シヴの眼、リネアの剣。

大澤めぐみ

シヴの眼、リネアの剣。


 一筋の光すら見えない暗闇の中で、シヴは底知れぬ不安を感じていました。


 万全の状態であれば、たとえ完全な暗闇の中であろうとも、シヴの耳は人間などは言うに及ばず、どんな獣よりも小さな音も聴き分け、鼻は森の茂みの奥深くに隠れた獲物すら嗅ぎつけるので、周囲の状況を把握するくらいわけはないのですが、いまは巨人のいびきのような重く低い音が絶えず響いているせいで耳は役に立たず、鼻腔内にこびりつく血の臭いのせいで鼻も利きません。


 そして、なにも見えないのはこの場所に明かりがないからではなく、もうシヴの両目は完全に潰されてしまっているからでした。


 シヴは自分の目がもう二度と、あの空の鮮やかな青も、たくましく萌える緑の森も草原も、眩いばかりの陽の光も映すことはないのだと理解して、そのことを静かに受け入れていました。獣は自らの弱みを他者に見せません。シヴはまだ子供でしたが、その超然とした佇まいは、すでに一匹の誇り高い獣でした。


 ここはいったいどこだろう? この絶えず響くごうんごうんという音は、いったいなんなのだろう?


 シヴはまるくうずくまりながら、そんなことを考えていました。


 それは、シヴがずっと暮らしていた森の奥深くでは一度も聴いたことがない、頭の内側で羽虫が好き勝手に飛び回っているような、いやな音でした。シヴは森の中でいろんな風の日の音や雨の日の音、あらゆる獣の気配を聴いて生きてきましたが、そのどれでもない、ひどく不愉快な音です。


 自分が人間たちに捕らえられ、狭い檻に入れられているのだということは分かります。まるくうずくまっていても、背中に硬く冷たい鉄の感触を感じますし、すこし身じろぎをするだけで頭のてっぺんもぶつかってしまうので、ほとんどまったく身動きはできませんでした。これでは、石のようにじっとうずくまっているほかはありません。そうしてただただじっとしていると、森に攻め入ってきた人間たちのことが自然と思い起こされてきます。


 人間とは、あんなわけの分からない技を使う連中だったのか。 


 先の大戦争で魔王さまとともに人間たちの大軍勢と戦った、誇り高きシェリガル狼の長、母マーシエルは、常々「人間を甘く見てはいけません」と言っていましたから、人間どもがヤルンヴィトの森にまで攻めてきたときも、シヴとて油断していたわけではありません。


 シヴもそれ以前に何度か、森に迷い込んできた人間を見たことはありました。二足で歩き、空いた手で器用に道具を使うのは珍しいものの、矮小で足も遅く力もない、なんとも弱々しい生き物でした。人間たちの振るう剣も槍も、シヴの厚い毛皮に守られた身体には傷ひとつつけることはなく、身に纏った鉄の鱗も盾も、シヴのするどい爪と牙の前には、葉っぱほどの役にも立ちません。こんなのはすこしも怖くはないと、そのときは思いました。


「しかし、ひとりひとりは軟弱なそんな人間たちも、寄り集まって軍隊を組織すると地上最強の種族となるのです。シロアリの群れが、やがて森の巨木すら朽ち果てさせてしまうように。ゆめゆめ油断してはなりませんよ」


 母マーシエルは、繰り返しシヴにそう言い聞かせました。


 シヴたちの種族、シェリガル狼の主君たる魔王さまも、百年もまえに、そんな人間たちの軍勢に討ち滅ぼされたのです。大勢の人間が何世代にもわたって戦いにいどみ、すこしずつ魔王さまを守る魔物たちを勢力をそぎ、使命を引き継ぎ命を積み重ね、ついに神の祝福を受けて鍛えあげられた聖剣の切っ先を、魔王さまの首にまで届かせたのでした。


