月庭一花

 八月も十日を過ぎると、あれほど喧しかった空襲警報がほとんど鳴らなくなり、逆にあっけにとられるような気分で、わたしたちは日々を過ごしていた。まだまだ夏の盛りで暑い日が続いていて、粗雑なスフで作られたモンペが、汗で足に張り付いていた。

 夏の日差しを受けて、土手の桜の下生えが、ゆらゆらと揺れていた。

 間宮さんのお宅を訪ねると、間宮さんは奥の間で胸を倒していた。あまり日の射し込まない部屋は、畳の色も青かった。もともと白かった肌が広島から戻ったあとは、透明に、透き通るばかりになっていた。彼女が広島から戻って、三日が過ぎていた。

 広島に落とされたという新型爆弾のことは大人たちの噂で聞き知っていた。けれど一つの爆弾で街がほとんど焼けてしまったというは、本当だろうか。新聞には最初それほど大きな記事は書かれていなかった。せいぜいが建物の影に隠れるようにだの、火傷をしないよう黒い服を避けるようにと書かれているだけで。けれど……たった一発で街を焼き尽くすような新兵器に対して、服の色ぐらいで果たして効果があるものなのだろうかと、甚だ疑問に思っていた。街の被害が新聞で伝えられたのは、それから幾日も経ったあとだった。

 その爆弾が、今度は長崎にも落とされたという。大勢の人が死んだという。

 だからだろうか。

 新兵器なぞ何するものぞ、神国日本はそんなものではやられやしない、必ず神風が吹く、と気炎を吐く大人たちも、その表情はどこか曇って見えた。

「間宮さん。具合はどう?」

 そう声をかけると、間宮さんはゆっくりと体をもたげた。長い髪がはらりと胸元に落ちかかった。

「志野さん。来てくれたのね」

 浴衣からのぞく腕に、赤黒い斑点が、ぽつぽつと浮かんでいた。それは一昨日来たときよりも増えているようにも見え、また、一つひとつが大きくなっているようにも見えた。

 間宮さんはそれをわたしの目から隠すように、浴衣の袖を直すのだった。

 間宮さんはわたしの学校の同窓で、動員された先の赤十字で看護のお手伝いをしていた。広島へも、その関係で要請を受けて赴いたのであったが、三日目に熱を出して倒れ、こちらに戻されたのである。けれど自宅に戻っても熱は下がらず、それどころか容体は悪くなる一方であるらしかった。

「体力だけには自信があったんだけどな」

 そう呟く間宮さんの頬には、暗い影が差していた。

 間宮さんは向こうで何があったのか、一切喋らない。わたしも訊かない。伝え聞く噂が真実ならば、そこで見たのは多分、

「……ねえ、志野さん」

「なあに、間宮さん」

 思考を遮られ、わたしは慌てて間宮さんに笑いかけた。

「今日ね、少し気分がいいの。だからまた……夜に来てもらえないかしら」

「夜?」

 わたしは不思議になって、首をかしげた。夜間の外出は固く禁じられている。この時勢なのだ。田舎で人目が少ないとはいえ、憲兵にでも見つかったらただじゃすまないだろう。

「明日は確か水曜日だったわね」

「ええ」

「なら、工場もお休みでしょう?」

 わたしが動員されている軍需工場は、隔日でお休みになっていた。もはや動いている機器の方が少なくて、敷地の草取りばかりをさせられていた。

「……一生のお願い、と言っても駄目かしら」

「間宮さんの一生のお願い、これで何度目かしらね」

 わたしが呆れたように笑うと、間宮さんも小さく口に手を当てて、鈴のように笑った。

「でも、家からは出られないわ。そんなことをしたらおとうさんにぶたれるもの」

 わたしがそう言うと、間宮さんはほんの少し眉を寄せ、なら、と言った。

「……これから少し時間をもらえないかしら」


 星川の川岸から街を望むと、建物が随分と間引きされているのがわかった。それは空襲での類焼を抑えるために、家が取り壊された跡だった。海際の飛行機工場のあった辺りはすでに焼け野原になっている。

