雨に濡れなば晴れ遠からじ


 夜が明けた。日が昇った。

 帰り支度をする一行を見下ろし、シトシマはゴロゴロと低い音を鳴らす。それに合わせて、単眼のミトラもコロコロと似たような――しかしシトシマよりもずっと小さく高い音を鳴らす。

「ありがとう、シトシマ。シトシマの子。本当にありがとう」

 零夜は単眼のミトラを撫でながら、朝日に照らされた大樹を見上げた。

「これから村に戻って、あなたたちの事を話します。村の人が、きっとここにお酒を持って来ると思う。そしたらまた、一緒に生きてほしい――人間と」

『ああ――ああ、にんげん』

 シトシマは零夜と、村の男たちを見下ろした。目はないが、零夜にはそう感じられた。

『死も忘却も、世のことわりである。だが、にんげん……小さきものたちよ……また共に生きるか。それもよい、それもよいだろう……』

 ごろごろと低い音が響いた。それは大樹のウロより湿った空気を震わせ、彼の根本に立つ人間たちの全身を震わせた。その遠雷の如き声は、ふもとの村までも届いたことだろう。



 シトシマと二言三言を交わしたのち、零夜は男衆を引き連れて、白金の朝日に照らされながら帰路についた。


 単眼のミトラは村へ戻る零夜たちに自分の子実体を分けてよこした。

 繊維質な子実体の房はまさに緋の綿と呼ぶにふさわしく、零夜たちはそれを束にして作った小さな人型を地に落としながら村へと戻った。湿地のようにぐずぐずになっていた大地から「死の水」だけが、緋色の束に吸収される。単眼のミトラも、彼の「おや」ほどではないが死の水を食べるのだと、彼は話した。この緋の綿は、彼が獲物を捕らえるための構造なのだろう。

 水はける。大地は、正しい姿へかえってゆく。



 村へ帰り着くと、出迎えた村人たちの表情で、キヤとティエラが上手くやったことを知った。男たちはそれぞれ彼らの妻たちに、零夜は村長に熱い抱擁で迎えられ、疲れも忘れて照れて笑った。


 結論から言うと、水毒にかかっていた全ての患者の水毒を、あの結晶ひとつで体外に排出することに成功したらしい。

「公的な記録書でも、医学書でもなくてね、これに載ってたの」

 ティエラが差し出したのは、村や村の周辺に伝わるおとぎ話をまとめた童話集だった。『玉虫の樹』とはまた別に、ある乙女が自分の涙から生まれた結晶を用いて、水に侵された病人を癒す話が載っていたらしい。


 「薄荷水はっかすいを使わなきゃだめだったの。結晶を擦り潰した粉を入れてよく混ぜたら、薄荷はっかの香りが薄くなるから、香りが消えるまで……」

 ティエラは液体で満ちた小瓶をふたつ、零夜に差し出した。見た目には何の違いもないが、片方は強いメントール臭がするのに対し、もう片方は完全に無臭だ。

「記録があってよかった。そうじゃないと、こんな製法思いつかないもんね」

 ティエラは笑いながら小瓶に蓋をする。どうということもないように言ってはいるが、その両目のしたにはくっきりとクマが現れている。寝る間も惜しんで文献をあさり、製法が分かってからは薬を作り通しだったのだろう。


「ありがとう、ティエラ。おかげで助かった」

 ねぎらいの言葉をかけると、ティエラは「私もだけど、キヤにも言ってあげて」と、奥で村長と話しているキヤを指さした。

「ずっと村中走り回って、病気の子を移動させたり水を掃き出したり、大変だったみたいよ」

 頷いて、零夜はキヤの元へ駆け寄る。零夜の姿を認めると、彼は「やったなレイヤ! 信じてたぜ!」と、喜びと達成感を固い抱擁で表現し、危うく零夜を窒息させかけた。

 疲れ知らずのキヤの抱擁を引き剥がし、零夜は笑いながら二人を見ていた村長に、シトシマとのやりとりを伝えた。


 おとぎ話はおとぎ話ではなかったこと。シトシマという大樹のミトラは長い時を人間と共生してきたが、やがてその存在が忘れられてしまったこと。

「彼らは死の水を食べますから、シトシマが枯れかけたことで死の水が溢れたんです。定期的にお酒を持っていけば、死の水の過剰な増殖も抑えられますし、あの結晶も手に入ります。それからシトシマの子もいますから、あの子にもお酒を……」

 村長は神妙な面持ちで零夜の話を聞くと、「分かりました」と深く頷いた。幸い、穀物酒は高価なものでも希少なものでもなく、この村では気軽に手に入るものだ。

 これで、シトシマもシトシマの子も、そしてこの村も、長く生きられることだろう。零夜は胸をなでおろした。



 あとのことは自分たちに任せてくれという村人たちに甘え、三人は村長の家の一室に寝具を持ち込んだ。きちんとしたベッドはみな病人で埋まっている。村長らは恐縮していたが、乾いた寝具があり身体を伸ばして眠れるだけ贅沢というものだ。