 しょせんは小さく弱い生き物にすぎないとあなどっていた、そのおごりこそが魔王さまを討ちとられた魔物たちのあやまちでした。


 ひとつの人間は弱くとも、より集まればやっかいだ。あれらはつよい。

 けっして甘く見てはいけない。


 シヴたちシェリガル狼は、もともと魔王さまに仕える従者として生み出された存在ですから、真に仕えるに足る主を見定めなければ、その本当の力を発揮することはできません。主を欠いた母マーシエルは、ヤルンヴィト森の奥深くにまで引き返さざるをえなくなりました。


「ああ、なんと口惜しい。わたしが不甲斐ないばかりに、魔王さまは勇者に討たれ、人間どもは厚かましくも際限なく地に満ち満ちました。魔王さまさえご健在であれば、あのような勝手は決して許さないものを。我が娘、シヴよ。このヤルンヴィトの森は神域防衛のためのかなめ。神域にまで人間の侵入を許せば、魔王さまの復活にも差しさわりがありましょう。魔王さまが帰還される約束の日まで、わたしたちはこの森を守らねばなりません。絶対に、人間どもを甘く見てはいけませんよ」


 シヴは先の大戦争が終わったあと、森で生まれました。戦いを知らず、森と草原の王者として、母マーシエルと共に木の実のある場所を探して歩き、鹿を狩り、清浄な沢の水を飲み生きてきました。


「シヴ。あなたもいつか、真に仕えるに足ると信じられる主を自ら見定めるのです。その日まで、よく学び、鍛錬をつみなさい」


 洞窟で身を寄せあい暖をとる夜には、マーシエルは大きな舌でシヴの毛繕いをしながら、繰り返しそう言い聞かせました。シヴは、その心穏やかな時間がなによりも好きでした。


「はい、おかあさま」


 マーシエルといれば、シヴの心にはなんの不安もなく、世界のすべては美しく清浄で、果てしなく豊かでした。


 しかし、そんな平和なヤルンヴィトの森にも、ついに人間たちの軍隊が攻め入ってきたのです。


 最初に知らせを持ってきたのは、森に棲み、大空を自由に飛び回る、噂好きの夜鷹たちでした。


「大変だ、マーシエル。鉄血皇帝率いる蒸気帝国の大軍勢が大陸中央を制覇し、ついにこのヤルンヴィドの森にまで迫ろうとしている」


 魔王さま亡きいま、マーシエルは魔物たちを率いる森の女王の立場にありました。


「おのれ、驕慢で恥知らずの鉄血皇帝め、つけあがりおって。ヤルンヴィドの森を過ぎればここから先は魔の神域。あのように不埒なものに神域を犯させるわけにはいきません。返り討ちにしてくれようぞ」


 鉄血皇帝が神域にまで至れば、魔王さまの帰還の障害となるのはもちろんのこと、神域に溢れ出る大地のちからを得て、ますます驕り猛り手がつけられなくなるのは目に見えています。蒸気帝国の軍勢を押し返すため、普段は森のいろいろなところで、お互いに追ったり追われたり獲ったり食われたりをしている森の魔物たちが、みなマーシエルのもとに駆け付け、団結しました。シヴもまだ子供とはいえ、森の女王の娘です。森の魔物たちとともに、人間たちを迎え撃つため、森の縁へと向かいました。


 シヴにはなにがなんだか、まるでわけが分かりませんでした。シヴの俊敏な爪ですら到底届かぬような遠くから、ものすごい速さで飛ぶつぶてを次々と撃ち込まれたのです。とはいえ、つぶては痛くはあるものの、森の王者たる神獣、シェリガル狼の黒く分厚い毛皮を貫くことなど到底できはしません。


 なんだろう? いったいなにをされている?


