紫紺の空に明星

土佐岡マキ

1


 ハルは寝付きがいいほうだが、今日はふと夜中に目が覚めた。

 暗い天井に、電灯のオレンジ色がぼんやりと浮かんでいる。布団の上に一人。体の上にはいつもの毛布。

(……うん。歯磨きして、お風呂に入って、ちゃんと寝た)

 この時間にきちんと布団を敷いて、電気を消しているだけで百点満点だ。描きたい絵があるときのハルは、キャンバスの前で居眠りしたり、クロッキー用紙に埋もれたりして朝を迎えることも多い。

 微睡みながら夜の静けさを確かめて、再び深い眠りの淵へ下りようとしたときだった。寝返りを打つと、視界にあるものが引っかかった。――人の足だ。

 反射的に息を呑むと、それに気づいた相手がしゃがんで、ハルの口を手で覆う。塞がれるときに鼻は避けてくれたので窒息する心配はないが、そこじゃない。

 無理やり引き剥がそうとすると相手も躍起になるので、早々に抵抗を諦め、代わりに相手の顔を睨む。相手は、こちらが暴れたり叫んだりしないのを確認して、ようやく手を離してくれた。

「よお、ハル」

 昔馴染みとはいえ、道端で偶然会ったような気軽さで話しかけてくる男に、うんざりした。やっていることは、立派な不法侵入だ。積極的に会いたいとは思えない知り合いだが、来るなら来るで、せめて『ハルの起きている時間に』『チャイムを鳴らして』『堂々と』来てほしいものだ。

 文句を言って聞く相手ではないので、ハルは言いたいことをため息にかえて吐き出した。『誰もが寝静まっている時間に』『足音を忍ばせて』『こっそりと』が彼の流儀だということはよく分かっている。

「今何時……雨」

「二時ぐらい」

 雨は電灯の紐を二回引いて、明かりをつけた。

 突然明るくなった室内に目がくらんで、ハルは何度か瞬きを繰り返す。まともに目を開けられるようになった頃には、雨は勝手にやかんで湯を沸かしていた。

 その間に手櫛で簡単に髪を整えて、スウェットの上からカーディガンだけ羽織る。

 雨が差し出したマグカップのうち、自分がいつも使っている赤のほうをぶんどった。

 雨はこちらの様子を眺めて、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「しかし、ひどい恰好だな」

 なんてひどい言い草だ。

「こっちが寝起きだってこと忘れてない?」

「着替える時間ぐらいあるけど?」

「……いい。どうせすぐ寝る」

「そうなればいいけどなあ」

 雨は含みのある言い方をして、折りたたみ机の向かい側に腰を下ろした。座布団なんて気の利いたものはない。

 カップの中身をふうふうと冷ましながら、ハルは相手の姿を眺めた。

 ハルの格好は確かにひどいが、雨だって他人のことをとやかく言える風体ではない。

 黒い帽子、黒いタートルネックのシャツに、黒い手袋、黒いボトム、黒い靴下。きっと玄関に脱いである靴も真っ黒だ。

 闇に紛れるための仕事装束を意味もなくするはずがない。とすれば、この男は何をしてきた――?

 問いかける前に、雨の手がハルのほうへ伸びてきた。手袋をつけた手が、額の中心をグリグリと撫でる。

「眉間に皺がついてる」

「こんな時間にたたき起こされたら、当たり前」

「おいおい。起こしたつもりはないな。そちらが勝手に目を覚ましたんだろう」

「じゃあ何。寝顔を眺めて朝まで待つつもりだったの」

「いや? 気配で起きるかなあと期待はしてた」

 軽口を叩いた男が、思い出したように不機嫌になる。

「そういえば、俺からの電話を無視しただろう。ちゃんと出てくれよ。そうすれば、こんな時間にわざわざ訪問しないで済む」

 こんな時間に来る意味は分からなかったが、言われたとおりに携帯電話の画面を確認する。

 数年前に買ったものだが、出番はほとんどないのでまだピカピカだ。世間では、何をするにも住所だの連絡先だのを聞かれるので、仕方なしに作った。入っている連絡先は大学の知り合いと、今の師と、そのぐらい。数ヶ月間使わないこともざらにあるので、あまり頻繁にはチェックしない。

 確かに雨の言ったとおり、数件の着信履歴が残っていた。しかし、これは雨が悪い。

「私、非通知の電話は出ないよ?」

「出てくれよ。大抵俺だって分かるだろう」

「分からないから非通知なんでしょう? 大体私、雨に番号教えてない」

 じとりと睨むと、雨はどこ吹く風で本題を切り出した。

「で、この絵のことなんだが……」

 部屋の隅に立てかけられた包みには気付いていた。黒い布を剥がした下に、丁寧に梱包されているパネルが見えた。サイズは四十号程度。徒歩でギリギリなんとか担いで来られるぐらいの大きさだ。

 彼が広げた中身は、一枚の水彩画だった。

「……どこから盗ってきたの」

「人聞きの悪い。きちんと正規の手順を踏んで持ってきた預かりものだ」

「手順、ねえ」

 絵画泥棒が言う『正規のルート』とやらを、どこまで信じていいものか。

 それは風景画だった。横長で薄暗い森の中が描かれている。

 中心にあるのは一軒の家だ。夜空の下、白い壁がぼんやりと浮かんでいる。玄関の右側には小窓があるがそれも暗く、中に明かりは点いていない。玄関のドアの前には後ろ姿の女性がいた。片手でドアノブを持ち、ドアを半分ほど開けている。表札には『田中』と薄く文字が見えた。

 空は真っ黒というわけではなく、濃紺が絵の下の方に向かってだんだん薄明くなって、ほんの少しだけ日の光が差している。明け方か、もしくは夕方か。屋根の右上に星が一つだけ光っていた。

「タイトルは?」

「『明星』。中田秋成の作」

「ふうん。昔、いくつか見たことはあるかなあ。で、この絵がどうしたの」

「偽物らしいんだ、それ」

 偽物、と言われてもう一度まじまじと見る。しかし、初めて見る絵で、ハルは中田秋成の筆致に詳しいわけでもない為、ピンと来ない。

 首を傾げるハルを見て、雨が事の経緯を話し始めた。


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