そうして双子になりました

九十九 千尋

りーん、りーん、と……



「大変だね」


 そう彼女は言った。


「だって、お盆の前に亡くなった人に会えるのは、来年のお盆になるのでしょ?」

「そうなの?」


 僕は彼女の言葉にそう返した。


「そう聞いた気がして。長野のね、精霊流しって行事ではお盆前に亡くなった人を送って、その年のお盆に来てもらうためにやるんだって……そう聞いた気がして」

「ふーん。じゃあ、僕らの県じゃ、亡くなった人はどうなるの?」


 彼女と僕の間に少し沈黙が流れた後、彼女は言った。


「さあ。亡くなった人は、徐々に居なくなるって……そう聞いた気がして」

「そう聞いたんだ」

「徐々に、顔も名前も忘れちゃうんだって。だから、諏訪部くんは覚えておいてね」

「うん」


 何の気なしに僕は彼女の言葉にそう返した。





 彼女は、翌日死んだ。















 その日は酷い豪雨だった。


 母が彼女の家に電話をしている。真っ黒で手触りのごわついた服を着て、真っ暗な部屋の奥でじっとしている。もう何時間もあの部屋に籠ったままだ。

 珍しく、父が仕事をせずに家にいる。母の隣で、二人でじっとしている。

 あの黒い服が喪服で、それは死んだ人に祈るための服だと聞いていた。


 思えば、彼女の名前は何だっけ? 近所で、時折遊んだあの子。あの子? そういえば、どういう顔をしていたんだっけ?

 なんで……忘れてるんだろう……? ああ、そうか。死んだ人のことを、徐々に忘れてしまうんだっけ……



 僕は密かに家を抜け出すことにした。

 なんとなく、このまま彼女を忘れてしまうのが嫌な気がして……どうにかしたくて。



 家から出る直前、唐突に誰かが僕の腕を引っ張った。

 振り返ると、そこには真っ黒なものが居た。腕を出して、僕を掴んでいる。

 この黒いのは、度々現れる。いろんなところに居る。街角や隅っこが主だが、最近は大人の両肩に乗ったりしているのも見かける。

 これが何かは、僕は知らない。

 腕を引っ張るが、一向に放してくれる気配はない。


 仕方がないので、腕を引っ張られている状態でそのままそこに座った。


「なんで引っ張るの?」


 真っ黒い何かは答えない。


「君は誰? それとも何?」


 真っ黒い何かは答えない。


「僕、行かないと。彼女を忘れちゃいそうなんだ」


 真っ黒い何かは……手を離した。

 僕は勢い良く立ち上がり家を出た。




 空は真っ暗。雨がとても激しく、視界もにじむほど。

 でも僕は知ってる。彼女の家はこの先だ。曲がり角を曲がって、まっすぐ行って、そのまた曲がり角を曲がって、公園を突っ切って、曲がってすぐ。


 彼女の家の標識を見る。

 「服部」とかいてある。ふくべ……? なんか、別の読み方があった気がするけれど……よく解らない。

 僕はインターフォンを押した。


 いや、正しくは、押そうとした。


 押せなかった。




 押せなかった。






 指の向こうに、雨の飛沫が見える。跳ねる雫はアスファルトの上で跳ね返る。それが見える。

 掌の向こうに、彼女の家の犬小屋が見える。おんぼろな木製の犬小屋。半年前に事故が有って、それ以来、誰も住まなくなった犬小屋が見える。

 いや、これは正しい表現じゃない。正しくは、


 空の上で何かが転がるように、何かが唸るような音と共に真っ黒な雲が光った。

 そういえば、僕はどうして傘を差してないのに、濡れていないのだろうか。



「もう夏休みなのにね……酷い天気」


 彼女だ。彼女は何時の間にか、僕の後ろに立っていた。


「ねえ、おかしいんだ。僕は、どうしてしまったんだろう?」


 彼女は少し、はっとしたように驚いて、そして悲しそうに言った。


「本当に、自分の身に何が起きているか、分からない?」

「それは……」



 母はどうしてあんな暗い部屋に居たのか。

 そういえば、僕が家を飛び出しても誰も何も言わない。雨の中に居ても誰も何も言わない。

 僕は……


「僕は、いつ……死んだの?」


 彼女は少し悲しそうに言った。


「昨日。覚えてない? すごく酷い熱を出してたの。うなされて、病院に救急車で送られて……辛そうだった」

「でも、昨日死んだのは……君の方じゃなかったの?」


 彼女は静かに頭を振った。


「あれは、君が、諏訪部くんが辛そうだったから、夢の中に私が入っただけ」

「そっか……そうだった。君は、半年前の事故で亡くなってたんだった」


 そうだ。彼女は、今年の初めに、愛犬と一緒に交通事故で亡くなっている。

 なんで、そんな大事なことを忘れていたんだろうか?