 魔王さまを討った人間たちが、その器用な手で鋼鉄の剣や槍といった武器を使ったということはシヴも知っていましたし、ときどき森に入り込んでくる命知らずの人間たちも、死に物狂いで刃物を振りまわしていました。しかし、その程度は分厚い毛皮と、強靭な牙と爪をもつシヴにとっては、恐れるほどのものではありません。


 けれど、この蒸気帝国の人間たちがつかう武器は、なんだかよく分からない。


 不思議に思ったシヴは目を見開き、人間たちの動きをよくよく見ようとしました。人間たちは黒々とした鉄の鱗を身に纏い、横一列に展開して、長い筒のようなものをシヴへと向けていました。


「あの装甲のような毛皮は銃では貫通できん! 総員、目を狙え!!」


 人間のひとりがそう叫び、手を振り下ろした次の瞬間、無数の轟音と共に、シヴはまったくの暗闇に包まれました。驚いて暴れ回っているうちに、ぽんっと身体が宙に跳ねあがり、自分が冷たい鉄の鎖でできた網のようなものに包まれていることに気がつきました。


「はは、素晴らしい! 世にも珍しい魔物の王、シェリガル狼を生け捕りにできるとは! 皇帝さまがお喜びになられるだろう。こいつは生かしたまま帝都まで運べ!」


 意識が遠のき、つぎに気が付いたときにはシヴは檻に入れられ、この耳障りな巨人のいびきが響き渡る場所に運ばれました。


 ああ、森の魔物たちは、母は、いったいどうしただろうか。人間どもを退け、森を守ることができただろうか。


 光を失い檻に囚われたシヴには、なにも分かりません。森の最強の魔物たる母が人間ごときに敗れるとは思いませんが、いかに母とはいえ、あの不思議なつぶてを目に喰らっては、ひとたまりもないでしょう。もしかすると、この無限に拡がる闇のどこかに、母もまた捕らえられているのだろうか。それとも、ひょっとしてもう、人間たちのつぶてに殺されてしまっただろうか。


 永遠に続くかのような不安に苛まれていたそのとき、不意に闇のなか、シヴのすぐちかくで、小さな気配が動きました。うぅんと吐息をもらし、もそりと身を起こしたようです。


 こんなちかくに、誰かがいたのか。


 まったく注意を払っていなかったシヴは、驚いて身を強張らせました。その小さな気配の持ち主はおそらく、気を失っていたのでしょう。そのせいで、シヴにはいまのいままでなんの気配も感じることができなかったのです。


 声が聴こえました。


「まあ、なんて美しい獣」


 シヴを閉ざす完全な暗闇を貫く、一条の光のような声でした。それは耳から聴こえる音にすぎないはずなのに、なぜか光輝いて見えたのです。シヴはすこしだけ首をもたげ、声のしたほうに顔を向けました。


「盲いているのね。帝国軍め、神域の聖獣、シェリガル狼まで生け捕りにして辱めるとは、どこまでも畏れを知らぬ厚顔だわ」


 森の小鳥たちがさえずっているような、凛として涼やかな心地の良い声音でした。暗闇のなかに、陽の光に満ちたなつかしい森がひろがるようで、シヴの心は言いようのない安心感で満たされました。


 これはきっと、わるいものではない。


 そう思ったシヴは「あなたは誰ですか?」と、声の主に問いかけました。


 空気が一瞬、微妙に揺れて。シヴの鋭敏な聴覚は、声の主の困惑を感じとりました。


「驚いた。あなたは言葉を解するのね」

「なにを不思議なことがありましょうか。言葉がなければ困ります。森の獣たちもみな、それぞれの言葉を話します」

「そう。あなたたちは、わたしたちが思うよりもずっと、賢いのね」

「はい」


 声の主が息をつく。それだけで、緊張が解けたのがシヴには分かります。言葉が通じたことで、危険はなさそうだと安心したのでしょう。


「あなたは、名前はなんというの?」

「シヴ」

「わたしはリネア。はじめまして、神域の聖獣、森の王者よ」

「はじめまして、リネアさま」


 シヴは自然と、敬称をつけてリネアの名を呼んでいました。そうすることが当たり前のように思えたのです。シヴの直感が、リネアは敬うべき高貴な存在なのだと伝えていました。


