第2話 変わらない場所
ぱらぱらと絵本を開きながら、詩はどこか気恥ずかしそうにしていた。
「まあでも……これ、買って行こうかな。なんか、ここに初めて来た時のこと思い出しちゃったし。……それとね、今日は思いっきりくだらないコメディーが読みたいんですけど」
「笑いたいの?」
「そう、笑いたいの」
笑いたいというのは、笑えないから笑いたいのだろう。何か、詩の心を曇らせているものがそこにあるに違いない。それはきっと、この天気のせいだけではなくて。
何かあったのか。雨音も晴斗も、そう訊こうとして止めた。それよりも、詩がただ笑えればいい。
だからといって、何故晴斗がこんなことを言い出したのか、雨音にはさっぱりわからなかったけれど。
「じゃあ、俺たちの漫才を見ていく?」
「……え」
思わず動揺のつぶやきを漏らしたのは、詩だけではない。雨音もまた、脳の理解が追いつくまでにややしばらく時間がかかった。詩を笑わせるための、ただの冗談だと。
でも、結果ただ茫然とさせただけで、笑わせることは出来ていないのだが。
失敗した空気を本人も感じ取ったのか、少しひきつった笑顔で、晴斗はごまかそうとする。
「あ、つまらなさそう、とか思っただろう」
「はい」詩はすっぱりと切り捨てるようにそう答えたけれども、少し間を開けてから、気まずそうに付け足した。「でも、ありがとうございます」
そして、レジカウンターの脇に置いてあった椅子に腰を掛け、ヒーローの絵本を読み始めた詩は、途端に大きな欠伸を一つした。
退屈。なんとなく雨によってじっとりした鬱陶しいこの空気も、気力を奪っていく。しかし、雨音は思うのだ。退屈はきっと、本当は敵ではないのではないのかと。
「本当はさ、ヒーローなんか必要のない世界が一番いいんだよね」
本から少し顔を上げて、詩は雨音のそんなつぶやきに答えた。
「そうですね。ヒーローがいるっていうことは、誰かに救ってもらわなきゃいけない、絶望的な世界ってことだからね」
「架空の世界でそうやってヒーローを生み出すのは、みんなどこかで絶望しているからなのかな」
「雨音さんは、子供の頃ってヒーローになりたいとか思ってましたか?」
じっと、まっすぐに見てくる詩の目に、雨音は少し戸惑った。だから、言葉を濁してしまう。
「そうだね。そんなこともあったかも。……でも、平和な世界って退屈で、飽きられちゃうんだよね。だから必死だよ。退屈されないように」
退屈とは、こうやって人を蝕んで弱気にしていく病気のようなものかもしれない。本当は、飼い慣らさなければいけないはずなのに。一冊の本はその特効薬だとすれば、それよりももっと効くのは、詩の一言だった。
「大丈夫。ここにいれば絶対退屈なんてしようもありませんから」
「本当に?」
「本当です」
これでは、どちらが慰められて、相手を必要としているのかわからない。詩を笑わせたいと思っていたのは雨音の方なはずなのに。
「さっき、晴斗がだいぶ滑っていたけど、それでも?」
入荷した本の整理をしていた晴斗の耳は、それでもしっかりと雨音の言葉を捉えていて、すかさず口を挟んできた。
「失礼なこと言うな、雨音。……そういえばさぁ……あれは詩ちゃんが中学生の時だったっけ」
「何?」
何か嫌な予感はしたのだ。この含み笑いに。案の定、爆弾が投下される。
「ハッピーエンドの恋愛小説が読みたいんだって言ったの。それで、雨音が選んだ本が、見事に滑って、この店に大泣きしながら来たことあったじゃん」
「ああ……そんなこともあったかも。あれは雨音さんが悪かったんじゃなくて、現実と物語のギャップに失望しただけっていうか……って、やめてくださいよ、人の黒歴史を掘り返すのは」
詩が真っ赤になって頭を抱えていると、晴斗が不思議そうに言った。
「初恋って黒歴史なの?」
「別に黒歴史だと思ってなくても、そうやって弄られると黒歴史になっちゃうんです」
「そうだよねぇ、綺麗な思い出にしておきたいよねぇ」
ネタを投下した晴斗本人がぼやくようにそう言うものだから、思わず手にしていた本で詩は一発殴ってしまった。これが昨日買って行った撲殺の凶器にもなり得る分厚さの本ではなかったのは、せめてもの優しさである。
