White Flower 後編


 * * *


 いつ頃からだったのでしょうか。

 気付けば、街ではある病が流行り始めていました。

 どこから流行り始めたのか、わかりません。けれども、倒れたかと思えば、そのまま咳込み血を吐いて死ぬ病が、街を襲い始めたのです。病にかかった人間の肌はひどく黒ずむため、一目見て病にかかったと判断できました。病にかかった人々には、諦める者、治療に励む者、様々な者がいましたが、皆等しく死んでいきました。

 死人は次々に墓地へと運ばれますが、墓守の男は一人で仕事をしています。墓穴を掘るのが間に合わず、病死した人間の遺体はやがて、墓地の隅に積まれていきました。最初こそ綺麗に並べられていましたが、やがて乱雑に置かれるようになり、山となりました。

 もう、墓地の広さも足りないほどの遺体が、そこにはありました。それでも男は墓を作り続けました。そうするしかなかったのです。それに、まだ男は病にかかっていませんでした。

 男は、一つの墓穴だけは、掘ったまま誰もそこに入れませんでした。いくら死体が積まれようとも、そこだけは空けておきました。

 ……病が流行り始めて、あの女はぱったり墓地に姿を見せなくなりました。

 男は不安に思ったのです。彼女も、病に倒れてしまったのではないか、と。

 けれども幸い、日々積まれゆく死体の中に、彼女のものは見当たりませんでした。

 それでも毎日用心して、彼女がそこにいないか、調べます。もしいたのなら、この死体に埋もれて腐ってしまう前に、誰よりも早く埋葬したかったのです。唯一優しくしてくれた彼女なのですから。自分が病にかかることよりも、あの女がここに現れることを心配して、男は日々を過ごしていました。

 ――そんな風に愛する人を心配しながら日々を過ごす男のことを、彼こそがこの病の元凶ではないか、と言い始めたのは、一体、誰だったのでしょうか。

 病に疲弊し恐怖し、また家族を失う悲しみに狂った人々は、自然と形ある何かの、誰かのせいにしたいと思い始めました。そこで標的にされたのが墓守の男でした。

 それも仕方がありませんでした。病気では、肌がひどく黒ずみます。墓守の男の顔の半分は、生まれながらに黒く潰れています。その二つがよく似ているのです。それだけではありません――墓地にはあれほどに死体があるにもかかわらず、男は未だに病にかかっていないのです。街の人間、男も女も、若者も老人も、誰であろうと構わず、病気は襲いかかってきているというのに。

 もちろん、男には心当たりなんてありません。ただ愛する人を心配しながら、文字通り山積みになった仕事を毎日こなしていただけです。しかしついに街の人々に捕まり、墓地から引きずり出されました。

 そして街の様子を見て、絶望しました。

 ――そもそも彼は、墓地の外に出ることがあまりありませんでした。病が流行りはじめてからは、仕事が忙しく、一歩も墓地の外に出ることはありませんでした。

 そのため……まさか墓地の外、街では、沢山の遺体があちこちに転がっているなんて、知らなかったのです。

 死者が出たのならば、遺体は墓地に。けれども病に襲われた街には、もう遺体を運ぶ余裕のある人間すらもいなかったのです。

 男はひどく嘆きました――墓地に死体が運ばれてこなかったから安心していたものの、この様子では、きっと彼女はもう死んでいる、と。街のどこかに、彼女は冷たくなり黒ずんで横たわっているのだと。もしあの女が死んでしまったのなら、その死体はきっと墓地にやってくる、そう信じていたのに。

 男は生きる気力を失いました。

 街の人々に捕まった男は牢に閉じ込められてしまいました。しかし、もう脱出する気力も、病と自分は関係ないと訴える気力も残っていませんでした。ただ、死を待ちました。殺されるのだから、ここに閉じ込められたのだと。

 ……けれども街の人々は、男を殺しませんでした。病の元凶であろうこの男を、怒りのままに殺してしまったら、その後はどうなるのか――より恐ろしいことが起きるかもしれない。そう思ったのです。

 そのため、人々は決まった時間になれば、牢の中の男に食事を差し出しました。そうしてこの病を止めろ、治療方法を教えろと怒鳴りますが、男は何も答えない上に、食事にすら手をつけませんでした。男には、そうする気力も、なかったのです。

 ただただ、時間だけが過ぎていきました。


 * * *


 差し出されても、男は食事に手をつけませんでしたが、牢に閉じ込められ数日が経った日、その日、いつも決まった時間に運ばれてくる食事は、出されませんでした。誰も牢にやってきません。陽が沈んでも、陽が昇っても、もう一度、日が沈んでも。