「リネアさま。ここはいったい、どこなのでしょうか?」


 シヴが訊ねると、リニアは「そう。目が見えないから、なにも分からないのね」と、哀れむような声を出したあとで「わたしもいま目を覚ましたばかりなのではっきりとは分かりませんが、おそらく、ここは蒸気帝国の軍艦の船底です」と、言いました。


「この、ずっと響いている巨人のいびきのような音はなんなのでしょうか。頭がおかしくなってしまいそうです」

「これは蒸気機関の音よ。火を燃やして湯を沸かし、そのちからで大きな鉄の塊をまわして、鋼鉄製の巨大な軍艦を動かしているのです。蒸気帝国だけが持つ、機械のちからです」


 機械という言葉はシヴにはよく分かりませんでした。シヴの住んでいた森に、そう呼ばれるものはありません。しかし、自分を捕らえた人間たちも、鉄でできたなにか不思議な道具を使っていましたから、ああいう類のなにかなのだろうと、シヴは考えました。


「鉄と火薬のちからで大陸の中央を制覇した鉄血皇帝は、もはや地上に恐れるものなしと、大陸辺縁の小国家群や、前人未到の神域にまで派兵し、世界を征服しようとしているのです」


 世界征服という馬鹿げた言葉の響きに、シヴはおもわず鼻からフンと息を漏らしました。


「矮小なる人間風情が世界征服などと、身のほど知らずにもほどがあります。たとえどれほど強力な軍隊を持っていたところで、それでは巨木を食い荒らし自らのコロニーさえも滅ぼしてしまう愚鈍なシロアリどもと変わりません」


 森も、強い獣も弱い獣もそれぞれがそれぞれに栄え、お互いに追ったり追われたり獲ったり食われたりしながら成立しているのです。どれか一種だけが他のすべてを食い殺せば、やがて森そのものが衰退してしまうのは火を見るより明らかなことでしょう。それは森であれ大陸であれ世界であれ、夜空をめぐる星々でさえ、変わりません。そんなことは、森のツグミたちですら知っている、当たり前のことです。


「ええ、その通り。別に大陸制覇だろうと世界征服だろうと、真に世に安寧と繁栄をもたらすのであれば、王座に座るのは誰でも構わないのです。しかし、あの者の欲望はやがてすべてを喰い尽くし、大陸そのものを荒廃と破滅へと導くでしょう。ですが、誰も彼の暴虐の王を止めることができません。わたしの騎士団も最期まで勇敢に戦いましたが、剣と弓矢では、蒸気帝国の銃と大砲の前に、なすすべもありませんでした。わたしの国は、蒸気帝国の軍に徹底的に蹂躙され、滅ぼされてしまいました」


 わたしの国、という言葉が、シヴはすこし気になりました。国を作るのは人間だけです。シヴの母マーシエルは森の魔物たちを率いる女王でしたが、森を統治していたわけではありません。森はただそうあるがように、森として成立しているのです。獣たちは国を持ちません。


「ああ、そうだ。ひょっとしてこうすれば、あなたの盲いた目にも見えるかもしれない」


 リネアが動く、わずかな気配を感じました。それにあわせて、鉄がぶつかり合うじゃらじゃらという音も聞こえます。


 伏せたシヴの前脚の先に、とてもちいさななにかが触れました。


 次の瞬間、シヴはまったく別の場所にいました。煉瓦でできた人間の街が、石の城が、すべて炎に包まれていました。鉄の鱗を身に纏った兵隊たちが、逃げ惑う人間どもを剣でぶすぶすと刺してまわっていました。


 巨大な黒く長細い壺のようなものが引き出され、そこから飛び出した巨大な鉄球が、石の壁を破壊しました。何千、何万という人間を、何千、何万という人間が焼き殺していました。どこかの誰かの首が飛び、たくさんの血が流れ、おびただしい数の死体の山が築かれています。馬に乗り鉄の槍を持った騎士たちが、つぎつぎとあの妙なつぶてに撃たれて死んでいきます。