七歳の詩ならば、目を輝かせたであろう、ヒーローの本。今は退屈そうに欠伸をしてしまう本。彼女は、本当はヒーローなどいないことを、もう知ってしまったから。
時間を積み重ねていって。
「そうだね。ふらっと来た人には、この店は他の店と同じ、ただの古本屋かもしれないけど、詩ちゃんにとっては、君の人生の物語も詰まっている場所だよね。嬉しいことも、悲しいことも、今こうして怒っていることも……だから……」
雨音は、そんなにおかしなことを言っただろうか。
ふと目が合った瞬間、詩は軽く微笑んだが、どこか若干の戸惑いと曇りがあったように見えた。そして、彼女は椅子から立ち上がる。
「あ……今日は用事があるからもう行かなきゃ」
「うん……あ、そうだ、コメディーの本だよね。じゃあ、シェイクスピアの喜劇なんかどう?あとは、チェーホフの短編集とか」
笑える、とは、もしかしたら、単純に何も考えずに笑えるものであって、そういうことでもないのかもしれない、と、若干の懸念もあったが、雨音がそう言うと同時に、晴斗が棚からすぐに本を持ってきた。
詩は、二冊の本を目の前にして、しばらく沈黙していたが、何かを思案しているというよりは、ただぼんやりしているだけのようにも見えた。
やがて、その手は両方の本に伸びていく。
「じゃあ、どっちも買ってく」
「……そう」
一つのこれぞという冒険を選んで、そのページを開くのが好きだといっていたのは、ほんの二十分前のことじゃなかったか。二冊同時に買って行くのは、まるで彼女がその分ここに来ないことを意味しているようで、会計をしている間も、ざわざわと血が変に騒いでいた。本当に、わずかに感じる信号のようなものではあったが。
「じゃあね」
また来るね、とは言わない。今までだってそんなことを言ったことがあったかわからないけれど、わからないのは、気にしたことはなかったからだ。
何故、今そんなことがそんなに気になるのかはわからないが。
詩が店の扉を開けた瞬間に、晴斗はほとんど反射的に彼女の腕を掴んでいた。
「……何ですか?」
「あ……雨だし……」
「そうですね」
言いたいことはちゃんとわかっているはずだが、何かが自分の中でそれを押し留めてしまう。そして、何を言ったらいいのかわからなくなってしまったくせに引き留めた手も離すことが出来ず、晴斗は金魚のようにただ口をぱくぱくと動かすばかりだった。
「えっと……だから…………気を付けて」
「……はい」
意図が分からず呆気にとられている詩に、くすくすと笑いながら雨音が注釈をつけた。
「要約すると、また来てね、ってこと」
「……え?」
今の晴斗の言葉を、どう嚙み砕けばそうなるのか、詩にはさっぱりわからないだろう。雨音だって、彼の言葉からそれがわかったわけではない。ただ、晴斗が思っていたことが、自分と同じであろうと、なんとなくそう感じただけだ。
ずっと変わらないものなどない。物語にも最後のページというものがある。途中で途切れて時間が飛んでいる場面もある。親友や、身内でさえも疎遠になることはあるのに、ましてや、詩にとってなんと名付けていい関係なのかわからないこの店など、いつ遠のいていったっておかしくはないだろう。
そういうものだとしても。
「なるべく俺たちも長生きして、ずっとこの店を続けていくつもりではいるからさ。おばあさんになっても来てよね」
「……うん」
そう返事をしたけれども、詩はやはり言わなかった。また来るね、という言葉を。
予感というものは、あながち外れてもいないもので、それから徐々に詩が店を訪れるのに時間が空くようになった。やって来ても、慌ただしく数冊の本を選んで帰って行ってしまうので、ろくに会話もしていない。
むしろ、彼女の父親の方が頻繁に店に来ているくらいだったが、彼からも娘の話をそう聞くこともない。
雨音は、一度尋ねてみようとした。もう四か月ほど詩は店に姿を見せていなかったから、詩ちゃんは元気ですか、とか、最近はどんな本を読んでいますか、とか、そんなことを。
