5

 自然の豊かな山あいの町に中田邸はあった。

 電車とバスを乗り継いで三時間半。日帰りするにはなかなかの距離だ。

 中田の娘の話を聞いてどうしても気になったハルは、翌朝にはもう我慢できなくなって、現地に足を運ぶことにした。それでも近くまで来たのはもう昼過ぎ。そこから慣れない地図とにらめっこして、ようやくたどり着いた。

「ここ?」

 二階建ての小さな一軒家だった。辺りは森に囲まれているが、一階にも二階にも大きな窓ガラスがあり、採光は悪くはなさそうだ。家の前には細い道を挟んで大きな湖がある。余談だが、表札に示された苗字は言うまでもなく中田だった。

 家の正面に立ち、デジタルカメラを構えて家を見上げる。角度が違う。後ろに気を付けながらじりじりと下がって、家を見上げる。まだ、『明星』の構図のようには見えない。あと一歩で湖に落ちるぎりぎりのところまで後ろに下がったが、それでも角度が悪い。あと少し……

「落ちるぞ」

「あっ」

 バランスを崩して、足を踏み外しかけたところで、腕を引かれた。

「相変わらず、一つのことに集中したら他に目がいっていない。単独行動するなら、その癖はなんとかしたほうがいいな。不用心が過ぎる」

 いるはずのない男の声が、呆れた響きでハルを非難する。

「雨、なんでいるの?」

「後を尾行してきた」

 悪びれもせずにそんなことを言う。今回ばかりは助かったが、素直に感謝しきれない。

「昨日、気になって気になって仕方がないっていう目をしてた。絶対来ると思ってたよ。で、何してた?」

「この絵、どこから描いたのか知りたくて」

 デジタルカメラの画面を見せながら、明星の写真と見比べさせる。

 下がれるだけ下がっても、見上げるような構図になってしまう。家の前の道から見たわけではなさそうだ。

「もう少し距離が必要だな。向こう岸に行ってみるか」

 湖の周りをぐるりと半周して、ちょうどを中田邸が正面から見えるぐらいの位置に移動する。しかしながら。

「見えない」

「どうしても木が邪魔だな」

 木が柵のように湖を囲み、枝葉が景色を遮っている。向こう岸までうまく見通せない。

 考えられる場所はあと一つ。すぐ横に、湖にぴったりと付くように建っている小屋がある。おそらくこれが中田のアトリエだ。

 入口のほうに回り込む。ドアの取っ手を持ってから、南京錠の存在に気が付いた。今はもう使われていなくても、施錠はしっかりされているようだ。引っ張ってみたものの、ガチャガチャと音が鳴るだけで、簡単に取れるようなものではない。

 ハルが悩み始めた横で、雨は随分楽し気に、にやにやと笑っている。

「猫の手は必要か?」

 そう言いながら差し出した手の内に、きらりと光る何かが見えた。数本の細いピンのような。人前でむやみに見せびらかしたりしないところは、確かに猫の爪に少し似ているのかもしれない。

 こんな形で雨の手を借りることに少しだけ躊躇いは覚えたが、ここまで来ておいて収穫がないのはつらい。結局その提案に頷く。

 ハルの同意が得られたのを確かめて、雨は指紋を残さないための手袋を履いた。さすがに本職は準備がいい。

「見張ってろよ」

「分かってる」

 雨がドアに触れてから十秒もかからずに、カチャンと望み通りの金属音がした。ため息が出るほどいい腕前だ。ハルではこうはいかない。

「開いたぞ。じゃあ入ろうか」

「お邪魔します」

「律儀だな」

「敬意だよ」

「こんな入り方しておいて、敬意も何もないだろう」

 痛いところを突かれたので、言葉は返さず、黙って室内の様子を伺った。

 玄関から一歩入ったところからすべて見渡せる、一部屋だけの本当に小さな空間だ。壁際に作り付けの大きい棚が一つと、流し台が一つ。天井に明かり用のコードが伸びているが、電球はもう付いていなかった。

 おそるおそる踏み出せば、床が軋む音がした。片足にゆっくり体重をかけてみる。床板から音は鳴ってもたわんだり沈んだりはしないので、腐ってはいないと踏んで、慎重に歩を進める。床にはうっすらと白い埃が積もっており、一歩歩くごとに足跡が付く。

 中ほどまで進んだところで、後ろが付いてきていないことに気が付いた。

「雨?」

「痕跡が残るからパス」

 足跡が残るのを嫌がっているらしい。警察の捜査で、靴跡の照合が行われることがあるのだ。靴のサイズや型番どころか、歩き方の癖までばれることがある。

「靴、どこのメーカー? どこにでも売っているやつなら、足が付きにくいから気にしなくても大丈夫なんじゃない?」

 そもそも、ここはずっと使われていなかったので、警察にマークされているわけでもないし、捜査が入る可能性も低い。

 そこまで言っても首を振ったので、諦めて自分だけが奥に向かう。

 南側に掃き出し窓があって、陽の光がそこから入ってきていた。カメラを構え、窓から見える風景を写真に撮り、雨のところまで見せに戻る。

「あの窓からでも駄目だったのか」

「うん。枝が邪魔」

 窓の向こうも、枝や葉が生い茂って見通しが悪い。

「ここからは見えなかったか?」

 雨が少しだけ木の途切れた部分を指さす。

「それも駄目。見て」

 次の写真を表示させる。

 他の場所に比べればよく見えるが、それでも湖が終わって向こう岸が見えるかどうかぐらいまで。中田邸があるのは、丁度太い枝がかかる位置なので、大部分が隠れてしまっていた。

「収穫なし、だな」

 小屋の外に出て、遊歩道の脇のベンチに二人腰掛ける。深く息を吸って、吐き出した。木漏れ日が足元に落ちて地面がきらきらと揺らいでいる。風が心地よい。

 朝から動きっ放しだったので、お腹が空いていた。鞄の中を探り、買ってきていたコンビニおにぎりを出す。雨も荷物から同じコンビニの袋を出してきたので、思わず笑ってしまった。本当に最初から付いてきていたらしい。レジで後ろに並ばれていて気付かなかった自分にはさすがに呆れた。

 おにぎりの味も同じだった。「そこまで真似をしなくてもいいのに」と言えば、「違うのを買ったら、一口くれだの交換してだのうるさいから嫌だ」と返された。うまく反論できなかったのでむくれてみせる。でも、最初から一緒に食べる気だったのかと思えば、あまり嫌な気持ちではない。

 しばらくは辺りを歩いて時間を潰すことになった。歩きながら他愛もない話をした。ほとんどが絵に関係する話だったけれど、話題は尽きなかった。


 宵の明星を見た。

 あれだ、と指で示されたほうを見る。薄暗くなり始めた西空の一点に、視線が吸い寄せられる。

 ――ああ、描きたい。

 自然と頭に浮かぶのはやはりそれだった。

 夜の始まりを恐れず、凛然と輝く強い光。


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