きみの本(雨音と晴斗①)

胡桃ゆず

第1話 お気に入りの場所

 大きな通りを一本中に入ったところにある、少し見つけにくい小さな古書店。赤い木製の扉が、その先にある違う世界への入り口のようだった。

 実際、本というものは別の世界への入り口なのだろうから、そんな扉にしたのは間違いではなかっただろう。しかも、何十年、中には何百年も前の、長い時間を超えてきた本がここにはある。本を開けばそこに詰まっている物語だけではなく、本そのものにも時間を超えてきた物語があるのだ。

 彼女が初めてこの店にやって来たのは、七歳の時だったか。今日のような休日の雨の日に、父親に連れられて、子供用の小さな傘をたたみながら、店の扉を開けて入ってきた。

 彼女の父親は、結婚をする前、学生だった頃からこの書店の常連客だった。本の虫というほどでもないようだが、ちょっと日常で行き詰った時の逃げ場所なのだと言っていた。

 今日もまた、傘をたたみながら扉を開けて入ってくる彼女は、二十二歳になっていた。もう大人だ。

「いらっしゃいませ」

 二つの声が重なって来店者を迎えた。

 この店には、雨音あまね晴斗はるとという二人の店員がいる。もともとは雨音の祖父がやっていた店で、三年ほど前に引退をして、孫に店を譲ったのだ。もう七十を過ぎているので、残りの人生を好きに生きたいと。雨音に言わせれば、祖父はだいたい人生を好きに生きてきたように見えたけれども、どんな生き方をしていたって、それなりに縛られて不自由に感じることというのはあるのだろう。

「こんにちは」

 彼女は二人に軽く挨拶をするが、それでももう目は棚に並んだ本の間をあちこち動き回っている。

 高校生の頃は、学校帰りの夕方に来ていたけれども、授業時間が毎日同じではない大学生になってからは、来る時間はまちまちだ。

「昨日買っていった本、もう読み終わったんだ。けっこうな分厚さだったけど」

 ミステリのベストセラーの本ではあるのだが、辞書よりも厚みがあり、それで人を殴り殺せそうだということでも有名な本だ。それにも関わらず、彼女はけろりと答える。

「はい、あれは面白かった。たまに好みじゃないのを引いちゃうと、ちょっと時間かかるんだけどね。読書って紙一重で、夢中になればあっという間に読めちゃうけど、どうも合わないなっていうやつは、睡眠薬」

「睡眠薬になるような本を選んでしまった場合は、コンシェルジュの手落ちだ」

 にやりと笑いながら、晴斗は雨音に目配せをした。

「俺は別にブック・コンシェルジュじゃない」

 顔をしかめて訴える雨音を、まあまあ、と宥めるように苦笑して彼女は言った。

「でもね、雨音さんにお勧めしてもらったやつは、大概私の好みに合うんです。だから、私専門のコンシェルジュだよ」

「まあ、毎日のように来ていれば、なんとなく好みの傾向はわかるからね」

 雨音の言葉に、ふふふっ、と、くすぐったそうに彼女は笑った。そして、本を探して店内の棚を一通りぐるっと見て回る。これぞというのがすでに自分の中で決まっている時もあれば、その日の気分で迷うこともある。

 でも、彼女の本選びに決まっていることはある。

「いつも一冊ずつしか買っていかないんだね」

 面倒だろうに、と思って、つい雨音は余計な口出しをしてしまった。すると、彼女は振り返る。

「だって、いっぺんに無造作に選んでも、これだっていうものは掴めない気がして。楽しみなんです。これだっていう冒険を一つだけ選んで、その中に飛び込むのが。こういう雨の日は特にね、なんとなく気分が塞ぐから、頭の中だけでもどこかへ行きたくなるし。だから、とっておきじゃなきゃダメなの」

「あ、そうだ。昨日ね、仕入れた本で、好きそうなのあるよ」

 そう晴斗に言われて、彼女はパッと目を輝かせた。

「ほんと?」

「うん」

 晴斗が彼女に手渡した本は、子供向けの特撮ヒーローの絵本だった。ガラスケースに並べるような希少価値のある古書も扱ってはいるが、こういう百円で売られる珍しくもない、誰かが読まなくなっただけの古本も、この店にはある。きっと、この本の持ち主だった人は、もう大人になってしまったから、この本を開くことはないと、手放したのだろう。