 三人は、いつもテントの中でそうしているように並んで横になり、疲れた身体を毛布にくるんだ。すぐに眠りに落ちるかと思われたが、三人とも妙に目が冴えていた。緊張の連続に、頭も身体も興奮が冷めやらないらしい。


 三人は寝物語代わりにと、それぞれ自分たちが成したことやその途中で見聞きしたことを掻い摘んで話した。

 ティエラは、薬の製法を見付けた経緯とその童話について。キヤは、命を食もうと忍び寄る水たちから、いかに子供らを守ったか。そして零夜は、シトシマの樹で見たこと、彼が話したこと。それは各自の報告というより、それぞれがひとつの物語のようだった。


「じゃあ、結局あの樹は元々人間だったのかな? 人間がミトラになるなんて、そんなことってあるのかなあ」

 ティエラが首を傾げる。「あるわけないだろ」とキヤは言うが、確たる根拠があるわけではないらしく、その声に勢いはない。

「それ、シトシマに訊いてみたんだ」

 零夜が言うと、好奇に満ちた二人の視線が零夜に向いた。零夜は、去り際にシトシマと交わした言葉を思い返す。

 

 元は人間だったのかと問う零夜に、シトシマは低く穏やかな言葉を返した。

『にんげん……ミトラ……その違いがどこにある。われわれはみな等しく死にのぞみ、生のいとまに脈をうつのみ……』

 その言葉の意味を問うても、シトシマはそれ以上のことは話さなかった。


「人間もミトラも、大した違いはないって、そんなことを言ってた気がする。難しくてよく分からなかったけど」

 部屋の外の喧騒が、夢中の出来事のようにかすみがかって聞こえる。柔らかく温かな毛布の中から、疲れと眠気が忍び寄ってきている。

「生きて死ぬことは……人もミトラも一緒だから……」

 呟くように言って、零夜はとうとう睡魔に負けて目を閉じた。すうすうと寝息を立て始めた零夜に、キヤもティエラも言葉の続きを催促するようなことはしない。


 そして部屋の中に、三人ぶんの寝息が満たされる。物語の幕は降りた。これ以上の言葉は野暮だった。




 充分に疲れが癒えるまで滞在したのち、少しの携帯食と穀物酒、そして持ちきれないほどの謝意を貰って、一行は村をあとにした。水毒に侵されていた村はすっかり元の平穏を取り戻し、人々はさっそくシトシマの樹との交流を試みていた。

 話のついでに、樹のそばにいる単眼のミトラは慣れた人間に撫でられるのが好きだということも伝えておいた。人間とミトラ。言葉が通じなくとも通じあえますようにと、零夜は神とも知れぬなにかに祈るのだった。



「この話が、またおとぎ話になったりしてな」

 南へ南へと歩みを進めながら、キヤが言う。

「水毒に侵された村に、ミトラの言葉が分かる旅人が来て村を救う……どうだ、おとぎ話っぽいだろ」

 言われてみれば、と零夜は考える。

「じゃあ、俺が主人公?」「普通に考えるとそうなるな。ずるいぞレイヤ」「そんなこと言われても」

 「俺は地味な力仕事ばっかりだったから、登場人物として省略されるかもなあ」と、キヤは大袈裟に肩を落とす。

「私は? 私はどんなふうに書かれるかな」

「ティエラは……ティエラも省略されるんじゃね?」

「えー、なにそれ」

 不満げにむくれるティエラに、レイヤもキヤも笑いをおさえられない。笑う二人にティエラは口を尖らせるが、やがて彼女もこらえきれずに笑みをこぼした。


 笑う。この笑顔も、交わした冗談も、いずれは死と忘却のかなたに希釈され消えていく。


 自分たちの旅の一部分が物語として残るなら、それほど良いものはないと零夜は思った。たとえ脚色が入り、そこに登場人物として残る自分たちが自分たちの姿からかけ離れているとしても、それは自分たちがいなければ生まれなかった物語だ。

 零夜は、シトシマの言葉を思い返した。『死も忘却も、世のことわりである』……。

 そうだとしたら、あの村に残るのは零夜たちの命そのものなのだ。



 風は南へと吹いている。降り続いた大雨が嘘のように、乾いた空気が髪を撫ぜていく。

 『さよなら』という声が聞こえた気がした。零夜は振り向かずに、「さよなら」とだけ呟いた。



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雨に濡れなば晴れ遠からじ 深見萩緒 @miscanthus_nogi

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