第10話:弟達

 古来、晋という国に豫譲よじょうという者がいた。


 主君に恵まれず不遇に耐え忍んだ彼は、やがて智瑶ちようなる武将の目に留まり、その才覚を見出されて優遇された。


 豫譲は主の期待に応えようと張り切り、武勇を馳せるべく春秋戦国の世を駆け抜けたが――天は彼らを冷酷にも見放した。智瑶はある戦にて、敵の計略に嵌められて敗死してしまう。


 敬愛する主君を失った豫譲は山に隠れ、憎き仇敵を討つべく……敵将の舘へ身分を偽り潜入するも、あえなく捕らえられてしまう。寛大な敵将は「滅びた主君を思い、一人我が身を討たんとする忠心や良し」と、豫譲を解放したのである。


 しかしながら……豫譲は諦める事無く、「これでは足りなかったのだ」と変身を開始する。


 毒性を持つ漆を身体に塗り、皮膚病の人間へと身を窶す。更に更に、と炭を飲み込んで声を潰し、果たして「別人」へと変貌を遂げた。


 高まる討伐意欲、昂ぶる感情を抑えに抑え、復讐鬼は敵将を橋の袂で待ち受けた。


 冴えた殺気は、時として放つその者をを害する。


 豫譲から放たれる怨讐の念波は、敵将の跨がる馬を怯えさせ、「智瑶の旧臣はそこなるか」と捕縛されてしまう。


 変装、とは生温い表現である。変質を遂げた忠臣でありながら、しかし胸に秘めたる怨毒の濃度を下げる事は叶わなかった。敵将は豫譲の忠誠心、復讐心に恐れおののき、「二度目は無く、ここで覚悟されよ」と配下に斬り捨てさせようとする。


 最早これまでと悟った豫譲は、「罰を免れようとは思いませぬ、願わくば、御身の衣服をば賜り、それを斬り捨てて我が主君への忠誠、その証左と致したい」と懇願した。


 敵将はそれを許可、衣服を与えると、豫譲は衣服を目掛けて渾身の斬撃を三度見舞う。


「嗚呼、これで我が主君に顔向けが出来る」


 敵の刃は受け入れぬと、豫譲は突き立てた自身の刀剣に覆い被さり、復讐と忠誠に充ちた生涯を終えた。敵将は我が身を追い続けた豫譲の死に際し、「彼こそが壮士たる男」と涙して評価した。


 やがて豫譲の逸話はかつての敵国に広まり、人々に長く愛されたという。


 この故事は、「呑炭漆身どんたんしっしん」という四字熟語に封入され、今日に伝えられている。




 復讐、仇討ちを目指して様々な辛苦に耐える事。これはその意である。




 目指すは仇敵の絶対討伐、その為ならば如何なる苦難も受け入れよう――紀元前の忠臣に似た境遇の人間が、長い長い時を超えて……ある国の、ある地方都市に開かれた学び舎に現れた。


 名を鶉野摘祢。彼女は「ある事件」から一年間、日常の全てを仇敵――目代小百合――への復讐に費やし、生きてきた。


 あらゆる忌手イカサマを習得し、「いけない事」と知りながら打ち場にて使用、復讐に必要な花石を貯め込んだ。増える残高を見る度に、昂ぶる復讐心が喜び勇んで燃え滾った。


 炭の代わりに「毒」を呑み、産毛の一本に至るまでその毒を浸透させる。絶対的な信頼によって成り立つ賀留多の打ち場、そこに忌手イカサマを持ち込むという罪を被り、全身を悪の穢れに染め上げた。


 怨み、負なる感情を毒に変えて溜め込む彼女は、まさに怨毒鳥えんどくちょうである。


 余談となるが、ヨーロッパの一地方には、ある時期に毒を身体に宿す鶉が生息する。紀元前から知られるその毒性は、不思議な事に「効く人、効かぬ人がいる」という特質を持ち、その毒は何に由来するのか――未だ議論の渦中にあった。


