番外編・曽根崎慎司は行動する(4)景清の視点
事件が終わってから一週間。僕は、曽根崎さんから貰った休日を持て余し気味に過ごしていた。
勿論僕は真っ当な大学生であるので、ちゃんと講義には出ている。けれど時折ふと手を止めては、窓の外に目をやり物思いに耽ってしまっていた。
原因は言うまでもない。“曽根崎さん”と“慎司”の関連性についてである。
慎司のクソややこしい説明を聞いて、どうやら僕らの再会の望みは限りなく薄いらしいとは分かっていた。それでも、彼がうまく面を辿れば僕の知る“曽根崎さん”になれるかもしれないと。
事実、僕もそれを期待してしていた部分があったのだ。
だがあの時、穴のふちに立っていた慎司の笑みを見た瞬間。
雷が落ちたように、僕はもう二度と彼には会えないのだと悟ってしまったのである。
だって、曽根崎さんは慎司のように味噌汁にケチをつけたりはしない。荒っぽい喋り方もしない。慎司だって、三食忘れて餓死しかけたり、電子レンジを爆発させたりはしないのだ。
確かに二人は、曽根崎慎司という同一人物だろう。けれど僕が観測した二人は、疑いようもないほど別の人物だったのである。
だからもしあの曽根崎さんが慎司としての過去を持っていたとしても、僕は彼を“慎司そのもの”と見做して言葉を交わすことはできない。穴のふちで出会った慎司もそれを理解していたからこそ、僕に送る最後の言葉としてああ言ったのだろう。
……そう、分かってはいたのだけど。
持っていたペンを指で挟んでクルクルと回す。上手くできずにたった二周で落としてしまい、うなだれた。
――それはそれとして、曽根崎さんが慎司の記憶を持っているのかどうかは気になるんだよなぁ。
そうなのである。
加えて、慎司から借りた一週間分の生活費の事もあるし。いやほんと僕どこまで曽根崎慎司に借金する運命なんだよ。呪われてんのか。
まぁいい。とにかく自分としても、借りっぱなしというのは性に合わないのだ。そしてきっと曽根崎慎司も、貸した金を無かった事にするような器の大きい男ではない。
ならば、どう行動すべきか。
悩んで悩んで悩み抜いた僕は、かくして休日の事務所に忍び込むという結論を打ち出したのである。
……。
……うん。
いや、だって、直接本人に聞いてもはぐらかされるかもだし。もし三千万の借金の明細書でも見つかれば、実は例の借金が内訳に書かれてたってのもあるかもだし。
……うん。
うん。
まあ結果として、しっかり事務所にいた曽根崎さんのお陰でこの不法侵入は未遂に終わったのだが……。
「――僕の記憶を曇らせる、ですか?」
時間を元に戻し、今。僕は、曽根崎さんからの提案にすっかり借金返済どころでは無くなっていた。
僕の問いに、向かいに座る曽根崎さんははっきりと頷く。
「恐怖の記憶も、忘れてしまえば多少楽になるからな。無論完全に消えるわけじゃないから、時折影響は残るかもしれんが……。それでも、何もしないよりは遥かにマシだ」
「……え、え」
「なんだよ、その顔。……別に痛いことをするわけじゃない。いいから力抜いてろ」
曽根崎さんの手が近づく。それを僕は、ついいつもの癖で叩き落とした。
「……」
「……」
また手が伸ばされる。
僕もまた、叩き落とした。
「……」
「……」
曽根崎さんの片眉がぐいと上がる。
「そんなに嫌か」
「嫌ですね」
いや、了承しないに決まってるだろ。
だけど曽根崎さんは不満げである。
「なんでだ。悪夢だって見てるんだろ」
「そりゃまあ、多少は」
「だったら」
「で、でも、だからといって記憶を消すなんて乱暴じゃないですか? その、確かに怖い思いはしましたけど、僕にとってはそれだけじゃないとも思ってて……。例えばほら、怖い記憶とかって、色んな人に助けられた記憶にも結びついてたりするじゃないですか」
……最初こそ、その理屈は曽根崎さんを説得する為に突貫工事で編み出したものだった。けれど口に出してみると、案外よく馴染むものであると気づく。
勢いづいて、僕は身を乗り出した。
「恐ろしい記憶を忘れられるのは正直ありがたいです。でも、だからといって助けられた恩まで忘れるってのは僕は違うと思うんですよ。怖い記憶を消すってのは、その周辺にあるプラスの記憶も巻き込まれるってことですよね?」
「ま、まぁな」
「ならそこを覚えていたい僕としては、お断りです。……あと曽根崎さん。アンタ、記憶が無くなっていたせいで僕が死にかけてたの忘れてません?」
