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『気持ちが溢れたときに、絵を描きたいと強く思うんです』

 古い雑誌に載ったインタビュー記事の見出しが目を惹いた。

 中田は語る。自分の絵の原動力は『感謝』だと。


 『友』を描いたのは、数年ぶりに会った親友が変わらぬ笑顔で笑いかけてくれて、折れかけの心が救われたから。

 『画家』を描いたのは、真剣な眼差しで夢中になって絵を描く少女を見て、絵への情熱を取り戻すことができたから。

 そして『明星』は、長年支えてくれた妻への想いを込めて――


 いっぱいになって溢れた気持ちが、そのまま絵になったとすれば。

「やっぱり彼が描くなら、明けの明星だと思う」

 ハルの部屋を訪れた雨に、数日考えて出した結論を告げる。

 夜明け前の薄闇の中で、太陽を信じて待ち続ける星だ。なかなか世間の評価を受けられなかった夫を、それでも信じて支え続けた人に相応しい。

「偶然、夕方に帰宅した日のことを描いた可能性は?」

「ないとはいいきれない。でも、違うと思う。長年温めていた気持ちが溢れる瞬間は、きっと朝だと思うから。偶々目に入ったから描いたんじゃない。ずっと描きたかったから描いたんだよ」

 今、ハルと雨の目の前には三枚の絵がある。

 一枚目は、初めに雨が持ってきた『明星』

 二枚目は、ハルが真似て描いた『明星』

 そして――三枚目の絵。構図は元の絵と変わらない。ただし、異なる部分が二つ。薄明の中で東の空に輝く星と、今から家を出る女性の姿。そこには、中田の娘が口にした通りの光景がある。

「お前が描いたのか」

「うん。本物は、こういう風になるのかなって思って」

 でも、違う。

「私は中田秋成じゃないから、彼が感じた感謝や感動を推し量ることはできても、体験はできない。結局は偽物だよ」

 借りていた絵を梱包し、雨に手渡す。

「役に立てなくてごめんね」

「いや……」

 雨は絵を受け取り、労うようにハルの肩を軽く叩く。

「充分だ。協力ありがとう」


***


 深夜。暗い部屋の壁には二枚の絵が立てかけてある。

 東の空に輝く明けの明星。西の空に輝く宵の明星。

 明けの明星に、彼の手が伸びたのが分かった。だから、物音ひとつたてずに絵を盗み取ろうとした手を、掴んで咎めた。

「駄目だよ、雨」

 心臓がいつもより速く動いている。静寂の中でこちらの緊張や焦りが筒抜けになりそうで、余計に怖い。声が震えてはいないか。手が震えてはいないか。

 それでも、許せることではない。

「偽物は偽物以上の何かにはなれない。本物の代わりにはならないよ」

 ハルの言葉を聞いて、相手が小さく息を吐く音が耳に届いた。

 電灯の紐を引いて電気をつける。明るくなった部屋で、影のような姿をした雨がこちらに視線を向けていた。

 彼の表情を見て、その手首をもう一度握り直す。諦めた目ではなかった。

 ハルが手に力を籠めると、雨は小さく笑って開き直ったことを言う。

「……この絵ならきっと、中田の娘でも気付かない」

「気付かれなくても、私と雨は知ってるでしょう」

「お前が黙っていればいい話だ」

 唇を引き結んで首を振る。

「本当のことを知っているのに黙っているのは嫌だよ。そういうことをするなら、私は雨の味方ではいられない」

 その言葉を聞いて、雨は嘲るように鼻を鳴らした。

「元から味方になる気はないくせに」

「……私が、勝手に味方気取りでいるだけ」

 『明星』の件については、持てる全てを出し切って、できる限りのことはした。雨が手にかけようとしているものは、その範疇の外。元から手を出してはいけない領域だ。

「全部が全部言うことを聞くわけじゃないけれど、雨が困っているときは、できるだけ力になりたいとは思ってる」

「今がまさにその時だ。手を貸せよ。お前の一番の取柄だろう」

 首を横に振る。何度でも。それだけは、どうしても頷けない。

「私はもう、自分の絵を悪いことには使わせたくない。雨も、悪いことやめようよ。もうそんなことしなくてもいいでしょう?」

 役に立たない綺麗事だ。こんな言葉しか選べない自分にどうしようもなく苛立つ。

 物の善悪は理解している。ハルも、雨だってきっと。

 十分過ぎるほど理解はしていても、これまで善と悪の境目が酷く曖昧な日々を生きてきた。何かを選び取るときに、あるいは必要に迫られたときに、本当ならば越えてはならない境目を、葛藤なしで越えられる。良心に従って足踏みしなければいけない場面で、無意識に都合のいいほうを選び取る。二人ともそうだ。

 それに気づいてからハルは、決めたのだ。

 物を盗む、人を騙す、弱者を脅す……取ってはならない手段を使わせないために、必死で考えることを決めた。そんなやり方でしか幸せになれないと刷り込まれた頭に、体に、抗うために。

 焦れた雨がしびれを切らせば、今の拮抗は簡単に崩れる。最終的に力に持ち込まれたら勝ち目はない。どうにかして彼を説得し、退けることはできないか。

 しかし、その中で形を成したのは別のことだった。

 部屋の隅に積んだ資料、自分の描いた絵、中田の娘に聞いた話、中田のアトリエ、インタビュー記事、偽物の絵を盗みに来た雨……頭をよぎるのは、『明星』。

 一度気になったらもう、雨のことも自分のことも後回しだった。ハルの頭の中はいつだって絵のことばかりで、嫌になる。

「……あのね、本物、見つけた」

 怪訝な顔をした雨に、もう一度告げる。

「本物の『明星』、見つけた」

 雨が、息を吐くのを忘れて目を見開いた。空気の動きが止まったような感覚に陥る。そして、その静寂は一瞬後に破れた。停止していた空気がぐるりと大きく回る。

「おい、いつだ」

 急な痛みに顔をしかめる。肩を掴む力が強い。随分乱暴だ。

「昼間はそんなこと言ってなかった。いつ……」

 剣呑な声を遮りたくて、彼の口を手で覆った。

「ちゃんと説明するから」

 表情の険しさはそのままだったが、こちらを問い詰める声が一旦止まった。その隙に手を引いて、玄関のドアの前まで彼を連れて行った。

 結論は合っているはずだが、確証がほしい。

「雨、さっきのやり直して」

「やり直し? 何を」

「不法侵入」

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