源義経の行方

 1189年、6月15日。奥州平泉にて1人の男が命を散らしました。源義経です。彼は手柄を立てながらも兄・頼朝に疎まれ、追い詰められ、東北まで逃げ延びました。

 

 しかし彼には、様々な噂が付きまとっています。本当は平泉では死んでいなかったのではないか、と――――。北海道に渡ったという説や、大陸に渡って帝国を築いた=チンギスハンとなった、というトンデモ説まで。


 今回は彼の渡海説について、語ろうと思います。



 まず第一に、私は義経は平泉で没していないと信じています。死亡した証拠以上に、移動した証拠が多々あるのですから。

 そもそも打ち取られた義経の首は、頼朝の所に届けられた頃には非常に痛んでいました。それなのに、本人のものと断言できるのでしょうか。



 義経らは平泉を逃れた後、遠野・釜石・宮古・久慈・八戸・十三湊・龍飛崎と移動して行った可能性があると言われています。

この説が唱えられるきっかけは、大きく分けて2つ。


 1つ目は青森県八戸市のおがみ神社に所蔵されていた「類家稲荷大明神縁起」という書物。この中に義経一行が平泉を脱出し、八戸市に滞在したという記録があるのです。


 2つ目は死亡したのは身代わりであり、本人は死んだとされる1年前に既に平泉を発っていたという説。ここで義経の身代わりになったのは杉目太郎行信という人物だったとか。彼は義経の従兄弟で、背格好や顔が義経に似ていたため、代わりに首を落とされ頼朝の元へ届けられたかもしれない。その後彼の遺体は宮城県の信楽寺という場所に葬られたが、その際遺体には首がなかったと語られています。そして彼の墓碑には「源祖義経心霊見潜杉目太郎行信」という、義経の身代わり役であったことがうかがえる文言が記されています。しかし、この墓碑が建てられたのは明治に入って以降であって、信憑性に欠けるかも……。



 そして渡海説。

 義経が海を渡り北海道へ行き、さらにそこから大陸へと渡ったという話。


 ではこの話題はどこから誕生したのでしょう。最も古いものは室町時代に作成された御伽草子の中にある「御曹司島渡」であるとされます。

 この物語のあらすじは源氏の本筋である男児が、藤原秀衡の命を受け蝦夷ヶ島に住む大王から、その娘の手引きで巻物を盗み出す――というもの。男児が出発した場所は「とさ」であり、これは十三湊のことと考えられる。


さらに平安時代に十三湊を仕切っていたのは十三秀栄という人物であり、彼は秀衡の弟なのです。そのことから、男児を義経と仮定した場合、奥州藤原氏を通して蝦夷ヶ島へ上陸したこともあり得ない話ではないでしょう。



 また江戸時代に新井白石が執筆した「読史余論」では、義経は衣川では死んでいない。忠衡(泰衡の弟)の手を借りて逃げた。だから頼朝は、義経を殺し損ねた泰衡の討伐を急いだ。蝦夷地に伝わる『ヲキクルミ』という神は、海を渡った義経が語り継がれたものだろう、と語られています。寛政10年に調査のために北海道を訪れた近藤重蔵も同じ考えを持っており、彼は現在の平取町に「義経神社」を建立しました。


 江戸時代ごろの多くの学者が義経が北海道に逃げ延びたという説を唱えていますが、これは蝦夷地開拓の為に話を盛ったことと、義経程の天才が衣川にて簡単に死ぬはずがないという考えの両方があるとのことです。


さて、義経にまつわる様々な伝説。みなさんはどれが正解だと思いますか?

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日々の裏の噂 間堂実理果 @miricaandminori

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