「……あー……。この間話してくれた四つ足の件か」
「はい。あれだって、無理矢理思い出して、そんで二十一歳の曽根崎さんに助けられてやっと助かったんですよ。……曽根崎さんにも、こんな感じで怖い経験があったからこそ、恐ろしい事件に対処できたって事はありませんか?」
「はい、あります」
「でしょう。人間、いい記憶だけで生きてるもんじゃないんですよ。よって、僕に不要なのは恐怖の記憶じゃなくてその呪文です。以上立証終了」
最後は堂々と言ってのけて、フンと鼻を鳴らす。
しかし一方の曽根崎さんは、なんだか雨に濡れた老犬のようにシュンとしていた。
「……そこまで言われたら、私は何もできなくなるだろ」
「だからしなくていいんですって。放っといてください」
「君には必要以上に負担をかけたくないんだがな」
「……まあ、確かにこれ以上の負担は困りますね」
「なら」
「かといって、記憶を消すのは乱暴だって言ったじゃないですか。……考えてもみてください。もう、僕が思い出してやる事でしか会えない奴だっているんです」
ふいに、慎司の最後の笑みが思い浮かんだ。
「……もしアンタに呪文を使われたら、僕は二度とそいつのことを思い出せなくなる。記憶の中ですら会えなくなる」
「……」
「それが僕は嫌なんです。だったら僕は、恐怖の記憶だろうが何だろうが、辿ってきた面ごとその人を覚えていたい」
この言葉に、曽根崎さんは目から鱗が落ちたようにパチパチとまばたきをした。……普段鋭い目を崩さない人である。大きくなった瞳に、僕は少しドキリとした。
「……そうか」
噛み締めるように、彼は呟く。
「そうだな。そうだ。それは、本当に君の言う通りだ。面を辿ってきた記憶を取り出して、その際に観測した者を確定とする……。いや、君は本当によく物事の核心を突いてくれるよ」
そんな事、言ったっけか。甚だ疑問であったが、彼は僕の目を見てゆっくりと続けた。
「……そしてやはり、人を繋ぐのが得手なんだな」
「そ、そうですか?」
「ああ。記憶とは一つの存在証明だ。思い出は、その観測者にとって辿ってきた面の疑似観測行為――保存された歴史の一つである。ならば、それを脳内でなぞり続ける事で、その面で観測した事象を多次元的な観点で繋ぎ止めておけるのかもしれない」
……シンプルに、何を言っているのかが分からない。
首を傾げる僕に、曽根崎さんは「分かりやすい例を教えてやろう」と自分自身を指差した。
「私が穴のふちに立った時、無数の曽根崎慎司の中から“かつて竹田景清が観測した二十一歳の曽根崎慎司”を引き当てる事ができた。だが私が思うに、あれは僥倖でもなんでもなくてだな。君が彼を呼んだからこそ、必然的に成し遂げられた事象だったと思うんだ」
「……僕が慎司を呼んだから?」
「そう。……時を超えてなお、君は記憶の中で彼を繋ぎ続けていた。君にとっては最近の出来事だったからという理由かもしれないが、瑞々しい記憶は同じ面に基づく観測者をそこに呼ぶのに充分な土壌となっていた」
「……」
「だからこそ、あの瞬間彼は君の前に存在できたんだよ。君がいなければ、君が出会っていなければ、何度も記憶をなぞっていなければ。そうでなければ、彼はあの場所に立つことすらできなかった」
――そう僕に伝える曽根崎さんの声は、とても優しいもので。
うっかり涙がこみ上げてきそうになった僕は、慌ててうつむいた。
曽根崎さんは、しばらく僕が落ち着くのを待ってくれていた。それに甘えさせてもらい、たっぷり数分経ってから僕は口を開く。
「ねぇ、曽根崎さん」
「なんだ」
一度曽根崎さんの顔を見る。そして自分の鞄を引き寄せて中を漁り、白い封筒を取り出した。
「確認したい事が、あるんです」
「ほう」
「単刀直入に聞きますが、アンタ、二十一歳の時に今の僕に会いましたか?」
「……」
唐突な質問に、曽根崎さんは答えない。何の感情も読み取れない顔で、こちらを見ている。
まあ予想の範囲内だ。僕は、手にした封筒を曽根崎さんに突きつけた。
「じゃ、これ。受け取ってください」
「え、何だこれ」
「いいから。受け取ってください」
語気を強める僕に、曽根崎さんは恐る恐る封筒に手を伸ばす。そうしてすぐに、中身を確認した。
「……二万円?」
「はい」
「返済金か?」
「いえ、違います。……ああいや、返済金は返済金ですね。ただ、三千万とか奨学金の分ではないんですが」
「なら何だよ」
「ええと……これ、大体一週間分の生活費なんですよ」
「……」
