動かないで。静かに息をして

桑原賢五郎丸

動かないで。静かに息をして

 今、胃カメラの先端が喉の奥を通過した。

 モニターにその様子が映し出されているようだが、視界が涙でにじんでいるために何も確認できない。

 そもそもそちらを見る余裕がない。

 メガネを掛けた初老の医者は、おれがえずくたびに


「動かないで。静かに息をして」


 と注意をする。これしか言わない。人間に苦痛を与えるためにのみ作られたアンドロイドなのではないか。この際だからそれでもいいが、初老のデザインにする必要があるのだろうか。メガネいるか。

 少しだけ笑いそうになったので、呼吸が乱れた。


「動かないで。静かに息をして」


 胃カメラが名前通りの性能を発揮し、胃に到達した。



 昨晩のこと。我が社の売上が好調だったので、冬のボーナスがなかなかの額になった。これは宴会かね、宴会だろうねということで、寿司居酒屋での乱痴気騒ぎとなった。

 常日頃、気合、根性に加えて「個性」という名の民度の低さをモットーにしている会社らしく、酔いにまかせて相撲をとりだす者、誰も見ていないのに延々と一気飲みを続ける者、タバコを床にポイ捨てする者、他のテーブルの女性にセクハラをしかける者などが続出。

 そんな中おれは、静かに寿司を食べ続けていた。日中歩きまわっていたせいで腹が減っていたのである。酒を飲み、寿司を食べる。これ以上の贅沢は考えられない。


 中でもサバ寿司が気に入った。酢の香りが弱く、より生に近い味わいだった。ビールで流し込み、また次のサバへ。この流れを3回繰り返した時、相撲をとっていた奴らが他のテーブルの料理をひっくり返した。

「出てけ、二度と来るな」と店から言い渡され、その日はお開きとなった。


 家に帰って寝床に入ったのが24時頃。

 トイレに起きたのが3時頃。

 腹の激痛で目が覚めたのが4時30分だった。

 最初は空腹が強すぎて痛みを起こしているのかと思い、何かを口にしようとした。だが、咀嚼をする気が全く沸かない。今にして思えば、体が「何も入れるな」と警告していたのだろう。


 思い出した。サバだ。あの時サバを食べていたのは、会社でおれだけだった。アニサキスの宿主になってしまったのだ。

 痛い。痛い。苦い痛い苦しい痛い。

 胃が痛いのはというのはこんなにも辛いものだったのか。痛いというかせつないというか、体の奥底をキュッとつねられているような感覚だ。

 目に入るか入らないかの虫けらごときがここまで痛みを与えやがるとは。無駄とは知りつつもアニサキスに一矢報いる為、胃のあたりを手の平で何度か力なくひっぱたいた。


 しかし、おれの抵抗は長く続かなかった。今や痛みでおれを支配したアニサキスが


「やめなさい脊椎動物」


 と命令を下したので


「イエス、ユアハイネス」


 と従ったのだ。虫けらに従ったのだ。ただ単に痛くて動けなかっただけではない。


 そのまま2時間ほど朝7時までうめき声を上げながらひたすらに耐えた。40歳間近の中年が後悔の涙と痛みの鼻水と胃痛からくるよだれをだらだらと垂らしながら、病院の開院時間まで待ち続けた。


 開院1時間前に病院の入口に到着した。あまりにも痛いので仰向けに寝転がって時を過ごす。誰の目も気にしている余裕がない。弱々しく「あー」とか「うー」とか声を出していると、猫が寄ってきた。野良猫だろうか。暖を取るつもりか、おれの腹の上に乗っかってきた。振り払う体力が惜しい。それに今必要なのは精神的な癒やしではなく肉体的な治療だ。


