番外編・曽根崎慎司は行動する(3)
礼を言うのも言われるのにも、それなりの作法がある。
そのどちらも、自分は昔から苦手だった。
「……」
あまり陽が差し込まない事務所内で、曽根崎は晴れた窓の外に目をやる。
――重なり合った事象は、観測者が介入することによって現在として収束させられる。未来や過去とは、あくまでとある観測者が面を観測した際に確定される点の羅列にしか過ぎない。
その中で、観測者は面を通じて別の観測者と交流することができる。しかし一瞬一瞬の面を連ねていく中でそれは少しずつ“ズレ”を生じさせ、いずれ同一でありながら別の観測者へとすり替わるのだ。
……観測者同士が、互いに修正し続けない限り。
つまり、コミュニケーションさえ取っていれば、このズレは防げるのである。故に折に触れて声でもかけ合っていれば、「今の彼は昔の時の彼とはまるで違った人だ」といった現象が起きにくくなるという仮説だが……。
「……無理だな」
“それ”を実践しようとしていた曽根崎は、そう結論づけていた。
むしろ全く不得手にカテゴライズされる作業だったのである。自分と関わる人間を繋ぎ止め、ズレてしまわないようこちらから声をかけ続けるなんざ。
そもそも一度全てを諦めた身だ。それがどうして今更、“人を繋ごう”などと思い至ったのか。
考えても分からなくて、曽根崎は頭を振った。
……よくよく、あのアルバイトはその辺りを自然にできるものである。
ため息をつき、曽根崎がパソコンに向き直ろうとしたその時だった。
「うわっ、開いてた!」
突然、事務所のドアが音を立てた。そこから覗いていたのは、件の善意の塊のような青年。
……考え込んでいたせいで、彼の階段を上る足音を聞き逃していたらしい。曽根崎は、戸惑った顔をする景清に手を振って挨拶をした。
「やぁ」
「げっ、いた!」
「なんだその反応。開いてるならいるに決まってるだろ」
「じゃあいる気配ぐらい出してくださいよ」
「そんな蛇口捻るみたいに出せるか。……何しに来たんだ」
彼には今日、休みを与えていたはずであるが。尋ねると、景清は少し間を置いて答えた。
「……ええと、その。休みだからこそ、ちょっと掃除でもしようかなと思って」
「掃除ぃ?」
「え、ええ。最近ちゃんとできてませんでしたから」
「そんなの普段のバイトの空き時間にやりゃいいだろ。なんでわざわざ今日に」
「まとまった時間が無いと手を出せない場所ってありません? 換気扇とか」
……その割には、掃除するような格好でも無い気がするが。
いつも通りの普段着にそう思ったが、せっかく来てくれた者を無下に追い返すつもりも無い。むしろ曽根崎の方とて、彼には用があったのだ。
事務机の椅子から立ち上がり、曽根崎は景清を手招きした。
「君、掃除はいいからちょっとこっちに来い」
「え、なんです急に」
「すぐに済ませる。そこに座ってくれ」
ソファーを指差し、座ってもらう。自分も彼の向かいに腰掛け、鷹揚に手を組むと、「さて」と口を開いた。
「今回の事件では、だいぶ苦労をかけたな」
「あ、いえいえ。確かにキツかったですけど、藤田さんも助かりましたし、阿蘇さんも目を覚ましてくれましたし」
「うん」
「曽根崎さんもお疲れ様でした」
「ああ」
丁寧に頭を下げる景清を、鋭い目で観察する。
……特に、普段と変わった所は無いように見える。だが、少し疲れたような彼の顔色を曽根崎は見逃さなかった。
「なぁ」
「はい」
「一つ、聞いておきたい事があるんだが」
「はあ、なんですか?」
「あの事件から、君の体に悪影響などは出ていないか? 例えば……悪い夢を見ている、とか」
この問いに、景清の形の良い目が揺れた。……性根として嘘をつけないというのは、実に話が早くていい。
彼の反応に、曽根崎は座り直した。
「見ているんだな」
「……」
「なら、覚えている範囲でいいから、その夢の内容とそれに該当するだろう君の記憶を私に教えてくれ。今回君は大いに活躍してくれたが、一方で精神的な負荷もかかった。……それこそ、夢として表れるほどに」
顔をこわばらせる景清に、濃いクマを引いた鋭い目の男は淡々と言う。
「だから、今からその記憶を曇らせてしまおうと思うんだ」
景清は、目を見開いたまま黙り込んでいた。
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