 そう思ったら、雨音の記憶の深いところの何かが、ちくりと痛んだ気がした。そこにさらに棘を指すように、ふくれっ面で彼女は言う。

「ちょっと……私はもう子供じゃないんですけど」

「でも、こういうのを喜んでいた頃もあったよね」

 雨音がぽつりと聞き取りにくいくらいの大きさの声でそう漏らすと、それを確実に逃さず聞いていた晴斗が、深く頷いた。

「あったねぇ」

 もう十五年も前の話であるが。


 当時はまだ雨音の祖父もこの店に立っていた。まだ学生だった雨音は、親友の晴斗と時々アルバイトで店番をする程度だったのだが、彼女の父親とはその度に会っていたので、顔見知りではあった。

 娘のために絵本を選んでほしい、と、よく言っていた。

 あの雨の日、彼は、その娘を連れてこの店にやって来たのだ。繋いでいた父の手を離し、てくてくと店の中を散策していた。まるで、初めてやって来た家の中を確認して回る子犬のように。

「ああ……この子が娘さんですか。……えっと……うたちゃん、でしたっけ」

「そう」彼女の父親は、セールでワゴンに積まれた本を興味深そうに眺めていた娘の方を振り返った。「詩……幼稚園の時に読んであげていた絵本、この店で選んでもらっていたんだよ」

 詩は、じっとしばらく雨音のことを見ていたと思ったら、急にぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 割としっかりした子で、若干どう返事をしていいかわからず戸惑ったけれども、雨音はとりあえず無理やり笑顔を作ってそう返事をしておいた。

 しかし、詩は雨音の返事などあまり気にかける様子もなく、今度は何かの匂いを嗅ぐように、すんすんと鼻をしきりに動かしている。

「なんか、面白い匂い。本屋だけど、駅前の本屋とは匂いが違う」

 少女の思わぬ一言に、雨音と詩の父親は、お互いに顔を合わせてしまった。そして、頷き合うのだ。

「確かに、新品の本の独特の匂いもあるけど、古本独特の匂いっていうのもあるよね」

「ええ、ありますね」

「僕はそれが好きでここに来ているのもあるのかもなぁ」

 娘もそれを感じてくれているのかもしれないのが、父は嬉しかったのかもしれない。口元が緩むのを、明らかに隠しきれていなかった。

 世界は、決してすべてが平和ではなくても、少なくとも、今この空間はとてつもなく平和で幸せな空間であろう。

 雨音は、そんなことをぼんやりと思ったものだ。

「でも、珍しいですね。娘さんを連れてくるのは」

 詩の父親は、少し困ったように苦笑した。

「今日はね、世間は連休中とはいえど、僕は忙しくてなかなかどこにも連れて行ってあげられないものだから、ぐずりだしちゃってね。チャンスは今日だけだったけど、ほら、天気もこの通りだし」

「なるほど、だから、ここで冒険する場所を探しに来たってわけですね」

「そういうこと」

 物語はどんなことも叶えてくれる。読書は冒険だ。

 とはいえど、本はあくまで文字の連なりでしかなく、実際の経験には遠く及ばないかもしれない。

 だから、読書で冒険などというのは詐欺のようなものかもしれないが、それでも、この父親が精いっぱい頭をひねって、娘に与えられるものを考えた結果だ。

「本で冒険?」

 ちょっと不満そうに詩は顔を歪めた。

 父親は彼女の前にしゃがみこんで、目線の高さを同じにすると、しっかり目と目を合わせて言った。

「詩、本はね、そのページを開けばどこにだって行けるし、何だって出来るんだよ。詩は、どんなところへ行って、どんなことをしたい?どんなお話が読みたい?」

 しばし考えるように黙り込んでいたが、頭の中に浮かんできたものは、きっと彼女の最近のお気に入りだったに違いない。

「カッコいいヒーローが出て来るやつ。それで、怪獣を倒すの」

「俺、怪獣やる?」

 晴斗が尋ねると、満面の笑みで詩は笑った。

「うん」

 そして、いつの間にか、読書による怪獣退治ではなくて、ヒーローごっこに転じてしまっていたのだ。


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