少年神官と藤色の香神木

南紀朱里

少年神官と藤色の香神木


 社の奥深くには、藤色の花をつける大木があった。そしてその木を抱くように、桜の木々が広がっていた。

 春の空気を淡く染める、薄紅の花霞の中に、朧な少女の姿が見えた。


「宮司さま」


 アララギは、自分を拾い育ててくれた、師でもある老神官に尋ねた。


「あれは、なんですか?」


 だれ、と聞かなかったのは、ひとでないのがわかったから。

 だけれど、アララギがこれまで外で見てきたようなおそろしいものともまったく違う、清浄な気配のものだった。


 アララギの視線を辿った老神官が、まぶしいものを見るように目を細めた。


「香神木の精であられる」

「あれが?」


 いわれてみれば、とてもしっくりときた。

 まじまじと見つめるアララギの耳元で、老神官がささやいた。


 ――まるでだれかに聞かれるのを恐れるように、ひそやかに、かすかな声で。


「アララギや。――決して、あの方に執着してはいけないよ」


 それは、何をするにも温かく見守ってくれた老神官が、唯一アララギに禁じたことだった。


 はらはらと、風にのって、桜の花びらが視界をかすめた。




「……しゅうちゃく?」


 言葉の意味がわからず、だけれど同じように小声で聞き返したアララギの頭を、老神官は、しわだらけの手でゆっくりと撫でた。


「そうだな……あの方に、手を伸ばしてはいけない、ということだ。ここはあの方を祀るための社だから、敬い、お慕いするのは自然なこと。けれどそれは、こんなふうに遠くからそっと思うにとどめておくべきことだ。もっともっと近づきたいと、願うようになってはいけない」

「僕、そんなことにはなりません」


 たしかに綺麗な少女だけれど。


「だって僕は、一刻も早く一人前になって、宮司さまのお役に立つんですから」


 拾ってくれた恩返し。

 時間がないのは、幼心に察していた。

 決意とともに小さな拳をかためたアララギの頭に、老神官のしわだらけの手が、くしゃりと置かれた。


「そうだな、おまえは一人前になって……人の間で、幸せにおなり」



     ✳︎



 来る日も来る日も、修行に励んだ。

 老神官に寄せられる妖退治の依頼は、打ち寄せるさざ波のように止まることを知らず、老神官が言葉通り身を削ってその依頼に応えていることを知っていたから、少しでも早く、肩代わりできるようになりたかった。


 けれど、間に合わなかった。


 明日からはともに行こうといってくれた、その日の晩に、眠りについたきり。


 老神官は二度と、起きてはこなかった。



     ✳︎



「さすが宮司殿、優秀な後継を育てておられたようだ」


 里長が、おもねるような色を浮かべて、礼を口にした。そのうしろで、里人たちが、ひそひそとささやきあっていた。

 なんの心も動かなかった。

 謝礼にと渡された、わずかな食料と衣に目を落として、思った。


 僕は、こいつらのために一人前になりたかったんじゃない。


 全部、老神官を助けたいがためだった。

 恩返しがしたかった。

 だけどもう、叶わない。



     ✳︎



 妖退治の依頼を、断ることはしなかった。

 老神官が自分に後を継いでほしいと思っていたことは事実で、断ればその気持ちすら、拒絶したことになると思ったから。

 傷だらけになることも、命が危ういことも、何度もあった。

 老神官にくらべてアララギはまだまだ未熟な子どもだったし、加えて、自分を守る意味が見いだせなかったから。

 傷ついてくたびれて、ことりと気を失うように眠れば、よけいなことは考えずに済んだ。

 日に日に鬼気迫っていくアララギを、里人はさらに遠巻きにした。

 そんな、ある日の夜。




 花霞の夜気に、ふわり。香の匂いが漂った。

 床まで行きつく力もなく、濡れ縁で倒れふしていたアララギのすぐそばで、涼しい、衣擦れの音がした。


(宮司、さま?)