 開院まで30分というところで扉が開き、おれを発見した係員が驚きの声を上げた。

 かくして急患にランクアップしたおれは颯爽と治療室に連行された。まず、か細い声で事情を説明。


「多分シメ鯖のアニサキスかと思います」

「じゃあ、すぐに胃カメラだ」

「そうすか」


 問診時間約20秒。

「絶対いやです」と口ごたえしたかったが、痛みで考えることができなくなっているので、そうすか、くらいしか言えなかったのである。

「痛いですよ」とお墨付きの筋肉注射を左肩に撃たれた。打たれたというか撃たれたという方が威力的に近い。


 しばらくすると、あごが勝手に開いた。

 はたから見れば、あご載せワゴンの上でだらしなくよだれを垂れ流し続ける醜いオブジェの完成でございます、こちら、カメラを飲み込む機能がございます、と実況したくなるほどに面白い見世物だったろうが、おれは一切気にしていない。なんとなれば本当に醜いオブジェであったことだし、今となっては胃の中に住むアニサキスがマスターなので、おれはただの器なのだ。


 処置室に入り、ベッドに横たわる。ものものしいモニター類が積み上げられたその先に、黒くて細いケーブルが見えた。あれ入れるのか、あれ入るのかとぼーっと考えていると、初老の医師がやってきた。

 奴は言った。


「動かないで。静かに息をして」


 なにかわいせつなパーティーで使用するようないやらしいものをおれの口に押し込んだ。恐らく口を閉じさせない為のグッズだろう。奴の予定と期待通りに、おれははふはふと間抜けな呼吸を始めた。

 そして何も言わずに黒くて長い本体を挿入しやがった。胃カメラの経験は今回が初だから分からないが「お邪魔します」の一言くらいあってもよいのではないだろうか。


 当然呼吸が荒くなるおれを三白眼で見くだし、二度目のセリフを読み上げた。


「動かないで。静かに息をして」


 このセリフは胃カメラが胃に到着するまでの間にあと2回聴くことになる。

 こいつアンドロイドか中世の拷問官かと思うのも無理はない。


 胃カメラが胃に到着しました。

 医者は指先でカメラをグリグリと操作している。全周囲を見渡しているようだ。

 アニサキスがいたら、どうするんだろうか。

 カメラのはじっこでプチッと潰すのだろうか。それともカメラが何かしらの原理により光を収集し、ビームみたいのを発するのだろうか。ダメだ笑いが。


「動かないで。静かに息をして」


 激痛に耐えつつ胃まで届くチューブを飲み、よだれを垂らしながら笑いをこらえている。医者としては「普通に発狂しています」としか診断の下しようがない、異常な状況である。だがアニサキスがそう動かしているのだから仕方がない。


 しばらく見敵必殺の様子でカメラを操作していた医者だが、手を止めて息を一つついた。そして口を開く。


「いませんね」


 腹筋が痙攣を始めた。涙が止まらない。尿まで漏れそうだ。こいつ、この山場で初めて他の言葉を。


「動かないで。静かに息をして」


 アンドロイドは正常運転に戻り、いつもの言葉を口にした。

 感情を介入させない為、といった理由はさておき、会話の語彙はここまで削ることができるのかと少しだけ関心した。

 もしこいつが主治医だったら「風邪ですね」か「手遅れですね」としか言わないのだろう。正しくいえば医者ではなく技師なのだろうが。


 処置室を出て、主治医の話を聞く。


「どうやら流れていったようですね。もう少しすれば痛みも収まってきますよ」

「本当に苦しかったです。ところで、もしいたらどうする予定だったんですか? カメラのはじっこでプチッと潰すとか」


 医者は笑いだした。


「もちろん薬で殺しますよ。けどやっぱり胃カメラは苦しかったですか。強めの筋肉注射を打ったんですけど」

「いや〜、もう二度とやりたくないですね」

「じゃあ生魚の類はよく噛んで食べることですね」


 ありがとうございました、と退室しようとしたが、今後の為に一つだけ訊いておきたいことがあった。


「あの、先生。多分人間ドックとかで今後胃カメラ飲む機会があると思うんですけど」

「はい」

「苦しくないコツとかあるんですか?」


 医者は一つうなずき、真面目な顔で言った。


「動かず、静かに息をすることだね」


 おれは腹を抑えてうずくまった。

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動かないで。静かに息をして 桑原賢五郎丸 @coffee_oic

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