「……ねえ」

「なあに?」


 僕は彼女に聞くことにした。


「僕は、僕も忘れられてしまうの?」


 彼女と僕の間に少し沈黙が流れた後、彼女は言った。


「でも、きっと覚えてたら、君のお母さんは辛いままだよ」

「だけど、僕……忘れて欲しくない」


 そうだ。母は、きっとあの部屋に閉じこもっているのは、僕が死んでしまったことが耐えられないからだ。それなら……忘れた方が良いのだろうか?

 でも、僕は完全に忘れて欲しくない。それに……


「僕は、君のこともちゃんと思い出したいんだ。忘れたくないんだ」


 彼女は困ったように笑って言う。


「それじゃあ、ちゃんと……ちゃんとお別れしないとね」

「お別れ? それじゃあ、もう誰とも会えないの?」

「そうじゃないよ。お盆には帰ってこれるよ」

「お盆だけ?」

「お盆だけ」


 喉の奥が辛くなる。


「寂しくない?」

「寂しいけど、少しずつ辛くは、なくなるから」

「悲しいよ」

「そうだね。それでも、いい思い出は残るから」


 拭っても拭っても、僕の目からは涙がこぼれて。


「でも急がないと……真っ黒なのを見なかった?」

「真っ黒なの? 家に居たと思う」


 そういえば、家を出る前に真っ黒な何かに腕を掴まれてた。


「よく無事だったね……あれね、うまくお別れできなかった人が、ああなるの」

「あれになるの? 僕らも!?」


 彼女は頭を振って答える。


「ううん、違う。彼らは、現世の人に、残った人たちに忘れて欲しくないって、必死にしがみついてしまった人がなるの。そうして、仲間を作ろうとしているの」

「それって……」

「“取り殺されてしまう”ってこと」






 僕は家に急いだ。

 家の扉をあけて、あの真っ暗な部屋へ駆け込んだ。両親はまだ部屋に居る。


「お母さん! お父さん!」


 僕は両親の前に出て、二人を揺さぶろうとする。でも二人は反応がない。僕が触ることも出来ない。

 目の下に大きな隈を作り、真っ赤に泣きはらした目をした両親は、何をするでもなくそこに座り続けている。


「ねえ! 大丈夫!?」


 家の外から彼女の声が聞こえる。

 僕は近くの窓から身を乗り出して答える。


「お父さんもお母さんも大丈夫! 入ってこないの?」

「誰かの家には、誰かに連れていってもらうか、その家の人に招いてもらえないと入れないの! それが……幽霊の決まりなの!」


 幽霊の……そうだ。彼女も僕も、もう死んでるんだ。

 でも、感情に浸る暇はない。このままだと両親も危ない。何とかしないといけない。


 僕は玄関まで急ぎ、彼女を招き入れた。

 その際に彼女は玄関でふと止まり、振り返って外へ一礼し、何かをごにょごにょと唱えていた。


「エンバ様、エンバ様、こちらでございます」


 だとか……? エンバ様ってなんだろう?



 突如、家の中からやすりで金属を削るような、耳の中に砂を流し込むような、鳥肌の立つ音がしてくる。その音は、這うように背筋を寒くするようだと、僕は思った。


「ああ、そんな! いけない!」


 見れば、家の中は真っ暗だった。

 明かりが消えているからじゃない。その暗がりの中の何かと、僕は目が合った。いや、

 僕は両親が居た部屋が真っ暗な理由を知った。あれは、部屋の照明をつけていないわけではなかったんだ。


「これって、もしかして、部屋が暗いわけじゃなくて、その真っ黒い奴ってこと!?」

「うん。すごく沢山いる……」

「それ、大丈夫なの? お父さんんとお母さんは!?」


 彼女は何も言わない。ただ暗がりを睨みつけるだけしかできない。

 僕は彼女を玄関に置いて、暗がりの、真っ暗なものの中に飛び込んだ。



 それは、とても悲しい気持ちにさせるものだった。


 見上げれば、知らない男女が僕を見て微笑んでいる。この人が自分の両親だ。ああでも、ごめんなさい。ボクは……あなた達の家族として成長する前に亡くなりました。

 隣に老婆が居る。彼女とは、苦楽を共に五十年過ごしてきた。若いころに一緒に縁側で死ねたら、などと冗談で言っていたが、認知症の妻だけを残して、実際に私だけが先に死ぬのは、辛くて仕方が無くなった。

 彼が運転する車の中で、帰り道に口論になった。ほんの些細な口喧嘩から、売り言葉に買い言葉。じゃあ別れるか、と言う話になった直後だった。車が側面から追突され、ガードレールに突っ込んだ。彼は、私を車から引っ張り出そうとしてくれた。最期の最期まで。ごめんね。ごめんね……。

 あの日は頭痛がした。だから、早めに休もうと思っていた。家内に言って頭痛薬をもらった。だが、救急車を呼べばよかったんだ。息子たちが心配だ。君と息子二人を残して……無念で仕方がないんだ。


 そうだ。無念で、悔しいんだ。

 だから、忘れて欲しくないんだ。



 真っ暗な中で、僕は僕が誰なのか、分からなくなり始めていた。

 どこまでが僕の記憶で、どこまでが僕で、どこからが真っ暗なもので、僕も真っ黒なもので……?