 人間が人間同士で殺し合い、すべてを破壊し尽くしています。

 なんと愚かで哀れな光景だと、シヴは思いました。


 馬に乗って戦う騎士たちに混じって、女の姿もありました。女が腕を一振りすると、妙な鉄の筒を持った兵士たちはとたんに惑い、同士討ちを始めました。しかし、やがて遠くからのつぶてが脇腹に命中し、その女も馬から落ちました。


 そして、また次の瞬間には、その女が暗く狭い場所で、床に這いつくばるようにして、鉄の檻に囚われた黒い獣の前脚にちいさな掌を重ねているのが見えました。黒い獣が自分自身であり、いま自分の前脚にちいさな掌を重ねている人間の女こそが、この声の主、リネアなのだと、シヴはすぐに理解しました。


「リネアさま。あなたは、人間だったのですね」

「気付いていなかったのね。がっかりしたかしら。あなたにしてみれば、わたしもあなたの目を潰し、檻に押し込んだ憎き人間と同じですもの」


 リネアが悲しそうな声でそう言って、首を振りました。首を振っているのが、その表情が、シヴには見えていました。また鉄が擦れ合う、じゃらりという音がかすかにします。見れば、足首に枷がはめられ、それが鎖で鉄の柱と繋がれているのです。閉じ込めるための鉄の檻こそないものの、リネアもまたシヴと同様にこの場所に囚われていたのでした。


「いいえ。あなたのことは憎くはありません、リネアさま」

 シヴはそう答えました。はじめて声を聴いたときに感じた、暗闇を貫く一条の光のような高貴さは、その姿が見えたいまでも、なにも変わることはありません。

「どうしてそのように、床に這いつくばっておられるのです? もしや、足を」

「ええ。逃げられないように、腱を両方切られてしまいました。もはや、自らの力では立ち上がることもかないません」

「ああ、なんとおいたわしい。しかし、これはいったいどういうことでしょうか? 潰されてしまったはずのわたしの目にも、リネアさまのお姿が見えます」


 ほかの人間と変わることのない矮小で貧弱な風体でした。森に攻め入ってきた連中よりも、もっと華奢でもなさそうです。それが自分で立ち上がることもままならず、毛虫のようにぺたりと無様に這いつくばっているのです。森の獣であるシヴには、人間の美しさの基準はよく分かりません。しかし、どの種族の誰がどう見たとしても、たいそう無様な姿であったことでしょう。


 けれど、シヴはリネアのことを、とても美しいと感じました。


「ちょっとした手品のようなものよ。わたしは生まれつき、人に幻視を見せることができるの。このちからで、いくらか蒸気帝国の連中を幻惑することはできたけれど、でもそれだけ。世にも珍しい手品を使う奇術師として鉄血皇帝に献上するために、こうして生け捕りにされてしまったの」


 あなたと同じね。と、リネアはまた哀しそうに笑いました。


 シヴは憤っていました。このおかたは、あの鉄の鱗を纏った野蛮な人間どもが辱めてよいような者ではないと感じました。愚かな人間どもが、魔王さまを呪う侮蔑の言葉を吐いたときでさえ、これほど癪にさわったことはありません。


 シヴにとって魔王さまは、シヴが生まれるずっと前にいなくなってしまった、母の話に登場するだけの、どこの誰かも分からない架空の大きな存在でしかありませんでした。


 なるほど。敬愛する魔王さまを侮辱されたとき、母はこういう気持ちであったのだなと、シヴのなかのどこか冷静な部分が納得していました。


「あなたはここを出るべきです、リネアさま」


 シヴは言いました。シヴには鉄血皇帝だとか蒸気帝国だとかの、人間の世界の込み入った事情は分かりません。けれど、この高貴な人が、リネアが、ここで打ち捨てられた獣の食べ残しのように床に這いつくばっているのは正しいことではないというのは、考えるまでもなく分かっていました。確信していました。


「でも、ここを出たところでどうするのです。わたしはヤルンヴィドの森の辺縁の国、イダフェルトの第三王女でした。けれどそれも過去の話。もはや国もなく、騎士団も持たぬ王女に、なにができるというのですか」

