その先の世界へ


 暗い空洞の中へと一歩踏み出す。


 その暗闇に包まれた空洞は、まるで僕の心を見透かしたかのように黒く染め、恐怖を覚える僕をあざ笑う。


 ゆっくりと慎重に空洞の中を進み続ける。


 暗くなるにはまだもう少し時間はあると思っていたが、この空洞の中には恵みの光は届かないようだ。

 足元を気にしながら歩こうとするが、暗くて何も見えない。


 何もないところにぽつんと自分一人がいるような感覚。周りに何があるのかさえ分からなくなり、僕を包む闇に、次第に不安や恐怖を覚え始めていた。


 やがて……


「きゃっ!」


 イルの悲鳴が聞こえた。

 驚いたような悲鳴の後、するっと僕の手からイルの手が抜けていく感覚が伝わる。


 とっさに、僕は隣にいるはずのイルに手を伸ばす。イルの指先が僕の指に触れ、そして感触が消える。


 その直後、どぼんっと、聞いたこともない大きな音が鳴り、僕の体を冷たい液体がまとわりつく。


「イル?」


 イルの気配が、その場になくなった。暗闇の中に一人。僕一人だけが取り残された。


 やがて、足元から、先ほど僕の体にまとわりついた、冷たい液体がゆっくりと僕の体を這い上がってくる。

 動きも疎外され、ただただ歩きにくい。

 イルはどこにいったのか、先ほど触れた指先を考えると、下へと落ちていったようにも思え、下に落ちたというのであれば、この冷たい液体の中に沈んでいることにもなる。


 僕はイルを探して辺りを歩き始める。

 手を動かすたびにぱしゃっと鳴る聞きなれない音に、僕の恐怖は募っていく。


「イル! どこ――っ!?」


 僕の体が、いきなり、地面に沈んだ。いや、足にいつも感じていた何かが消えたような気がした。

 それが僕達が歩いてきていた透明な壁だったのではないかと思った時には、すでに僕の体は落ちていき、お腹がきゅっとすぼまるような感覚を覚え、恐怖のあまり目を閉じてしまう。


