第1.25話 私生児の乳母アウロラ、龍について思い出すこと


 白髪交じりの髪を掻くと、雪がぼろぼろと落ちてきた。地元でも冬は雪はよく見たものだが、ここの雪は違う。触れても容易には溶けない。さすが北方、到達不能山脈だ、と男は空を仰いだまま嘆息した。

 むっくりと起き上がり、身体に付いた雪を叩き落としてから頭を巡らせる。引いていた橇は坂を滑り降り、転んだ男より早く村へと近づいていた。


 橇を回収し、引いて進む。雪原の上の橇ではあるが、けして軽くはない。汗水が垂れるが、寒さは感じない。夏の太陽が照り付けているから。輝く光が雪に照り返されて下からも眩しくしているから。しかし、これも、体力が続く間で、たぶん、止まってしまったら、それで、冷えて、終わりだ。

 なんとか体力が尽きる前に村まで辿り着いた。北方の到達不能山脈付近にある村で、ここは夏場に限ってだが、地面に岩や砂が覗いてくれる。さながらオアシスだ。眩しい雪の砂漠の中の、乾いた岩のオアシス。


 男が近づくと、出発前に見送ってくれた村の子どもたちがまず迎えてくれた。

「おかえり」

「無事でよかった」

「生きてたんだね」

 などと口々に言われ、なるほど死んだと思われたか、と考えればにやりと笑わずにはいられなかった。

 

「あれ、馬は?」と子どもたちのうちのひとり、彼らの中では年嵩の少年が目敏く訊いた。

「喰った」

「はぁ?」と尋ねた少年のみならず、子どもたちから口々に疑問の声があがる。なんで、高かったんじゃないの、お馬さんを食べちゃうだなんて、食い意地張り過ぎ、など。

「死んだんでな。到達不能山脈は馬じゃあ駄目だな、勉強になった」

 男は顎を撫でながら笑った。さすがは到達不能。さすがは〈冬の魔王〉の居城。こうでなくては。やりがいがある。

 

(ぼっちゃんとアウロラさんは元気にしてるかね………)

 子どもたちのことを見ていると、以前に世話になった〈帝都〉の少年とその乳母のことを思い出さずにはいられない。

 帝都へと繋がる空を仰いだとき、遠くに空を翔ける龍の姿が映った。


 ***

 ***


「優勝は、〈竜殺し〉!」

 勝利を告げられ、咆哮を発する。巨大な槌を叩きつければ、死体の頭が弾けて血と骨と脳漿が飛び散った。まだ死体ではなかったかもしれない。どちらにしろ、もうそんなことを気にする必要はない。死んだ。終わった。


 ぐるり、〈竜殺し〉と呼ばれた男は首を回して闘技場を見渡した。そこら中に死体と武器と残骸が散らばっている。彼らは一部は一対一での戦いを挑もうとし、一部は〈竜殺し〉が強敵だと知って結託して襲い掛かってきた。同じだった。どちらにしろ同じで、終わった。


 ここは〈帝都〉ではない。帝都の勢力下にあるが、帝都ではない。つまり、この闘技場でいくら勝っても、〈半島〉最強にはなれないということだ。半島最強の〈竜殺し〉として名をあげるためには、この闘技場に見切りをつけて帝都に赴くべきだろう。でなければ、その異名が嘘偽りではないという証明に、龍を殺すべきだろう――最近、伝説だった存在が現れたらしいので、その機会は十分にあり得るだろう。


 ふと空を眺めると、まさしく龍の姿があった。吠える。〈竜殺し〉は吠え、空を過ぎ去っていったその巨体に言葉を投げかけた。待て、逃げるな、と。


 ***

 ***


 騎士に憧れる少女は走っていた。

「どうして……どうして………!」


 建物は崩れ、焼け、人々も同じように崩れ、焼かれた。突如として〈帝都〉を襲った龍は、破壊をもたらした――そのうえ、アグナルを王にするだと?

