みをつくし

談婆逢夏

みをつくし

青柳が風にさらわれ、浅い川の水面が揺れる。夏が来た。昔ここには遊郭があったといいう。部屋の窓から見えるこの柳はその頃からここにあって、艶やかな遊女たちや往来する客たちを見守ってきたのかもしれない。今では外来種の亀に独占されたこの川は、浮世と常世の郭を隔てるお堀だったのかもしれない。


 私は今晩、大切な人を永遠に失うかもしれない。ただ会いたくて、嘘でも必死な言い訳が聞きたくて、好きって言ってほしくて呼んだのだ。彼はきっと来てくれる、私に会いたくなくてもきっと来る。柳のそばの橋で私はつっ立ってまだまだはっきりさせたくない自分の想いとたたかっていた。キヨが来なければいいと思った。それくらい向こうが最低で、私のことどうでもいいと思っているなら話は早いのに。いままでのことも、この気持ちも全部キヨに突き返してやる。もしも彼が笑顔で優しくて私の知っている彼だったら嫌だ。


私は何も聞けず、何も伝えられず、今宵心の動揺なんてなかったことになって流されるだろうから。


 夜の柳はただ静かに立っているだけなのにどうしてこんなに恐ろしいのだろう。その静けさは、まるで人がじっと見据えてそこにいるかのような、そういう怖さを持っていて、ざわざわと揺れるのは囁き声のようでますます「人」を感じてしまう。


 彼はやっぱり来てしまった。約束通りの時間に、待った?なんて言いながら。急にどうしたの、と橋から川を覗き込みながら話すのは彼のいつもの癖である。その声はいやに無邪気だった。


私、知ってるんだよ。ミッちゃんがキヨのこと好きなの。二人がおそろいのバドのキーホルダー付けてることとか、部活で付き合ってるって噂されてることとか。知ってるんだよ。


そして、キヨもそんなミッちゃんを気にしてることとかも。私は、ただ、別れよっか、と言えばいいだけ。ここで食い下がろうって気になれないし、問い詰めようという気にならないのが自分でも不思議だ。きっと私は自分が思うほど、キヨを好きじゃなかったのだろう。


 私が心にそう思って最終確認して、別れを告げるとキヨは黙って、やはり川をみつめたまま、澪がそうしたいならいいよ、と言って私たちはあっさり赤の他人になった。返事までのわざとらしい間が、私への隠しきれない冷めた思いを物語っていた。それ以上何も言えないし、言う関係ではない私たちは、歩き出す、永遠の別れに何の余韻も残すことなく。


でもなんとなく家に帰れない私は川の波紋を数えながら生ぬるい夜風を感じていた。


「あんた、あいつのことが好きなんだろ」突然聞こえた艶やかな声が私に向けられているものなのかわからないうちに柳の下に佇む着物の女が目に留まった。前で結んだ帯、時代錯誤に結った髪。柳の下に幽霊が・・・などとよくいうが逆にそうでないと不自然な姿をしている。しかし声の主が彼女であり、こちらをじっと見据えている様子をなぜか怖いとは思わなかった。


あなたもしかして遊郭の・・・?と問うと


「そうさ、あたしは遊女だよ」


少し近づいて見ると月明かりに照らされた彼女の肌は透き通るように白く、赤い紅の引かれた口元は不敵に笑みを浮かべている。その美しい姿を見ているとますます怖さからは離れていった。


「あんた、名前はなんていうんだい」


溌剌と話す彼女が幽霊だなんてにわかには信じられない。澪です、と言うと、


「奇遇だね、あたしも、みおっていうんだよ」


「で、澪、あんたさっきの男が好きなんだろ」


この遊女があまりに突拍子もないことを言うから一瞬迷ったがそんなことはない。


いえ、そんなことはないです。もう終わりましたし、私もそんな好きじゃなかったんです。


私はさっき心に思ったままを話した。


「そうなのかい?じゃあさっきの顔はなんだい。そんな風には見えなかったね」


私は彼と別れた後どんな顔をしていたのだろう。水面を見つめていた私の心はとても静かで落ち着いていたはずだ。


私はキヨと別れてすっきりしました。彼には好きな人がいるみたいだしこれでいいんです。


私は本当にそう思っている。


「まあどう思ってるかはあんた次第さ、あんたは自由さ。遊女はそうはいかない。郭はねそういうところなんだよ。あたしが初めて客を取ったのは十六。それはもう嫌で嫌で仕方なかった。逃げ出そうとも思ったけど帰るところはないし、見つかればひどい折檻が待ってる。迷う自由なんてあたしにはなかった」