 僕の体は地面深くに沈み、冷たい液体が僕の体全体を包み込んだ。


 口を開けるとがぼがぼと僕の口から丸い気泡が上へと上がっていく。苦しくなってすぐさま口を閉じる。

 何が起きたのか分からず、閉じてしまった目を開くと、視界には暗闇ではなく、辺り一面を青い世界が埋め尽くしていた。


「……」


 僕は青みを帯びた液体に囲まれ、ふよふよと地面のない世界をたゆたう。

 苦しさなんて忘れて、目の前の青い世界をただじっと見てしまった。

 遥か遠くまで続く、青い世界。


 これが皆が言っていた『水』というものなのだとすぐに分かった。


 イルが前に言っていた、綺麗で優しい世界。

 冷酷な世界と思っていた僕の考えは霧散し、綺麗だと思う自分に気づく。


 僕の近くを、見たことのない全く違った形態の、僕を包み込む液体をものともせず、優雅に進む僕の顔ぐらいの大きさの生き物が数を成して通り過ぎていく。


 なんだろうあれは。見たことのない生き物だ。

 僕達以外の生き物なんてみたことのない僕にとってはとても新鮮で、神秘的だった。

 僕も同じように、すいすいとこの青い世界を進めるのだろうか。


 そう思い、口を塞いでいた両手を離して動かしてみる。

 同じようには動けない。

 でも、少しは前に進めた。

 これを繰り返せば同じようにできるかもしれない。


 泳ぐ。

 自然と僕の頭にはそんな単語が浮かんだ。

 面白い。楽しい。

 動かせば動かすほど、僕の体はふよふよと進んでいく。 


 だけど、苦しさが一気に溢れ、がぼっと、僕の口から大小様々な丸い球体が一気に溢れ出し、僕の意識は遠のいていく。


 初めての出来事が一杯だ……。


 僕はそう思いながら、自分の口から上へと上がっていく気泡を見ながら、重たくなってきた瞼をゆっくりと閉じた。








「――イ。起きてよ、スイ」


 僕は温かな――まるで、誰かに包まれているような温かさを感じながら、その優しい声で意識を覚醒させた。


 目をゆっくりと開けると、僕が住んでいた氷の壁に囲まれた世界とは違う、しかし、壁の向こう側の青い世界とも違う世界にいた。


 青く、様々な形の白い物体が宙に浮かぶ、見たこともない世界が広がっていた。

 その白い物体の隙間から、直視すると反射的に目を背けてしまう程の光を放つ、丸い黄色い球体も見える。


「……どこだ? ここ」


 僕は、その光を遮るように額に腕を置き、そう呟く。


「知らない」

「……怪我してないか? イル」


 疑問に、僕を起こしてくれた人を見る。

 僕の双子の妹のイルだと、すぐに分かった。   


 よかった。イルも無事だった。


「してないよ」

「……いなくなったからびっくりしたよ」

「私も。スイがどこにも見当たらなくなったから、凄く驚いたよ」


 イルはほっとしたような表情を浮かべ、周りを見上げる。


「不思議なことがいっぱいだったね」

「ああ。あの青い世界はなんだったんだろうな」

「綺麗だったね」

「色んな生き物がいたようにも思える」

「うん。おっきな生き物とかいた。楽しそうに浮いてたね」


 楽しそう。

 ああ、そう見れるのか。


 やっぱりイルは僕とは違う感性を持っているようだ。

 でも、その気持ちも少しは分かる。

 僕も同じように動けないか試した時、楽しかったし、わくわくした。

 またあんな体験をしてみたい。


「あったかいね」

「ん?」


 僕は起きたときからずっと暖かい地面に横たわっていたらしい。

 イルを見ると、地面を触って感触を確かめている。

 僕も触ってみると、手のひらに細かな丸いものが手にまとわりつき、嫌な気分になったが、その地面は仄かに僕の手のひらに暖かさを伝える。


 地面が暖かいなんて、僕がいた世界では考えられないことだった。

 あの世界は常に冷たい。

 恵みの光が暖かさを僕達に教えてくれたが、それが地面に常にあるということが不思議だった。


「地面が、暖かい……」

「うん。それに、凄く暑いね」


 そう言われ、初めて気づいた。僕の体が酷く汗ばみ、そして喉がからからに渇ききっていたことに。

 上を見上げると、先ほどみた黄色い球体が見えた。

 あれを見ると余計に暑く感じた。

 もしかして、あれが恵みの光の正体なのかもしれない。


「水なら、一杯あるよ?」


 イルはそう言い、僕の頭の先を指差す。

 上半身を持ち上げ、イルが指差した方向を見るが、体を持ち上げるだけで僕は感じたこともないほどの強烈なだるさを覚える。


 イルの指の先を見て、僕は言葉を失った。


 目の前に広がるのは、穏やかな青い世界。


 時折、その穏やかな青い世界を、ざざーんと、押し出すように力強く波打つ液体が、黄色い球体からの光を浴び、見たこともない様々な色のついたアーチを描く。


 僕たちが住んでいた氷の壁の向こう側の青い世界。

 僕達が少しだけ見た、あの青い世界の頂上にいることにすぐに気づいた。


「……綺麗だね」

「……うん、綺麗だ……」


 僕達は無言で青い世界を見つめる。


 こんな世界があったんだ。


 そう思うと、僕達が住んでいた世界はどれだけちっぽけなものだったのかと思わずにはいられない。


「これから、どうする?」

「どうしようか?」


 僕は、双子の妹を見つめる。

 時折、涼しさを運ぶ風に遊ばれ乱れる白髪を押さえながら、青い世界を見つめる妹は、妙に大人びて見えた。


「……私たち、住んでた世界に戻れるのかな?」

「……戻れるんじゃないかな」

「ここから、遠いのかな」

「……」


 ふと、自分達が住んでいた村のことを思い出した。そこで、僕は毎日のように外を見る妹に、いつも呟いていた言葉を思い出す。


 無言だった僕を、イルが不思議そうに見つめる。


「……ずっと、遠くだよ」


 僕は、イルに笑顔で返した。


 僕達は好奇心で、僕達が住んでいたあの世界から外へと出た。


 新しい世界を見る為、自分たちの世界から出て、新たな世界への扉を開く。

 目の前に広がる世界――遥か彼方まで地面が続くその世界は、僕の心を開き、そして、ときめかせた。


 僕達の知らない世界。

 僕達がこれから知る世界。


 僕達はこの世界で、何を見て、何をするのか、そして何と出会うのか。

 それはまだ、僕たちには分からない。


 これから先、いろんな出来事が待っているのだろう。

 いつか、あの村の皆にもこの世界を教えてあげたい。知ってもらいたい。


 そう、僕は心に決めて、立ち上がった。

 隣にいるイルも笑顔で立ち上がる。








 今も、僕たちが住んでいた氷の壁に囲まれた世界は、どこかにひっそりと、人知れず広大な青い『海』を漂っている。



 その世界に、また戻れることを願い、僕達は今日を生きていく。



 この、恵みの光に満ちた、扉の先で出会った、世界で。

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