マグダラのマリアたち

 誰よりも店の中で汚れ仕事をこなしているニコ。それは第一に生活のためだが、彼女自身が自分をこの場所にしか居場所がなく、この仕事をやるしか能がないと思っている。ユリアも綾乃も多少の程度の違いこそあれニコと似たような立場だ。ユリアや綾乃とはスタンスが異なるが、真とリンカも似たような目でニコを見ている。みんなにとって一番かわいそうなニコ。誰もが本心ではニコをこの境遇から救いたいと思いながら、過酷な現実を前に救済を諦め、彼女を最低限守ることに留まっている。それはニコの苦界暮らしを長引かせるだけなのだが、分かっていても彼女たちは他の手段を知らない。結果としてみんなニコを愛するあまり、ニコの救われなさをも愛していて、彼女たちの中でニコは完璧な悲劇のアイドル像に閉じこめられる。

 彼女たちの愛は若くて純粋で、弱く未熟だ。それはオーナーや岩滝や義春らにとってなんと都合のいいことだろう。彼女たちのような女の子がいる限り、彼らの生活は安泰だ。


 先に書いておくが私はおばさんだ。私の母が今の私の年齢の時、私はもう23歳。彼女たちの母親の年齢は、私と同じぐらいか、それより少し若いぐらいだろう。

 ハトリさんの漫画版を少し読むところから入って、漫画の連載が進む前に原作を先に読み終えようと読み始めた。引き込まれる部分もあり、どこか反発も覚えつつ最後まで読み終えた。

 どのエピソードも特定の何者かの視点で書かれている。客観的第三者の語りのように読める時もあるが、それもよく読めば誰かの視点である。それが実際はどうなのかはさておき「この人はそれをそう見ている」が徹底されている。一人一人がいわゆる「信頼できない語り手」だ。

 そういう感じだから、実際に彼女たちが日々どんなことをされているのかという描写はそれほど克明ではない。代わりに彼女たちの受容の様子が詩的な文体によってつづられる。第11話でユリアがニコに「愛と勇気の歌」を歌う場面などは、心象風景の描写としては出色だ。ある意味、事実を事実として描くより効果的だろう。

 ただ彼女たちのカメラで進んでいくがゆえの弊害もあると感じた。男女の描写にあまりに落差ができてしまっている。

 彼女たちそれぞれの「上手くできなさ」がそれぞれの違いも含めて非常に克明で長尺が取られているのに対して、彼女たちの苦しさを作り出している男たちの方のそれは、ほとんど書き割り程度である。出てくる男たちは殺される彼も含めて、女が男に抱いている嫌悪を数種に分けて形作ったという感じだ。キャラによってはそれに多少の愛嬌をつけられたりもしているが、女たちの描写の豊かさに比べるとあまりに素っ気ない。

 作品が視点によって構成されていることを思えば、彼女たちから見た男たちの形ということでこれらの落差に矛盾はない。彼女たちの不器用な面の描写の多さも、抑圧された女たちは互いの欠点に安心し合うようになるという現実を思えば筋は通っている。

 ただそのことによって作品全体のトーンとして男たちの側の責任は見過ごされることとなり、もろもろの悲劇があたかも彼女たちが賢ければ回避できたかのように映ってしまう。

 積み重ねられた彼女たちの救いがたさを思うと、男たちにも誰にも彼女たちを救うことは不可能に見え、だから責任を問うても仕方がない、とも言えるだろう。しかし男たちはその手段を調べようとすらしていない。なぜなら彼らにとってニコたちの不幸は生活の糧だからだ。それ以上でも以下でもない。義春はカフェを開こうとしていたようだが、必要なのはカフェではなく良心的な弁護士と支援シェルターだろう。女の子たちは男が気持ちよく罪滅ぼしごっこをするために存在しているわけではない。

 この社会はろくでもないが、良心がないわけではない。ニコを家族との生活から解放し、安全で人間らしくいさせてくれる場所はちゃんとあるのだ。私は散々彼女たちを賢くないと書いたが、彼女たちを愚かだと思ったことは一度もなかった。誰も社会の良心の存在を彼女たちに教えなかっただけだ。人は教わったことしかできない。

 もちろん彼女たちをそういう場所に連れていくこと自体がとても難しい。さらにそこに定着させることも現実にはもっと難しいだろう。そりゃそうだ。アルコール依存症の人だって、病院や互助会に連れて行ったところでただちに真人間に戻れるわけではない。何度も何度も滑って転んで元の木阿弥。それでも、一度もそういう場所に繋がらないよりはずっとましなのだ。

 別に作品でもって社会を啓蒙する必要などない。書く側は自分にしてもそうだが、どれほど良識を総動員し、社会に何かを啓蒙したいという思いがあったとしても、結局は「自分が書きたいから書きたいように書く」という前提を覆すことはできない。

 それでも、長い歴史の中、現世で神の許しを待つ代わりに、人々は法と施設を作り、社会に良心をそそいでいった。今でもそのために働いている人たちがたくさんいる。それはもう少し信じられていいと、最後まで読んで思った。

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