 わたしたちは日が傾いていく中を、川に沿って、上流に向かって歩き続けた。どこに向かっているの、と訊ねると、いいところよ、としか答えてくれない。やがて道は緩やかな山道に入り、熊笹が生い茂るようになった。

 雑木の森が、頭上を覆い隠している。蝉の声が時雨のように降り注いでいる。

 繋ぎ合わせた手は、間宮さんの肌の熱で、ほんのりと湿っていた。ただ、間宮さんの肌は燃えるように熱いのに。汗は一滴もかいていない様子であった。わたしは何度も手巾で汗をぬぐいながら、間宮さんの横を一緒に歩いた。

 星川の上流の岸辺には、大きな玄武岩の塊がごろごろと転がっていた。川幅はだいぶ細くなり、溜まりの部分には、鏡のように、暮れかけた茜色の空が映っている。

 いつのまにか蜩が鳴き始めていた。

「もう、帰らないと。ご家族が心配するわ」

「うん。そうね」

 今から帰っても。着く頃には宵の帳が降りたあとだろう。わたしもそうだが、彼女だって叱られるはずだ。けれども彼女は汀の岩に腰を下ろしたまま、じっと水面を見つめているだけだった。あるいは体がつらくて立ち上がることができないのかもしれない。いくら気分がいいと言ったとはいえ、彼女はまごうことなき病人であるのだから。わたしの配慮が足りなかったのだ。

「ねえ、間宮さん。具合が悪いなら、すぐに人を呼ぶわ。少しここで待てる?」

「ううん。大丈夫よ。平気よ」

「平気って、……そんな風には見えないわ。ねえ、わたしたち親友でしょう。隠し事はよして」

 なら正直に言うけれど。そう言って、間宮さんは小さく笑った。

「わたしもうすぐ、死ぬと思う」

 わたしは驚いて二の句も継げず、ただ黙って、間宮さんを見つめていた。

「わたしの腕の痣、見たのでしょう? 向こうでもね、火傷も何もない、元気そうにしていた人が、気が狂ったようになって死んでいくのを何度も見たわ。腕や首筋にいつの間にか痣ができていて。……新型爆弾の毒のせいだって、言われていたわ」

「そんな、そんなの……嘘よね? 冗談よね?」

 間宮さんは無言で、自分の髪を掴んで見せた。そのまま手を動かすと、彼女の手の中には、髪の毛の束が残った。わたしは人の髪がそんな風に抜け落ちるのを始めて見て、心臓が止まりそうになった。

「本当はね、一緒に死んで欲しいな、って思った」

「え?」

 喉がカラカラに乾いていた。間宮さんの目の端が、赤く染まっていた。

「ほら、上級生にここで心中をした人たちがいたの、覚えていない?」

「噂でしか、聞いたことないわ」

 間宮さんがきたならしそうに手を振った。長い黒髪が夕焼けの中に、静かに溶けていった。

 心中した二人は、Sの関係だったという。それが本当のことかどうかわからないが、引き上げられた遺体は、互いの手が結び合わされていたらしい。

「……間宮さんはわたしこと、好きなの?」

「好きよ」

 日が落ちていく。その日最後の鳥の声が響く。空の色が、群青に染まっていく。

「好き。でも」

「……でも?」

 ぴちゃん、と魚が跳ねた。

「やめたわ」

 間宮さんはわたしを見て、それから、静かに視線を逸らした。

「わたしのこと。忘れないで。ずっと覚えていて。……お願いね、志野さん」

 夕間暮れの中、淡い光が浮かんでいる。

 それは二匹の蛍だった。

 初夏の虫だと思っていたのに。まだ、生き残っていたのだろうか。生き続けていたのだろうか。

「……綺麗ね」

 間宮さんがぽつりと呟いた。


 翌、八月十五日の水曜日に、わたしたちの戦争は終わった。


 間宮さんが眠るように亡くなったのは、それから三日後のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月庭一花 @alice02AA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