 アグナルが王になる。そのことは、彼の友人であるヴィルヘルミーナにとっては一切の意味を持たない言葉であった。なぜならアグナルは友であり、それ以上の何かではないからだ。友は友だ。もし王でも、友だろう。

 が、龍の後ろ盾で急に王になるとなれば、それはまた別の話だ。状況が異常すぎる。帝都を焼き尽くしたあの龍の言うことなんて聞いてはいけない。それとも、それとも……アグナルが龍を操っているのだろうか?


 そもそもからして、事態が異常だった。アグナルが人狼を使ってのラーセン王の暗殺の容疑に問われていた。彼が暗殺などするはずがないのに。そんなはずがないのに。それとも、本当なのか? わからない。ミーナには、何もかも。

 ただ、この状況を収拾してくれそうな人はひとりしか思いつかなかった。

(ジリー、どこに………!?)

 人狼騎士。帝都闘技場最強の剣闘士。帝都騎士団第二隊の治安維持隊隊長。彼なら、彼なら……帝都の混乱を収束させてくれるはずだ、と思った。

(でも、龍に勝てる?)

 あのジリーでも、龍と戦って勝つ想像ができない。


 それでもミーナには、ジリーを頼るほかなかった。涙で覆われた瞳で帝都を走り回る少女の目に、空を飛翔する龍の影は映ってはいなかった。


 ***

 ***


 油断した。


 言葉にしてみればそれだけのことだ。人狼騎士は瓦礫を除け、ようやく城の外に出ることができた。

 あの人狼の暗殺者――クマという名前の女の攻撃はあらゆる点で予想できたはずで、しかしそれが思い上がりだった。結果だけ見れば龍が乱入したようなものだが、あの女が〈帝都〉にやって来たのも、そもそも龍に連れられてということなのだから、龍の介入を考慮して戦うべきだった。


 ジリーは空を仰ぐ。燃える帝都に空は焼け、その中を龍が飛んでいる。

 龍。

 倒すべき敵。


 ジリーは吠えた。その吠え声は帝都中に伝わり、さらには龍の背に乗っていたふたりの身体さえも揺すった。


  ***

  ***


 目をり抜かれた瞬間のことは、よく覚えていない。


 剣闘奴隷だった。14歳の当時は、だ。どこから連れてこられたのかも、覚えていない。物心ついたときには既に奴隷だった。

 強くはなかった。弱かった。小柄で、痩せていて、長剣も銛もあまりにも重かった。

 実際の剣闘に出る以前に、剣闘奴隷は訓練を受けさせられる。あまりにも弱いまま剣闘奴隷が戦いに出ても面白くないから、だそうだ。その訓練の中でも、剣闘士としての弱さは明らかだった。

「剣は短いものにしろ。それに、目が良いのだから、よく見て動け」

 そんなふうに言ったのは誰だっただろうか。とにかく、それに従った。従うほかなかった。選択肢はなかった。


 相手の動きを見て、あるいは予測をして、避ける。受ける。それから叩き込む。

 見る。予測する。避ける。斬る。

 見る。斬る。

 振り返ってみれば、ある種は華麗で、ある種は面白みのない戦い方だったのかもしれない。勝ち続けていても、剣闘奴隷としては長続きしなかったかもしれない。いや、強かったというほどではないから、どちらにしろ剣闘奴隷としての寿命は短かったか。

 とにかく、目に頼り切った戦い方をしていたアウロラは、片目を失ったことによって戦えなくなった。

 たぶん、そのあとは、死んでいくだけだった。だって、剣闘奴隷として連れてこられて、剣闘奴隷として戦えなくなって、そうしたら、無理矢理見世物にされて、それで、終わりだ。

「わたしのところで働いてもらいたいの」

 とそんな申し出をしてきたのは、帝王ラーセンと一緒に剣闘場に来ていた妊娠中のエッダだった。彼女はアウロラを、剣闘奴隷としてではなく、妊婦である自身とこれから産まれる子どもの世話係として雇おうとした。