「悔しくはありませんか、リネアさま。あなたはこのような場所におられるべきおかたではない。あなたがおられるべきなのは、威光ある玉座のはず」


 森で育ったシヴには、人間の世界の王家や権威を敬う気持ちなどすこしもありません。けれど、やはりこのかたは他の愚かな人間どもとはちがう、高貴な人なのだと、シヴは思いました。


 しかしそこで、リネアはふっと、やさしく微笑みました。


「玉座にあれないことが悔しいのではありません。民から崇められないことが、惨めに暗い船底に這いつくばっていることが悔しいのではありません。わたしはただ、自分がなすべきことをなすことなく消えていくのが、それだけが悔しくてならない」


 リネアはこの環境にあっても、自らの不遇や不運を嘆くのではなく、自分が王としての使命を果たせないこと、ただそれだけを憂いているのです。


 やはり、このかたは王としてあるべき人だと、シヴは確信しました。


「王はひとりで王となれるわけではありません。国があり、守るべき国民がいて、剣となる騎士がいて初めて王となる。国が王に使命を与え、王はその使命を果たすのです。国を持たぬ王女など、ただの無力なひとりの人間でしかありません」


「ならば、わたしがあなたの騎士となりましょう」


 シヴは言いました。


「わたしがあなたが守るべき国民、あなたを守る盾、あなたの敵を貫く剣となりましょう。わたしがあなたの国となりましょう」


 あなたもいつか、真に仕えるに足ると信じられる主を自ら見定めるのです。その日まで、よく学び、鍛錬をつみなさいと、母マーシエルはシヴに言いました。


 今日がその日で、リネアこそが主だと、シヴは思いました。


「どうか、わたしをあなたの騎士にしてください」


「けれど……」と、リネアは言いよどみました。しかし、自分にうやうやしく首を垂れる黒い神獣の姿を見てふっと笑うと「分かりました」と、答えました。


「神の森、ヤルンヴィドの王者、シェリガル狼のシヴよ。汝が牙は民を守るための剣であることを、ここに誓いますか」

「誓います」

「汝が爪は、国を災厄から守るが為に振るうことを、ここに誓いますか」

「誓います」

「よろしい。さすれば我が祖、ユーグ・デル・リビエル・ド・イダフェルドの名のもとに、第三王女リネア・イダフェルドは汝を騎士に任じます」


 沐浴も佩剣もない、まるで子供のおままごとのような叙任式でした。


「汝が、異教徒の暴虐に逆らい神に奉仕するすべての者の守護者となりますように」


 リネアが指先で十字を切り、シェリガル狼が代々仕える魔王さまとは別の神の祝福を、シヴに授けます。シヴはそんなことはすこしも気にせず、ただ静かに首を垂れていました。


「いままさに騎士になろうとするあなたに。つねに真理を守るべし。神に祈り働く人々すべてを守護すべし。恐れるな」


 リネアは腕で床を這い、手を伸ばして、シヴの鼻先を三度、かるく叩きます。


「正義は汝と共にある」


 その瞬間、シヴは自分の全身に、かつてないほどの力がみなぎるのを感じました。ここに囚われていらい、ずっと霞がかっていた思考が、スッと晴れわたりました。


 わたしはついに、真に自らが仕えるに足る主を見定めたのだ。


 身体を閉じ込めている鉄の檻も、耳につく巨人のいびきのような不快な音も、もうシヴにはすこしも気にはなりません。こんな程度のもので、森の王者、最強の神獣、シェリガル狼を閉じ込められたつもりでいるなど、人間とはなんと愚かなで驕った生き物かと思います。