 どこかで、誰かが呼んでいる。

 虫の鳴き声がする。あれは……





 突然、僕の視界は明るくなった。


 煌びやかに着飾った女の人たちが、大きな桃のような物を取り囲んでいる。それは、石でできているようで、細かな肉抜きの彫刻がされている、所謂、香炉こうろ、と言われる物なのだとか。

 その香炉の中から、虫の鳴き声がする。

 りーん、りーん、と……軽やかな、心地よい音色がする。


 見れば、香炉の傍にはいろいろな人が居る。

 病衣の老人、厚着をしたお姉さん、小さな箱に入れられたとても小さな赤ちゃんに、寝巻の男性も居る。

 彼女も、服部さん? ふくべさん? もそこに居た。僕は彼女の傍に行った。


「この大きな桃は?」

「桃じゃないよ、香炉っていうんだよ。エンバ様が中に居るの」

「エンバ様?」

「そう、重羽えんば様。コオロギのことね」


 突如、香炉の中から声がする。


「これ。確かにコオロギの姿を借りてはいるが、私はコオロギではない。彼岸と此岸との間を取り持つ、橋渡し役ぞ」

「喋った!」

「喋るぞ、童よ。もうじき盆であるからして、私の力の最たる時が近いが故に」


 りーん、りーん、と……音色に合わせてエンバ様は喋る。


「して、この度、大変多数の怨霊を救済しうる切っ掛けを我に与えし少年よ、何か褒美をと言いたいところなのだが、如何にすべきか?」


 僕がよく分からない、と彼女の方を見ると、彼女は笑いながら言った。


「諏訪部くんに御褒美をあげたいけど、何が良いですか? ってさ」

「なんでもいいの?」


 高炉から声がする。


「現世に残ることはできぬ。怨霊になってもらっては困るのだ。生き返る事もできぬ。生死が因果を逆転するには、私の力では及ばぬ」


 生き返ることも、両親の傍にずっとつくことも出来ない。なら、何を望めばいいだろうか?

 エンバ様は続けて言う。


「だが、人の思い出にほんの少し作用することや、転生の先に少しばかり介入することは、私の得意とするところ」


 忘れないように、思い出してもらうことはできる。あるいは、辛くないように忘れてもらう事もできる。

 転生の先、生まれ変わった後の話? そこに介入……よく解らないけれど、生まれ変わった時になんとかできるということだろうか?


「さあ、願え、童よ……」

「僕は……」

















「諏訪部ぇ! また授業中に寝ていたな!」

「ひゃいっ! ずびばぜん」


 俺はよだれで濡れた教科書を、制服の袖で拭いながら体を起こした。

 目の前には、授業がとんでもなく詰まらないことで有名な歴史の先生が居る。


「一昔前なら廊下に立たせているぞ! オレが若い頃はもっと勉強に勉強を重ねてだな……」


 以下、先生のどうでもいい昔話が続く。



 なんだか、変な夢を見ていた気がする。だが、夢にしてはなんだかリアルだったような?

 そういえば、なんだか夢の内容をどこかで聞いたことがある気がする。どこで聞いたんだったか、うまく思い出せないが……。



 俺が先生の自慢話に上の空で、且つ、先生が自分の自慢話に酔っている間に、スマホにメッセが届いた。

 俺はバレないようにそっと、机の下でスマホの画面を確認する。


『いびき、かいてたってね』

「マジで? お前の席、俺の席から離れてなかった?」

『うん。だけど「君の双子のお兄さんのいびきで、私が授業中にネイル塗ってるのバレそうだからなんとかして! お兄ちゃん起きて! 薬指塗れない!」ってメッセ来たんだもの』

「だからか……」

『うん。だから。ところで、大丈夫? またノート映す?』

「あー……お願いします」

『よろしい。スイーツで手を打とう』

「よっしゃ。帰りにコンビニだな」

『あ、そうだ。お兄さんの命日近いから、仏壇に上げるのもね』

「あれ謎だよな? 俺らが生まれる前に、小さいころに亡くなった人だろ、兄さん。兄さんの命日、なんか近所の服部さんちのお姉さんと一緒に祀るんだろ? 別の日に亡くなってるのにな。あれなんでなの?」

『さあ? なんか、お父さんとお母さん、あと服部さんちのご両親が同じ時間に、“二人が自分たちを励まして、コオロギの鳴き声と共に去っていく夢を見たから”、だって。そう聞いた気がして』

「ふーん……ん? なあ、俺今変な夢見たんだけど、それに関して後で聞き



「聞いておるのか、諏訪部ぇぇぇえ!!」

「ひゃいっ!」





 ともかく、俺は今、生きている。



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