3
まずは絵をじっくり眺めることにした。薄手の手袋を履いて絵を横向きにひっくり返すと、裏側に作者のものと思われるサインがある。
「『中田秋成』か。筆跡には詳しくないからなあ。後で調べよ。画材は……」
インターネットの力で中田の作品を一通り眺め、絵の具や紙の種類を確認する。
最近自分の絵はキャンバスに描くことが多かったので、作業はパネルの水張りから始まった。紙の寸法を測り、霧吹きで水分を含ませて、紙が波打たないように板に張って表面を整える。
紙が乾くまでの時間は、食パンをかじりながら、再びパソコンで中田秋成の作品を見て回った。簡単な紹介や過去のインタビューも見つかったが、出典が不明のあやしい記事も多い。
情報が到底足りず、一度大学に行って、関連する書籍を上限ギリギリの冊数まで借り、残りは資料をコピーして持ち帰った。ついでに研究室に立ち寄って、壁のホワイトボードに『しばらくこもります』と書き置きを残す。実によくあることなので、教授以外はおそらく誰も気にしない。
中田の作品は、写実的な水彩画がほとんどだった。特に人物画は、目の前にいる人をそのまま落とし込んだようで、眉の動かし方一つでも慎重に扱っているのが分かる。指先の開きや肩にこもった力すらも。真摯に写しとられた人間の身体の動きから、感情は自然と見て取れた。
水彩画は久々だった。
鉛筆で家や人物の輪郭をとり、背景の木を描いて、一回絵から離れた。二枚を見比べて違和感のある部分を修正し、また離れて。それを繰り返して満足のいく出来になってから、細部の描き込みに入る。
数時間か、あるいは日単位か、とにかく長時間を経てようやく着彩に入った。筆を取り、基礎となる色を薄く落として色を重ねていく。光の当たる部分へは紙の色を残し、陰となる部分には何度も色を塗り重ねた。
中田秋成の作品は人物を描いたものが主だった。風景画については参考に出来るものが少なく、作業は難航する。
(いや、結局これも、人物を描きたかったのかもしれないな)
絵の中心に配置された女性をじっくりと見つめる。髪の毛の一本一本や、ドアノブをひねる動作までが、細かく描かれている。単なる風景の一部以上のものを感じる。
絵に没頭している間は、自分がどれだけ入り込んでいるかに気付かない。細密なところまで描き込み、作品が完成に近づくほど、その他のいろいろなものが曖昧にとけていく。時間も、自身の意識も輪郭も感覚も。自分がだんだんと小さくなって、最後の一粒まで消え失せて、そうしてようやく、目の前の一枚が完成したことに気付く。
ハルはしばらく動きを止めたあと、のろのろと筆を置いた。
近くから、ふらっと立ち上がって少し離れた場所から、二枚を並べて。あらゆる角度と方向から見て比べて、一度小さく頷く。
そこでぷつんと糸が切れた。
自分の体の重さが戻り、地に足がついて、そのまま立っていられなくなった。ぺたりと座り込み、姿勢を崩して頬を床につける。
火照った頬に、床板の冷気が心地よく、ハルはそのまま目蓋を下ろした。
2
次に目覚めたときは布団の中だった。
「ああ、起きたのか」
相変わらずいつの間に入ったのかわからない男が部屋に居て、冷蔵庫をあさっている。
「ごはん? それともパン?」
「ごはん……」
「味噌汁は?」
「いる……あぶらあげ……」
「分かった、入れる。シャワーでも浴びてくれば」
「んん……」
「着替え持っていけよ」
「うん……」
ぼうっとした声で返事をして、ハルはおぼつかない足取りでユニットバスへ向かった。
***
油揚げの入った味噌汁は、ハルが自分で作るインスタントのものよりずっとおいしい。久々にまともなものを口にして、思考力が多少は戻ってきた。
「食べるのも寝るのも何日ぶりだ」
「ええと……忘れた」
「ああそう」
昔のハルが、絵のことだけ考えていられたのは、それ以外のことを父や雨がすべて肩代わりしていたからだ。今はそんなわけにはいかない。
それでも幼い頃からの刷り込みはあまりにも心地よく、つい忘れて享受しそうになる。彼に対する無意識の甘えが強く根を張っているのだ。
雨だっておかしい。ハルが自己管理すらできないことを、笑わず、咎めず、当然のように世話を焼こうとする。彼はそれが異常だと気づいているのだろうか。
ハルは絵を描きたくて、雨は絵を描かせたい。それだけのことでいいのなら、答えは単純だ。しかし、目の前のキャンバスだけにのめり込み、その他のことを見過ごした過去は、ハルにとっての傷だった。自分にそんな生き方を許すことはもうできない。
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