 それもそのはずでした――街ではもう、男以外の全員が、病に倒れていたのです。

 けれども男だけは、かわらず病にかからないままでした。

 しかし生きる気力を失い、食事が出ようが出まいが、手をつけなかった男は、牢の中でゆっくりと衰弱していきました。もう、起き上がることもできません。

 男はぼんやりと、あの女のことを思い出していました。彼女は一体、どこにいるのでしょうか。

 願わくは、彼女をちゃんと埋葬してあげたかった。

 ……願わくは、もし自分が死んだなら、その墓にあの花を供えてほしかった。

 そう、思います。夢を見るかのように。

 ――牢の外に誰かが立っているのに、男が気付いたのは、微睡に閉じるようにしていた目を開いた時でした。

 牢の外には、あの女が立っていました。

 間違いなく、あの女でした。喪服のような黒い服は夜の闇よりも深く、黒い髪は艶やか。白い肌は汚れ一つなく、けれども黒い瞳には、涙を浮かべていました。

 男は倒れたまま笑いました。しかし、格子まで身体を引きずっていく力はありませんでした。それでも。

「生きていたんですね」

 男がそう言えば――女は牢の格子をすり抜けて、中へと入ってきました。まるで、幽霊のように。

「ああ、違うんですね」

 男は気付きました。彼女は生きている人間ではなかったのだと。しかし女は。

「いいえ、私は死者でもありません……私は、貴方の魂を取りに来た、死神なのです」

 女は倒れたままの男の隣に膝をつきました。そうして男に手を伸ばします。だから男もその手を握ろうとしますが、男の手は、女の手をすり抜けてしまいました。

 死神だという女は言います。地面に落ちた男の手に、自身の手を添えて。

「……けれども私には、それができませんでした。貴方はとても優しい人ですが、ひどく孤独な方でした……そんな貴方に、私は寄り添いたいと思ってしまったのです」

 ――女は、墓に花を供えに墓地に来ているのではありませんでした。男を見に、会いに来ていたのです。

「でも、貴方の魂を取るのが私の使命。そのための死の力を、私は宿しています……いつまでも経っても使われなかった私の力は、暴走してしまいました――それが、この街を襲った病です。貴方を助けたいという思いが、全てを滅ぼしてしまいました」

「だから、私は病にかかることがなかったのですね?」

 男はそう微笑みますが、死神の女は、より悲しそうな表情を浮かべました。

「……そのせいで貴方はここに閉じ込められることになってしまいました。貴方をここから出したいのですが、私は、魂と花しか持つことができない存在です。鍵を持ってこられない、貴方をここから出すことができないのです……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……こんな苦しい思いをさせたくなかった……その上、貴方はもう死にかけています……魂は崩れ始め、私はもう、貴方の魂にすら触れることも叶いません……ごめんなさい……」

 そう言って、女はぽろぽろ涙を流し始めました。両手で顔を覆って、肩を震わせます。たった一人、死にかけの人間がいる牢屋に、その声は静かに響きました。

 しかし男は、微笑んだままでした。

 最期にこの人に会えた。それだけで満足だったのです。

「どうか、私を看取ってください。それだけで私は幸せです」

 男が願えば、女は頷きました。まだ涙は止まらないものの、それでも彼女は、触れることも叶わない男の傍に座り込み、寄り添いました。

 ――少しして、生まれながらに顔の半分が黒く潰れた男は、息を引き取りました。その胸の上下が、止まりました。魂は完全に崩れ去りました。

 それでも男は、幸せそうな微笑みを浮かべていました。

 その顔を見て、死神の女も、つられたように微笑みました。手を男の胸に伸ばせば、手の平から白い花が生まれます。

 女は、その花を男の胸の上に置いて。

 ――直後に、死神としての務めを果たせなかった女は、何枚もの白い花弁となって散りました。

 男の遺体は、まるで白い花畑に眠るようにして、牢の中に横たわっていました。


 * * *


 恐ろしい病が蔓延り、全てが死に絶えた街は、長い年月をかけて、やがて広大な白い花畑となりました。

 いつしかそこは、生きている間に一度は見るべき美しい場所として、世界に知られるようになりました。

 けれどもそこに、悲恋があったことが誰も知りません。


【終】

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White Flower ひゐ(宵々屋) @yoiyoiya

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