 断る理由はなかった。というより、奴隷であれば断る権利などなかったわけだが、剣闘奴隷よりはずっと良いとは思った。

 なぜ自分を選んだのか——アウロラは尋ねたのを覚えている。エッダはこう答えた。

「ふつうに人を雇うよりも安く上がりそうだったから」

 実際、その理由は事実なのだろう。

 まぁ、つまり、誰でも良かったわけだ。エッダは、良く言えば、他人に過度な期待をかけるようなタイプではなかった。


 アウロラはしかし、緊張した。家事などやったことがない。ずっと奴隷だったのだ。ましてや、赤ん坊の世話など……。

 雇われてからというもの、失敗ばかりだった。失敗を目の当たりにしても、エッダは怒るでもなく受け入れた。彼女は……特にアウロラに期待はしてはいなかった。だが、期待していないということは、いつ切られてもおかしくはないということではないか? アウロラと同じように、戦えなくなった剣闘奴隷などいくらでもいる。その中で、もっと優秀そうなものを見つけ、代役に据えるという可能性はあるではないか。アウロラは怖くなった。剣闘奴隷として生きていた頃は、ただ死が怖くて死に抗って生きていた。が、いまとなっては、死に抗う戦いそのものが怖くなった。

 恐怖で眠れず、食事もとれなくなった。体調を崩して、働けなくなった。寝込んだ。もう終わり。終わりだった。


 寝込んで動けなくなると、エッダが(というか、食事作りなど一部の家事はまだ彼女の手伝いのもと、行なっていたのだが)ひとりで家事を行うようになった。自分がいないほうが円滑に回っているような気がした。

 倒れた日、エッダが部屋までスープを運んできてくれたとき、アウロラは未来への怖さで泣いてしまった。

  涙を流すアウロラを見ておたおたとしていたエッダだったが、理由を聞くとアウロラをベッドから連れ出し、居間まで連れていった。椅子に座らせて、「アレ見て、アレ」と壁を指差す。そこにはアウロラが倒れている間に取り付けたのだろう、小さいながら立派な装飾のステンドグラスがあった。

「あれね、ドラゴン」

 とエッダは説明してくれた。寝ている龍の絵なのだと。帝都の信仰する、強く激しい龍ではない、穏やかに眠る龍なのだと。何もせずに、ただ怠惰に、優雅に、ゆっくりと穏やかに暮らす、龍。

「餞別に何か送りたいって言ってたから、子ども服とご飯を頼んだの。そうしたら、そういうのは駄目で、もっと残る物にしなさいって言われたの。だから、あのステンドグラスを頼んだの」


 だからなんだ、と思った。

 そんなの、アウロラの悩みとはまったく関係ないではないか。


 だが振り返ってみれば、エッダからしてもアウロラの悩みは「だからなんだ」だったのだろう。彼女からすれば、一度雇用したアウロラがどんなに失敗しても、そもそも最初からなんでもできるなどと期待はしていないのだから、そんなありもしないことで悩まれても困るだけだったのだろう。だから、関係のない話をした。

 関係のない話だったが、しかしその後、体調を取り戻したあと、徐々に家事もできることが増えた。特に料理は頑張った。

 アグナルが産まれると、忙しくなった。アグナルは身体の弱い子で、エッダもアウロラも夜も昼も眠れない日が続いた。

 やがてアグナルは成長し、エッダは亡くなった。クマが訪れるまでの間、アウロラの生活はアグナルとふたりだけだった。


 彼が家を出ている間、家事が一息つくと、アウロラはいつもエッダのステンドグラスを見ている。

 ゆっくりと、優雅に眠る龍。昼でも夜でも構わず、穏やかに、ただ受け入れてくれる——それはアウロラにとってはエッダで、ステンドグラスに描かれたあの龍だった。

 だからきっと、自分は龍になれたのだろう。崩れゆく城の中、動けないまま……飛び立ってゆくアグナルとクマを乗せた龍の背を眺めながら、アウロラはそう思った。


〈第1章『アウロラ』:終

→次章:『くま』〉

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龍に至る道 山田恭 @burikino

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