 狭い鉄の檻の中で、シヴは立ち上がり、四肢にちからを込めました。背中やおしりや頭のてっぺんが硬い檻に阻まれますが、気にせずさらにちからを入れます。


 ぎょいんっ! と、奇妙な音がして、四角かった鉄の檻が丸く変形しました。広がった檻の隙間に鼻先をねじ込み、さらに押し込んで、ちからづくで拡げていきます。


「すごい。これが伝説のシェリガル狼のちからなのね……」


 リネアが感嘆の声をあげました。

 めきょきょっ! と、ついに鉄の檻が捻り切れ、シヴの身体は自由になりました。リネアの足首の枷に繋がれた鎖を前脚で押さえると、まるで飴細工を噛み砕くかのように、その頑強な顎で易々とちぎり切ってしまいました。


「さあ参りましょう、リネアさま」


 シヴはリネアの前に顎をつけて伏せました。


「でも、行くといってもどこへ? ここは蒸気帝国の軍艦の船底。なかは帝国の兵隊だらけだし、たとえ外に出ても、大海原の真ん中なのよ」


 眉をさげるリネアに、シヴは言いました。


「あのような小癪な人間どもの船ごとき、なにを恐れることがありましょう。ここがどこであろうとも、あなたのおられるところが、あなたの国となりましょう。わたしがあなたの剣です」


 正直なところ、シヴにはいま、自分たちがどれだけ絶望的な状況にいるのか、まるで分かっていませんでした。シヴは蒸気帝国の鋼鉄製の大軍艦がどんなものなのかも知らなければ、海さえもその目で見たことはありませんでした。


 けれど、シヴはもう、なにものをも恐れてはいませんでした。

 主がそう命じたからです。恐れるなと。


「そうね。どうせ一度は失った命、もうなにも恐れることなどないわね」


 そう言って、リネアはシヴの身体に寄りかかり、するすると背中にのぼると、首筋にしがみつきました。


 リネアの幻視のちからで、リネアに触れられているあいだは盲いたシヴにも世界を見ることができます。それはリネアの目が見ている光景そのままのこともあれば、鳥のようにリネアの身体を離れてうえから見下ろす視点のときもあります。時すらも超えて過去の映像が見えることもありますし、リネアが作り出したまったくの幻を見せることもできるようでした。


「なるほど、これが海と、軍艦というものですか」


 リネアが飛ばした視点のおかげで、ようやくシヴは自分の置かれた状況を客観的に把握することができました。どこにも逃げ場はなく、どこにも味方はおらず、そして船の中はどこもかしこも、すべて敵で溢れ返っています。


「シヴ、怖い?」と、リネアが笑って訊きました。

「まさか」と、本来は笑うということのない獣であるシヴも、心の中で笑って返事をしました。自分でも抑え切れないほどの生気が、身体中に漲っていました。小癪な人間どもがどれほど寄り集まり、どんな小細工をしてきたところで、なにも怖いことなどありません。


 ようは、すべて噛み殺せばいいのだろう?


 両足首の腱を切られ、立つこともままならないリニアは、シヴに跨ることで以前よりも力強く、とてつもなく疾く走れます。シヴはリネアをうえに乗せることで、以前よりもより便利で遠くまで見える目を手に入れました。そのうえ、以前は唯一の弱点であった眼球も、もう狙い撃たれる心配はありません。


 ふたりはひとつになることで、完璧な一匹の神の獣となっていました。


 なにを恐れることがあるものか。

 わたしたちふたりが共にあれば、たとえ世界のすべてを敵に回したところで、なにも怖いものなどありはしない。


 シヴの鋭敏な鼻が風の流れを感じ取り、外へと続く道を見出しました。

「行こう、シヴ」

「はい、リネアさま」


 力をためて、床を蹴る。自分でも信じがたいほどの速さでシヴの身体は走り、そのまま鋼鉄製の扉さえも突き破ります。遠くの船室で、お酒を飲みながらカード遊びに興じていた蒸気帝国の兵士たちが、なんだなんだとのんびり動き始めるのさえ、シヴの耳はすべて捉えていました。


「恐れるな。正義は我らと共にある」

「はい。命尽きるそのときまで、この牙と爪はリネアさまのために」 


 シヴとリネアは、死と血と破壊を振りまく、一陣の風となりました。

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シヴの眼、リネアの剣。 大澤めぐみ @kinky12x08

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