 に、とうとうその時が来た。


 身体に満ち満ちた猛毒は、憎き「あの女」を滅する為。


 両手に備わる忌まれる技は、憎き「同類」を殺める為。




「……本当に、やるつもりなの」


 不安げな沖永が、押し殺すような声量で呟いた。


 花ヶ岡高校から遠く離れたカフェ、その奥まったテーブルに摘祢、沖永、向山の三人が座っていた。


「勿論。季節は流れ、流れに流れてはや。余りに長かったわ……でも、賛同者が現れるだなんて、私のも捨てたものじゃないわね」


「……沖ちゃんと私は、あくまで鶉野さんを生徒会に突き出すまでの、いわば目付役だよ」


 向山の方を見やる摘祢。手付かずのカフェモカが寂しげに置かれていた。


「どうとでもしなさいな。唯……にして頂戴」


 エプロン姿の店員が慌ただしく歩き回り、各テーブルで手際良く注文を取っていた。このカフェは昼間よりも夕方、更に言えば「陽が沈む」につれて客数が多くなる。


 やがて――沖永と向山は鉛のように重たい空気を嫌ったのか、「今日は帰るね」と飲み物代を置いて帰宅した。


「……ふぅ」


 すっかり冷え切ったカフェモカを一口啜る摘祢。美味くも不味くも無い。唯のに思えた。


 五分後……摘祢はカフェモカを半分も残して席を立ち、近所のスーパーマーケットへ向かった。弟達の好きな菓子を買う為である。


 子供向け菓子類のコーナーにしゃがみ、「確かこのアニメのお菓子だったはず」と思案に耽る摘祢の横顔は、何処にでもいるの家族思いな女子高生だった。決して――。




 仇敵の破滅を心から願う、悍ましい復讐鬼には見えなかった。




 彼女は、沖永と向山、そしての事を「私の友人」と呼んだ。


 当然――純粋な嘘偽りである。


 摘祢にとって友人とは、ある定義を以て彼女の認定を受ける存在である。


 。これだけであった。沖永達はこの定義に当て嵌まらない――要するに摘祢は「いつか裏切る」人間として判断しており、今回の目代討伐も、表面上の付き合いに過ぎなかった。


 同時に……摘祢は理解していた。




 彼女達も、私を友達だなんて思っていないだろう。




 諦観と呼ぶには余りに冷淡、余りに下心が無かった。


「……」


 菓子をタップリ入れたレジ袋を掴む手は、幾度も誰かを欺き、大好きだった賀留多を冒涜し、微かに残っていた自身の良心を殺している。


 汚れた花石を貯め込み続けた結果が、もしかすると「全く意味の無い独り相撲」だとしたら?