 反射的にそう思った。けれど、それにしてはあまりに、小さな気配だった。

 それから、小さな、アララギとさほどかわらない小さな手が、そっと、髪に触れるのを感じて、


「……っ!」


 飛び起きたアララギの目の前に、それはいた。

 老神官が亡くなってからは、まったく見ることのなくなっていた、香神木の精。

 透きとおったすみれの瞳が、じっとアララギを見つめていた。

 小さな手が、目を見開いたアララギの髪に、また触れて、そっと、梳いた。

 感情の色のない、静かに凪いだ表情だった。ただ、髪から頬へと触れる手だけが、泣きたくなるほど優しかった。

 ひくりと、喉の奥がひきつるのを感じた。

 とっさに唇を噛みしめたアララギの頭を、小さな手が引き寄せた。冷たくさらりとした衣の、薄い胸に抱かれる。香の匂いに包まれて、知らず、肩から力が抜けた。

 ころりと。頬を滴が伝っていった。


 白い月が桜に霞んだ、春の夜。

 冬のはじめに老神官が亡くなってからはじめて、アララギは、静かに泣いた。



     ✳︎



 あの夜から、香神木の精は、ひんぱんに姿を見せるようになった。

 いや、それまでも、視界の端に姿は見えていたけれど、修行に必死だったり、老神官を亡くした傷をまぎらわすのに必死だったりで、アララギが見ていなかっただけかもしれない。

 見えるようになったものは、ほかにもあった。

 梅雨時の紫陽花は滲むように美しかったし、夏の空はこんなにも青かったのかと思ったし、秋の紅葉はひどくあざやかだった。香神木の精は境内の外には出られなかったから、妖退治の帰りにそういった四季の現れを見つけては、アララギは持ち帰った。

 老神官を亡くした冬も、香神木の精と寄り添っていれば、孤独ではなかった。


 ――ふと、在りし日の、老神官の言葉がよぎった。


 ――「決して、あの方に執着してはいけないよ」。


 桜のつぼみが、ふくらみはじめていた。



     ✳︎



 成長痛に悩まされる夜が増えた。

 妖退治で傷つくことが少なくなった。

 香神木の背丈を追い抜いた。

 そのときに感じた寂寥は、なんだったのか。

 いつものように謝礼を手渡す里長が、いつもの礼以上のことを口にしたのは、そんなある日のことだった。


 ――「妻を娶られる気はありませんか」。




 足音を高く響かせて、境内に戻った。

 いつものように香神木の幹の前、姿を見せていた精が、ことりと細い首をかしげる。そんな彼女に、吐き出すように、いきさつを告げた。


「あれほど排斥しておいて、手のひら返し」


「僕を縛りたいだけだ」


 胸のうちで渦を巻く、靄が晴れない。自分でもなぜここまで動揺しているのかわからないまま、勢いよく濡れ縁に腰をおろせば、香神木の精がふわりとそばに寄った。

 香神木の精は話さない。ただ、なにを言わんとしているかは、見つめてくるそのすみれ色の目を見れば、わかるようになっていた。


(でも、里長の勧める妻を娶れば、人の間に戻れる)

「っ僕は、そんなものほしくない!」


 戻るもなにも、最初から。自分は人の間にいたことなんてないのだ。


「僕は」


 香神木の精の、白い手をとる。かつては包まれていた手。いつのまにか、すっぽり包めるようになってしまっていた。


「僕はずっと、あなたといたい……」


 同じ時間を生きさせて。


 祈るように、希うように。顔を伏せてしまったから、そのとき香神木の精が、どんな表情をしていたのかはわからない。


 風が吹いて。

 ざわざわと、夜桜が揺れた。



     ✳︎



 そしてまた、季節がめぐった。

 季節がめぐるたび成長していくアララギと違い、香神木の精は、出会ったときの少女の姿のまま、変わらなかった。


(僕の時間だけが、流れていく)


 そう思ったとたん、香神木の精と見るなら愛しかった季節の移り変わりが、恐ろしくなった。


(僕だけが成長して、僕だけが老いて、そして――)


 アララギは十五になっていた。自分の命の残量は、そのまま、香神木とともにいられる残り時間だ。そう思うと、昔はまったく気にもしていなかった寿命というものが、黒々と迫ってくるような気がした。