遊郭のことは詳しくないけど、私が当たり前にしてる自由なんてどこにもない世界なんだろう。きっと好きな人と結ばれるなんて許されない場所だったのだろう。


キヨいて楽しかったことも思い出もいっぱいあるし、ずっと好きだった彼と付き合えて本当に幸せでした。でも、そうだった、ってだけで過去なんです。好きだけじゃ駄目なんですよ、たぶん。私はみおさんの話に同情はしているつもりだ。でも終わったことなのだ。柳のざわめきが私をはやし立てている。


 「あたしもかつて愛した男がいた。あの人もあたしを深く愛していたさ。でもあの人に身請けの金は払えなかった。そういうとき郭の女は心中しちまうこともある。互いの愛だけを頼りにこの世を去るんだ」


心中、この世で結ばれない運命、愛が人を死に走らせるなんて。じゃあみおさんはその男の人と・・?


「あたしはちがうよ。その男とは結ばれないまま身請けされたからね。あたしには心中する勇気も度胸もなかった。いや、あの人への愛はその程度だったってことなのかねぇ」


「でも、死の間際間で思ったよ、あの人と死んでいれば今ごろ結ばれていたんじゃないかってね。あたしの一生はずっとそれだけが気がかりだった。あの人はどうしているだろう、


あたしは片時もあの人を忘れはしなかったよ。


自分の気持ちを信じて、好きを諦めなければよかったって悔やむことになっちまった」


みおさんは静寂を身にまとい水面をなでるように見つめている。その横顔は儚くも美しいが、もし彼女が愛した男性と結ばれていたならこんなに悲しい顔をすることはなかったのだろうか。


「だからね、あたしはあんたに後悔してほしくないのさ、意地張ってるんだろ?ほんとは自分のこと手放さないでほしかったんだろ?」


私は、私はキヨのこと、こらえてもこらえてもあふれる涙が沈めた熱を、隠した本音を晒しだす。私はキヨが好きだ。


「あんたが思ってることちゃんと言ったのかい?いいかい、愛する男の手は決して離してはいけないよ。自分の好きを信じるんだよ。


そして自分が信じている相手を信じるんだ。じゃないと永遠に会えなくなるよ」


私は、私は何も言えなかった。強がって平気な顔をして何も言えなかった。キヨの気持ちを知るのが怖くて逃げたんだ、自分の情熱のほんの一滴だって満たせないまま沈めてしまった。ミッちゃんがいたってキヨはキヨで、私は彼が好き。嫉妬も信頼も好きもプライドじゃなくてありのままを伝えるべきだった。頬を伝う涙を夜風がかすめてそのまま柳を震わせる。そのざわめきがまた私をはやし立てているように聞こえる。私の背中を押すような、はたまた心の動揺のようなざわめきが心地よく流れる。


「この川はここで生きた遊女たちの涙でできているんだよ。そしてこの柳はその涙と心の行く末を何百年も見守ってきたのさ。澪、あんたと同じ名前なのも何かの縁さ、幸せになりな」


そう言ってほほ笑む彼女の情の深さに触れたその男の人もきっと彼女を深く深く愛したのだと思う。雲間からのやさしい月明かりに照らされた彼女は天女のように美しく、柳に手を伸ばしそのまま消えてしまった。私は深く頭を下げキヨの元へ走る。走って、走って私はキヨにただ会いたかった。キヨの家の近所まで来て彼を呼び出すとやっぱり彼は来てくれた。何事か、と思ったかもしれないけれど今度は言うぞ、ちゃんと伝えるから。耳の奥で心臓が高鳴る音がする。ひとりで川を見つめたさっきと違ってすごく騒がしい心の動き。


キヨが好き。私、キヨといれて幸せだったよ。


ミッちゃんのこととか、自分の本音とかいろいろ強がっちゃったけど本当は別れたくなんかない。今でも変わらず想ってる。


遠く離れているはずの柳のざわめきがすぐ近くに感じられる。このざわめきはあの地に眠る遊女たちの魂の囁きだったのかもしれない。そして今、思いを遂げられずに死んでいったたくさんの魂が私たちを見守り祝福しているようだった。

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