 数ヶ月前に摘祢はふと思い、背骨が抜き取られるような恐怖感を覚えた。それから彼女は「良心」という言葉を、脳内辞書から完全に抹消した。


 彼女に後戻りは赦されない。赦される程度の罪を重ねた記憶は無かった。


 今や鶉野摘祢という人間を構成するのは、「怨毒」「忌手イカサマ」の二つだけだ。


 まさしく彼女は意志を持った暴風であり、自我を失った怪物であった。


「ただいま」


 胸の奥に飼う、得体の知れぬ猛毒鳥を悟られてはいけない――摘祢はいつもと変わらぬ声調で、我先にと駆け寄って来るはずの弟達に声を掛けたが……。


「……どうしたの?」


 一人として玄関に弟達がやって来ない。リビングの方から泣き声が聞こえた。


「うわぁぁん! お姉ちゃん、お姉ちゃん!」


 最年少、泣き虫の達樹が鼻水を垂らして駆け寄って来た。摘祢は荷物を置いて達樹を抱き上げると、ばつの悪そうに俯くを睨め付けた。


「また達樹を虐めたのね。お姉ちゃん、虐めは大嫌いだって言ったわよね」


 違うんだよ! 長男の勝樹が大袈裟にかぶりを振った。


「ゲームしていたんだよ、そしたらね、達樹が負けたからってね、勝手に電源を切ったんだよ」


 そうだそうだ、と次男の章樹も頷く。


「達樹、そうなの?」


 ティッシュで涙を拭いてやる摘祢、「だって」と達樹は不満げに答えた。


「お兄ちゃん達が強いから、僕が勝てないんだ。勝てないから面白く無いの、だから切ったの。そしたら、お兄ちゃん達が叩いて来たの」


 なるほどね――摘祢は達樹を下ろすと、「集まりなさい」と弟達を足下に呼び寄せた。


「勝樹、章樹。貴方達は年上でしょう、年上の方が力も強いし、喧嘩になったら絶対に勝ってしまう。それは分かる?」


 二人はつまらなさそうに頷いた。


「暴力は駄目。それも弱い相手、例えば、年下の子とか、女の子には絶対」


「……お姉ちゃんも弱いの?」


 勝樹が興味深そうに尋ねた。摘祢はしばらくの間を置き、「うん」と頷いた。


「それと、達樹」


 顔を涙で濡らしつつも、何処か優越感に浸っている達樹は目を見開いた。


「負けそうだから、という理由で電源を切ってはいけないわ。ゲームだとしても……貴方の為にならない」


「でも、僕勝てないもん」


「達樹はまだ分からないだろうけど、達樹が大きくなったらね、一杯大変な事があるの。その度に、『嫌だから』って逃げちゃったら、どうなると思う?」


 口を尖らせる達樹。理解出来ない事柄に直面した時の癖だった。


「お姉ちゃん! でも電源を切ったのは達樹だよ! 怒ってよ!」


 気色を損じた章樹が地団駄を踏むが、摘祢は彼の頭を撫で、それから三人を一気に胸へ抱き寄せた。


「怒るよりも、もっと効果的な方法があるのよ」


「恥ずかしいよお姉ちゃん……」


「……分かんないよ、そんなの」


「お姉ちゃん、良い匂いする!」


 三者三様の反応を見せる弟達へ、摘祢は優しい声色で語り掛けた。


「相手の話を聞いてあげる事。すぐに怒ったり、行動に移したらいけないわ。何の為に口が付いているの? 私達、お喋り出来るでしょう?」


 さぁ、貴方達……摘祢は順番に頭を撫でてやった。


「今回は両成敗よ。ごめんなさい、出来るわよね。叩いてごめんね、電源切ってごめんね、って。ね?」


 弟達はモジモジと摘祢の腕の中で身体を捩ったが、間も無く「ごめんね」とか細い声で言い合った。


 摘祢は――、「久しぶりに」と弟達へ言った。


「お姉ちゃんもゲーム、混ぜて貰おうかな」


 ワッ、と三人は喜びの声を上げた。達樹は摘祢の手を引っ張ってテレビの前へ向かい、勝樹と章樹はもう一台のコントローラーを用意し、ゲーム機本体に接続した。


「ほらほら、その前にお風呂入るんでしょう。さっさと入って来なさい」


「ねぇ、お姉ちゃんも入ろう? ねぇ入ろう!」


 あっと言う間に服を脱ぎ捨てた達樹は、摘祢の裾をグイグイと引いた。摘祢は時計を見やる、夕食の準備がまだだったが……。


「……そう、ね。たまには四人で入ろうか」


 えぇー、と章樹が眉をひそめた。姉に洗髪の仕方を口五月蠅く言われるのが鬱陶しかったらしい。


「先に入っていて。お姉ちゃんは後から行くから」


 キャアキャアと騒ぎながら浴室へ向かう弟達の着替えを、箪笥から手際良く取り出す摘祢は……。


 ふと、仇敵――目代小百合にもがあるのだろうか……と考えた。


 制服をハンガーに掛け、自分と弟達の下着を持って浴室へ向かう。手早く下着を脱ぎ、ドアを開くと中では三人が泡だらけで遊んでいた。


「転んだら危ないわ。皆ちゃんと身体洗っているの?」


「うん、ちゃんと――」


 勝樹は不思議そうに摘祢の顔を見上げた。


「お姉ちゃん?」


「何?」


 何かあったの――キョトンとした小さな双眼は、パチパチと素早く瞬きをした。


「……何も無いけど?」


「お姉ちゃん、何だか悲しそうだったもん」


 摘祢は達樹にシャンプーヘッドを被せ、椅子に座らせて静かに答えた。




 勘違いよ、きっと――。

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毒鶉の笑う日まで 文子夕夏 @yu_ka

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