しかし、それは来店を強制しているようにも聞こえてしまうかもしれない。店の人間として、それはいけないだろう。そんなことを、あれこれ考えてしまう。
毎日ではなくても、来たくなった時に、ふらっと来てくれればいい。それでいいはずなのだ。
いつか、いつでも、思い出して、来てくれれば。
そして、また、梅雨入り間近のある雨の日。もう閉店間際の時間だった。不意に開いた店の扉。
二人はまた、図らずも声を合わせてしまう。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは。……なんか揃ったその声、ホッとする」
傘をたたんで店のドアを閉めながら、やって来た女性はそう言った。
「…………あ、詩ちゃん」
今日は一体、何月何日だったか。そんなことを忘れてしまいそうになった。まるで時間が規則性を失って、巻き戻ったり、不必要に先に進んだりしているようだった。
それは、お互いにとってそうだっただろう。詩も、少し照れくさそうにしていた。
「お久しぶりです」
「……うん、久しぶり。待ってたよ」
雨音のその言葉に、ふっと、詩の表情が緩んだ。
「けっこう時間ぎりぎりだったから、もうお店閉まっちゃっているかと思ったけど、間に合ってよかった」
「今日はどんな本がいい?」
「そうだなぁ……SFかな。なんか、思いっきり現実離れしたやつ」
「もしかして、お疲れ?」
ため息をつきながら、深く頷いた彼女を見て、晴斗は思わず苦笑してしまった。
「まあね、いろいろありますよ。……実は学校を卒業したと同時に引っ越して、ちょっとこの店から遠くなったし、忙しくてなかなか来られなくなっちゃって。……お父さんは、相変わらずよく来ているんですか?」
「うん、まあ、週に一度くらいは」
「そうかぁ。……ずるいなぁ」
それは、つい漏れてしまった本音なのだろうか。だったら、来ればいいのに。そう思うけれど、出来ないから来ないので、そんな本音が漏れるのもわかる。
だから、雨音も晴斗も、あえて口にはしなかった。
詩は、初めてこの店に来たあの日のように、鼻をひくひくさせて、何かの匂いを嗅いでいた。
「やっぱり、この古本の匂いは落ち着きますね。ここにいるのが、好き」
「そりゃあね、小さなころから染みついているものだから。……一冊でいいの?」
専属のブック・コンシェルジュであるところの雨音が、さっそく本の選定にかかろうとしたら、詩は考え込むように唸りだした。
「うーん……次いつ来られるかわからないからなぁ。お勧めがあればいくらでも」
「よし、その挑戦、受け取った」
そう宣言すると、雨音は迷うことなく棚の間で手を動かし、詩に渡した本は二十三冊。その本の重みを感じた瞬間、詩は顔を微妙に歪めた。
「なかなか本気ですね」
「そりゃあ、いつだって本気で選んでますよ」
自信満々に言う雨音を、晴斗はゲラゲラと笑いながら見ていた。それにつられたように、詩もついつい笑ってしまう。
まるで、時計が巻き戻されたようだった。
積まれた本の中に一冊だけ絵本が混じっていることに詩は気が付いた。背表紙を見ると、それはいつだったか買って行ったヒーローの絵本と同じシリーズのものだ。
「……知ってますけど」
じわりと込み上げてきそうになる涙を、なんとか堪えていた。まだあの頃の子供のままのようだと言われたくはないのだ。
それでも、あの頃の少女は、この店にいる。
「本当は、吟味した一冊だけ渡したいけどね。それが読み終わったらまた来てくれるように。でも……来れられる時に、来たい時に来ればいいよ。前も言っただろう。出来るだけ長生きしてこの店を開けておくからって」
「私も言いましたよね。ここには私の物語があるから、来ますよ。おばあさんになっても」
「うん」
次に来るのがいつであっても、いつでも、真剣に彼女が夢中になるような本を選ぶ。そして、くだらない話をして、何でもない特別な時間が、いつでもそこにはあるように。
いつまでも続く、長い長い物語になるように。
きみの本(雨音と晴斗①) 胡桃ゆず @yuzu_kurumi
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