     ✳︎



 里の子どもが次々と結婚していった。

 アララギに引き合わされるはずだった里の娘も、別の男に嫁いだと聞いた。

 それを聞いて、安堵はしなかった。

 結局のところ、自分が拒絶したところで、なにひとつそのままではいないのだと。時間だけは否応なく流れていくのだと、知らされた気がした。


 そんなときだった。

 引き換えの着物と食べ物を持ち、香神木のもとへと急ぐアララギの前に、桜色が現れたのは。


「香神木と同じ時を生きる方法を教えてあげようか」


 桜色の髪をした、青年姿の人ならざるものは、そういって笑みを浮かべた。




 なにも答えられないでいるアララギに、桜の髪のその青年は、陽光に透ける若葉の色に似た双眸を、すうっと細めてささやいた。


「妖の力を借りるのさ」


 ――おすすめは、しないけれどね。


 ――おまえのその執着を持ったまま、香神木や私と同じ、神霊に上がることはできないよ。


 ――だけど堕ちることはできる。


 ――なあに。どちらだって、結果は同じさ。


 耳元に、吹きこむように落とされた、そのささやきは甘い毒のようで。

 頭の中が熱くなり、くらりと、めまいがした。

 その言葉を反芻するたび、どくどくと、鼓動がさわぐ。そんなアララギを、唇に笑みを湛えて眺めてから、青年はまとう上衣をひるがえし、背を向けた。


「――やるなら社の外で。社の中は香神木の神気が満ちているから、妖は近づけない」


 そんな言葉を残してふっと消え去った、青年のいた場所を、アララギはじっと見つめていた。



     ✳︎



 白い月が満ちた夜。白い満月に照らされて、紫紺の闇に満開の桜が白く映える、夜だった。


 白い玉砂利の敷きつめられた、小さな社の境内に、あまたの妖と負の想念が、黒い渦となってなだれこんだ。


 欲望を怨念を妄執を、凝り固めたようなその黒い渦は、境内をふらふらと進んでいた白い狩衣の少年に追いつき、からみつく。負の想念が少年の――アララギの魂を蝕み、無数の妖がアララギの肉に食らいつき――命まで達しようとした牙は、けれど寸前で、ぴたりとその動きを止めた。


 ふわり。花の香りが漂った。


 アララギのかすむ視界に、境内の香神木の前、姿を見せている精が映った。花びらのようなかさねの上に淡藤色の紗をまとうその姿は、いつもとなにひとつ変わりなく。負の想念にのまれても、無数の牙を突き立てられても唇を噛みしめるだけだったアララギは、そこではじめて、顔をゆがめた。


(ごめんなさい)


 もはや謝ることすら許されないと知っていた。命を拾われ育まれた、この静謐な境内に、自分は無数の妄執を呼びこんだ。いつだってりんと澄んで、まっすぐと凪いでいた境内の空気は今、あまたの執念に掻き乱されている。


(あなたに近づきたい。不相応にもそう望んだ、僕が招いたものだ)


 欲しい、欲しいと声なき声が聞こえる。みずから満ちることを知らぬ者たちの声が、静謐を抉り壊していく。


 ふ、と。香神木の精がアララギを見つめた。断罪の視線を覚悟していたアララギの予想とは裏腹に、そのすみれ色の瞳は幼子を見守るような、やわらかなものだった。


 ――大丈夫よ、と。その瞳に、いわれた気がした。


 そして次の瞬間。香神木の幹のうちに、ぼう、と淡紫の光が灯った。紫苑の花色に似たその光がまばゆく膨れあがったと思うと、神木は淡紫の炎に包まれていた。


 神木が燃える。アララギにからみついた妄執も妖も、その場に淀んだ瘴気も翳りも、すべてすべてを道連れにして。全身から、境内を浄化するかぐわしい香りを放ちながら、燃えていく。


 からみついていたものたちから解き放たれたアララギの、目の前で。






 香気に霞んだ月の夜に、アララギの慟哭が響きわたった。










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少年神官と藤色の香神木 南紀朱里 @ruribeni

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