」
昨夜、ハルの話を聞いて引き下がったように見えた雨は、あの後もう一度部屋に忍び込み、二枚の絵を盗んでいったのだ。
朝起きて、絵がなくなっているのに気づいたとき、愕然として膝から崩れ落ちた。うまく説得できたと安心してみればこれだ。だから、手放しで信用できない。
「油断しているからいけないんだ。前に言っただろ。もう少し良い鍵が付いたところに住めよって」
「責任転嫁だよ。悪事は悪事でしょう」
「いい教訓になっただろう。いつだって信じるほうが馬鹿を見る」
受話器の向こうで嫌味に笑っているのが想像できて腹立たしい。いくら言ったところで、素直に絵を返す気がないのは明白だ。売り飛ばせば金になる、という言葉に我慢の限界が訪れた。
「雨の馬鹿」
会話を続ける気力は湧かず、別れの言葉の代わりに悪口を一つだけ残して通話を終える。
***
ああ、煩い。
絵を描いているときに邪魔されるのは嫌いだ。
相手はそれを知っているはずなのに、先程からハルの携帯電話はしつこく鳴り続けている。携帯を手に取り、表示された番号を確認すれば、雨。案の定。
ハルは怒っているのだ。しばらく彼の声は聞きたくない。
通話ボタンは押さずに、マイクに向かって囁く。ただの独り言だ。
「だから言ったでしょ、雨の馬鹿って」
ハルが真似て描いた『明星』には、きちんと証が付いている。裏側に、ど素人の目にも分かりやすいように、『篠崎晴』――と自分のサインを入れておいた。持ち物には、誰の物かが分かるように名前を書くのが基本だ。
電源を切り、ハルは沈黙した携帯を布団の上に放り投げた。
昔から、くだらない喧嘩を数え切れないほどした。口の巧い雨が相手なので、大抵はハルが言いくるめられて負けた。けれどもハルだって、何もしないまま折れたことなんて一度もないのだ。
逆に、雨がハルの言葉で思いとどまることもない。そんなこと、分かっている。分かってはいるのだが……。
『安心してくれ。約束は守ってるさ』
絵画泥棒をやめるという口約束について、数日前の彼はこう言った。
目の前にぶら下げられたそれに、期待を持ってしまったのは確かだ。あの発言が、ハルを油断させるための餌だったのかどうかは判断がつきかねる。
今回、結果的には、本物の絵はあるべき場所に戻った。どこからどう見ても偽物の絵が、悪事に使われることもないだろう。
しかし、かろうじてのことであり、少し違う方向に転べば、雨が人を騙し、その道具としてハルの絵が使われる可能性は大いにあった。
雨のことは、放っておけない。
ハルにとって彼の存在は、負い目と、義務感と、願いの象徴だ。
今回のように、自分が近くにいて止めるべきか。それとも自分が姿を消したほうが、彼はまともな人生を歩めるのか。答えはまだ出ない。
目の前のキャンバスには、夕刻の空が広がっている。西の地平から差す夕焼けの茜色と、東に広がりつつある紺碧の夜。境目で二つが淡く交じり合い、昼と夜が溶け合っている。
一番細い絵筆を取り、夕空に一粒の白い星を落とした。
ハルは、夕方に外に出て星を見たことなんて一度もなかった。先日に雨と二人で見たのが初めてだった。
夜を恐れず凛と輝く一番星。たった独りでも、その輝きは強い。
紫紺の空に明星 土佐岡マキ @t_osa_oca
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