18. epilogue
梅雨の鬱陶しい雨が降り注ぐ、朝。
いつものように看板を通りに出し、階段の庇の下で看板の文字を確認する。
『下板橋探偵事務所 2F』
僕は階段を戻り、朝の準備に精を出す。
……と、言った物の。
例によって、予約無し。
僕たち三人は、雨の音を聞きながらそれぞれの席でコーヒーを飲んでいた。
応接ソファではただ一匹、チャーリーが我が物顔で伸びをしている。田島家、八木橋家、東龍会…最近は色んなソファを座り比べたが、やはり事務所のソファが一番肌に合うと思う。
「そう言えば、所長」
読んでいる雑誌から顔も上げず、綾子氏が黒埜氏に話しかける。
「うん…?」
黒埜氏の方もスポーツ新聞から顔を上げずに答える。
「昨日、東龍会から振り込みがありました」
「あ、そう…」
またしばらく、雨の音が部屋に満ちる。
僕たちが高崎に行ってから三日。
僕が見ているこの世界は、それなりに平和に包まれていた。
僕は読んでいた文庫本に集中できず、立ち上がってステレオの前に行き、小さな音でジャズを流した。
「お、いいねえ。雨の日にはビル・エヴァンスのピアノが似合うよ」
黒埜氏がコーヒーを飲みながらそう呟いた。
相変わらず、視線は新聞に落ちたままだが…。
***
結局夕方になっても新たな依頼者は現れなかった。
ゴージャスな美女も、傷を負い出血しながら現れる謎の男も現れなかった。
平和な下板橋の午後。
だが、訪問者がいないわけではない。
「こんちはー!」
騒々しくドアを開けたのは、立花紫苑。
「チッ。また来たの、腹黒JK」
一番ドアに近い綾子氏が青汁を飲んだ時と全く同じ顔をしている。
「腹黒くないもーん。ね、ノリ君?」
僕の所までやって来て、あざとい上目遣いをしてくる。
紫苑はあれ以来、眼鏡を掛けるようになった。紺に近い紫のフレームの丸眼鏡。
「僕はお前のノリ君になった覚えはない」
「えー!?
何、ノリ君て、彼女にもそう呼ばれてるんだ?」
「うるさい、どうせピザ目当てで来たんだろう?!
もう、帰れよ」
僕の言葉にまったく取り合わず、応接ソファに座り込む。
「チャーリー! 来たよ-」
チャーリーを抱え込むが、チャーリーはもの凄く嫌そうにむずかる。ここまで全員が嫌な顔をしているというのに、何故か紫苑は楽しそうだ。
ティーバッグの紅茶を入れてやりながら、紫苑の向かいに座る。
「…今日も行ってきたのか?」
「……うん」
一転して弱々しい笑みを浮かべ、紅茶をふうふうと冷ます。この様子では、今日もダメだったようだ。無理もないが。
「それでも、少しずつ、話してくれるようになったよ。
昔のようにはいかないけど…」
紫苑は二日前から、八木橋翠の家に毎日出掛けている。
あれから、HR後の教室で、翠についての噂がすべてデマだったこと、その嘘を全て自分が流した、ということを全員の前で告白し、謝ったという。
翠が再び登校してきても、仲良くして欲しいと懇願もしたという。
翠に対しても同様に、直接会っての謝罪が叶った。
だが翠の方の心の傷は深く、まだ紫苑に対しても、学校への気持ちも、前向きにはならないみたいだ。
「でも、私諦めたくない。
昔みたいに戻れないのは仕方なくても、翠が私のこと許せないのが当然だとしても、せめて翠がもう一度学校に通えるようになるまで、私頑張りたい」
紅茶を飲みながら、紫苑は決意を新たにする。
「翠も翠で辛いんだから、毎日顔を合わせるのも逆効果だろ?」
自分の席から黒埜氏が言葉を掛ける。
「…やっぱ、そうかなあ…。
ね、どうすれば良いと思う、ノリ君」
「僕に聞かれてもな…」
「しばらく様子見しながら、適度に距離を保つんだな。
出歩けるようになったら、ここに遊びに連れてきてもいいぞ」
黒埜氏の言葉に、女子二人が反応する。
「本当!? 絶対だよ?」
「所長! これ以上JK増やさないでください!」
…明日は仕事、来ると良いなあ……。
甲高い声が飛び交う騒々しい事務所の中で、僕はひっそりチャーリーと肩を竦め合った。
――――Episode 1. 藻掻く少女 了
踵で刻むアフター・ビート 秋月創苑 @nobueasy
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