曽根崎さんは黙ってしまう。けれど構う事なく、僕は彼の夜を投影したかのような瞳に向かって言ってやった。
「二十一歳の曽根崎慎司に会って、僕は彼からお金を借りました。その際に言われたのが、『自分がいつか“曽根崎さん”になれたら金を請求する』といった旨の内容です」
「……」
「曽根崎さんは、自分が慎司の記憶を持っているかどうか答えてくれない。でも僕は、借金を返さないといけない。……だから僕は、アンタが僕の観測した慎司じゃないと明言してくれない以上、これを引っ込めることはできないんです」
たどたどしい追及に、しかし彼は眩しいものでも見るかのように封筒を眺めていた。
そうして張り詰めた空気の中、やがて彼は薄い唇を開く。
「……すまん」
その声は、暗く落ちていた。
「生憎だが、今の私にこれを受け取る事はできない」
その一言に、ガンと思いも寄らぬショックを受ける。けれどそれを表に出す暇も無く、曽根崎さんは続けた。
「かと言って、君に突き返す事もできないんだがな」
「……えええ、なんですかそれ」
「事情があるんだ。内容まではまだ教えられない……というか、あまり私自身答えられる状態ではないんだが」
要領を得ない回答である。
でも、嘘をついているようには見えなかった。むしろ、今でき得る限りの言葉を僕に向けていてくれているように思える。
……納得できるかと言えば、また別の話なのだが。
しょんぼりとする僕であったが、「だから」と始まった次の曽根崎さんの言葉に一気に感傷が吹っ飛んだ。
「――景清君。この金は、私に預からせてもらえないだろうか」
「……はい?」
「私は受け取れない。だが突き返す事もできない。なら預かるしかないだろ。単純明快だ」
「……いやいやいや。なんだその理屈。アンタ慎司じゃないんでしょ?」
「そうは言ってない」
「なら慎司なんですか?」
「そうも言ってない」
「なんだよクソッ! それじゃキープじゃねぇか!」
「言い方が悪いな、折衷案と捉えてくれよ。つまり、いつか答えが出せるその日まで私が責任を持って管理するって事だ。勿論無断使用したり、勝手に君の借金の返済にあてたりなどはしない。安心しろ」
「当たり前だ! 僕の金だぞ!」
「心を込めてちゃんと預かるよ」
「あああああ!」
“心を込めて”とか言うな! ゾッとするだろ!
しかし腹が立って封筒を取り返そうとした僕の右手は、あっさり華麗にかわされた。
「クソッ、返せっ!」
「聞け、景清君。私は本気なんだ」
「どの口が言うか!」
「先ほどの問答で、君が記憶とやらをとても大事にしていると知った。ならば私も、記憶に関する回答をするにあたって君の持つ価値観に添いたいと思ったんだ」
「……」
「そう考えて出した結論が、これだ」
「……そんな大袈裟な」
「大袈裟なもんか。……分かってくれよ。私は君に誠実でありたいんだ」
まるで熱烈な言葉が吐く曽根崎さんの目は、真剣そのものである。
……表情筋がブッ壊れている男の本当の眼差しを、僕には直視することができなかった。気恥ずかしさに顔を逸らし、僕は右手を振る。
「……も、もういいですよ。分かりました。そのお金は曽根崎さんの好きにしてください」
「うん、ありがとう」
「でもいつか絶対教えてくださいよ」
「ああ、その時まで金と回答はキープさせてくれ」
「アンタその表現不適切なんじゃなかったのか」
もうやってられない。
僕は低く唸ると、勢いよく立ち上がった。
「じゃ、僕はこれで」
「あれ、掃除は?」
「いいんですよ、そんなもん。バイトの合間にやりゃ」
「当初の意見と変わった。君は何をしにここに来たんだ」
鞄を引っ掴んで、ズカズカとドアの前まで行く。開ける間際、僕は背中で曽根崎さんの言葉を聞いた。
「……またな」
――それが何故か、僕の思い出の中の男を連想させて。
僕は、ピタリと足を止めた。
「……」
結局、曽根崎さんに確認した所で僕はどうしたかったのか。
多分、理由は単純だ。僕は、慎司に対して抱いていた“ある疑問”を解消したかっただけなのだろう。
……まぁ、所詮は奴から料理にケチをつけられた程度の因縁である。大した内容でもないのだけど。
詰まる胸から、なんとか挨拶を返す。そうして僕は唇を引き結んだまま、事務所のドアを閉めたのであった。
番外編・曽根崎慎司は行動する 完
続・怪異の掃除人 長埜 恵(ながのけい) @ohagida
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます