僕は残す

詩一

僕は残す

 斜陽に照らされた教室の一番隅。教壇から一番遠い窓際に、彼はまだ居た。ぼんやり外を見て適当に時間を潰しているわけではなく、目の前の難題に真剣に立ち向かっているようだった。


 俺は教室の入り口で部屋に入る前に短く息を吐いて、中に入った。机にぶら下げられた体育館シューズのゴムの匂いとチョークの粉の匂いがい交ぜになった空間を進む。閉じた空気が、俺の介入を皮切りに動き出し、後ろへ後ろへ流れていく。埃っぽい茜色が俺を避けるようにひるがえって揺らめく。


 教室にはもう彼以外には誰も居ない。彼が今もなお教室に残っている理由はただ一つ。給食を残しているからだ。配膳された食器の中、漬物だけが残っている。すべて食べきるまで、昼休みに友達と遊びに行くことも、授業を受けることも許さないと俺が言った。彼はその通りにした。言いつけは守った。だがそれは褒められるようなことではない。そもそも俺がそんなことを言ったのは好き嫌いをせずどんなものでも食べて欲しいからなのであって、遊んで欲しくない、学んで欲しくないと言う理由からではないからだ。


 俺は食器の中の漬物を見つめる少年の前に立ち、椅子の背に腰を預けた。ちょうど彼の前の席に腰かけるような格好だ。


「もうみんな帰っちゃったぞ」

「知ってます」


 彼は顔を上げた。首元までしっかりとボタンを嵌めた白シャツ、丁寧に切り揃えられた艶々の黒髪が、子供らしからぬ品格のようなものをかもし出している。眉毛の上で横に線を引いた様な前髪の下から覗くぱっちりとした丸い瞳が、俺をまっすぐに見つめてくる。


「どうして食べないんだ?」

「食べられないんです」

「どうして」

「嫌いだから」


 短く言い切る少年に、苦虫を噛み潰す。


「あのなあ、柳炒やないり。先生は確かに全部食べ切るまで席を離れるなと言ったが、それはお前に好き嫌いをなくして欲しいからなんだ。ずっとここに居て欲しいからじゃあないんだぞ」

「でも、嫌いなものを食べられない僕にそんなことを言うということはつまり、ここに居ろ。一生居ろ。と言うことですよ」

「一生か。柳炒、そんなことができるわけがないだろう。いいからさっさと食べてしまいなさい」

「簡単に言いますね。そんなに簡単に食べられるものなら、とっくのとうに食べていますよ。第一、先生は、できるんですか? 嫌いなものを食べること」

「当たり前だ。自分ができないことを柳炒に押し付けるようなことはしない」

「それはつまり、自分ができることは、相手もできて当然と言うことですね。では逆に、自分ができないことは相手に求めないと言うことにもなりますね」

「そうだな」

「先生はジュニアサッカーの選抜メンバーに選ばれた葛西田かさいだ君にプロになれるように頑張れとエールを送っていましたが、先生もこれから目指しますか? プロサッカー選手」

「お前なあ」


 揚げ足を取る柳炒に溜め息で返す。しかしながら柳炒のやつ、いつの間にこんなに大人びた口調になったんだろう。小学生とは思えないよな。前からこんなマセガキだったか?


 窓の外を見るといよいよ空は夜の準備を始めていた。この季節はいつも夕暮れが落下するように過行く。


「なあ。もう夜だ。お母さんもお父さんも心配しているぞ」

「心配? ああ。泣いているかも知れませんね」

「自分の親を他人事みたいに言うなよ」

「そうさせたのは先生なのでは?」

「はあ?」


 意味の分からない返答に思わず生徒に対する口調ではない、まるで友達に返すような口調になってしまう。だがそんなことはお構いなしと言ったようで、柳炒はまた違う話を始めた。


「到底食べられないようなもの。それを飲み下すことが大人に成ると言うことなのかも知れませんね」


 またこれだ。意味不明の返答をしたかと思ったら、小学生にあるまじき大人らしさを見せる。多分、どこかで見たり聴いたりしたセリフを言っているだけだろうな。


「そうやって好き嫌いをなくしていって、本当に好きだったものを見失うんでしょうね。きっと。先生はまさか小さい頃から先生になりたかったわけではありませんよね?」

「――何を言っているんだ」

「子供の頃から、先生を目指して先生になったと言うのなら、それは素晴らしいことです。ですが、違いますよね?」


 俺は押し黙ってしまった。本当にその通りだったから。

 俺は高校生の頃、サッカー選手になりたかった。自分で言うのもなんだが、正直上手かったと思う。クラスの中だけじゃあなく、その地区の中でも。シュート力とドリブル突破力は群を抜いていて、一人風になるのがとても楽しかったのを記憶している。だが、サッカーは一人でやるものじゃあない。周りとの協調が必要だ。それを学んでから、それまで苦手だったパス練習や、サインを覚えることに時間を費やした。気付けば俺はストライカーの座を他の仲間に譲り渡し、ミッドフィルダーに転向していた。ミッドフィルダーにはフィールドの端から端まで走り続けるスタミナを求められた。俺はパス練習に加え、持久走のメニューまでこなすようになった。もっともっと上手くなる為に好き嫌いをせず、なんでも取り入れていった。だが何でもかんでもできるわけなんて無くて、俺の体は数か月後には悲鳴を上げた。しかし声を上げることはできなかった。大会が近かったから。周りに迷惑を掛けたくなくて、俺は苦痛に耐え、声を押し殺して練習を続けていた。サッカーは一人でやるものじゃあないから。迷惑を掛けてはいけない。迷惑を掛けない為に、苦手を克服しなければいけない。好き嫌いは、絶対にいけないことだ。そう自分に言い聞かせた。だが大会当日、俺は試合が始まると同時に倒れこんだ。すぐさま救急外来に連れていかれ、診てもらうと、俺の膝は骨折していた。無理な練習が祟った、疲労骨折だった。


 それから俺は療養に専念した。治ったらまたサッカーをやろう。そう思っていた。だが完治したころには、他のメンバーにポジションを奪われていた。そりゃあそうだ。高校生にとって、5ヶ月なんて言うのは取り返しのつかない濃度を持った時間なんだ。メンバー全員素人ってわけじゃあないんだから。


 そう言う挫折があって、俺は大学に入ってからサッカーとは全然関係の無い、教師を目指し始めた。まるでかねてからの目標だったかのように遮二無二勉強して教員免許を取った。もしかしたらあれは、青春に費やすことができなかった熱量を大学生活に持ち越しただけの代物だったのかも知れない。


 柳炒は俺の落ちた視線を掬い上げるように覗き込んでいた。

 ビクッと引きつってから、頭を小さく左右に振る。いやいや、いくら図星だったからと言って、こんなに考え込むなんてどうかしているぞ……そう言う心を柳炒に付け込まれないようにしないといけないな。


 窓の外はますます暗くなっている。と言うか、そろそろ柳炒の両親から学校に連絡が入ってもおかしくない時間だが、なぜ電話が来ないのだろう。職員室に電話が掛かってきたら、担任である俺の携帯電話に一報入るはずだが。

 もしかして柳炒は親に愛されていないのだろか。だから給食を残して、家に帰らなくてもいい理由を作っているんだろうか。だとしたら可哀想だ。同時に親に対しての怒りが湧いてくる。一教員として彼の力になれないだろうかと考えたが、これはあくまで俺の妄想だ。実際は両親共働きでまだ家に帰って来ていないなんて言うのがオチなんだろう。


「なあ、柳炒。先生が家まで送ってくから、食べような?」

「食べなくてもいいと言うのなら、僕は一人でもこの席を立ち、帰るべき場所に帰ります」

「いいや、駄目だ。食べなさい」

「なら無理です。帰れませんね」


 まったく頑固なやつだな。


「先生は、僕が食べないことで昼休みも遊べず、授業も受けられず、結果的にイジメられたとしたら、責任を取ってくれますか?」

「え?」


 唐突に何を……いや、何か前にも聞いたような。前にもこんなやり取りがあったんだっけ?


「仮にそうなったとしたら、先生はイジメるやつを許さないだろうな」

「先生。ならば先生は許されると言うんですか? イジメの幇助ほうじょをしたと言うのに」

「ああ!? 何を言っているんだ! 俺はなあ、好き嫌いはいけないと言うのを教える為にやっているだけで」

「小学生のイジメなんて、何がトリガーになるかわかりませんよ。例えば先生が、何かの理由があって、ある家の窓ガラスをたたき割ったとします。そこへ先生とは別の誰かが空き巣に入ったとして、先生には別の理由があったからドロボウの共犯ではないと言い張ることができますかね。それと同じことをしていると言うのに貴方と言う人は反省するどころか自分のことを正当化する為にイジメた生徒を許さないと仰る。何様のつもりだ」


 おかしな例え話をいきなり出すんじゃあないよ! と声を荒げそうになるがぐっとこらえた。


「恥を知りなさい」


 唐突に放たれた温度を下げる言葉、冷酷な物言いに、ぎょっとした。

 やはり、おかしい。柳炒は確かに変わったやつではあった。だが、やはり小学生らしい言動から外れるようなことはなかったはずだ。なのになんで今日はこんなにも発言が大人びていると言うか、俺を責めるような口調なんだ? 生徒と言うよりまるで保護者から咎められているような……。


 ――がたっ。


 不意に背後から音が聞こえた。

 振り返ると警備員のおじさんが訝しむ様に俺を見ていた。


「こんな時間までいったい何をしていらっしゃるんです?」


 首を傾げる警備員に愛想笑いを返す。


「いえ、生徒が給食を食べないもんですから。大丈夫です。すぐ食べさせますから」


 彼は俺と柳炒とを交互に見た。


「あららぁ……またですか」

「また?」


 警備員は困ったように眉間に深い皺を寄せている。その皺の中に人差し指を差し込み、非常に申し訳なさそうな苦笑いを浮かべ、俺の足元を視線で探った。


「いやぁ、申し上げにくいんですがねぇ、先生、その……、先生の前に生徒さんはいらっしゃいませんよ。その、とても残念な事件でしたし、先生が気になさるのはもっともです。それに保護者さんからの辛辣な言葉もありましたからね。先生として大変ショックなのは解るんですが」

「何を言っているんですか?」

「あ、ああ、いえ! いいんですいいんです。こっちで報告しておきますので」


 重苦しい溜め息を吐きながら去っていく警備員を目線だけで見送り、それから柳炒に向き直る。


「まさか、警備員さんが来たから帰るなんて言い出しませんよね。先生が言い出したことなんですから。食べるまで席を立つなと」

「そうだな。約束は守るよ」

「でも先生、そうすると先生も一生帰れないかも知れませんね」

「そんなことはない。お前は絶対に食べてくれると信じている」


「どれだけ先生が信じようと、関係ありません。貴方が記憶の好き嫌いをしている限り、僕は残す」

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