VSカスミさん
・後日談 あるいは本編の終幕
わたしは、できることならこの
朝いつもどおりに目を覚ましたわたしは、起き上がることも気だるいと感じるようになっていた。これが俗言う
叔父さんが
部屋のカーテンは開けっぱなしだった。おまけに昨日の夜の皿も卓に出たまま。よく手を使う客人がいたので卓の上を特に衛生的にするよう習慣づけていたわたしは、そのときなんの違和感ももたないで台所の
わたしはふっと食卓を拭いたあとの布巾を見つめた。
「よごれ全然ついてないじゃん、拭き損……」
それはあたかも誰かが秘密裏に掃除しにきてくれているんじゃないかって疑心暗鬼になるほどだった。まったく自分の几帳面さにほれぼれする。それはさておき朝食には食パンを焼いて、冷蔵庫からくだものゼリーを出して食べた。
午前中のあいだ、洗濯とかごみ出しとか、何かとすることがあるから退屈はしなかった。ごみ出しは毎日じゃないけど、ごみは毎日出るから
「ずいぶんと、わたしも主婦らしくなったものね」
じゃあ旦那は誰? 意識から、自問自答の谷に落とされる。わたしに旦那なんていないし。支える人も、支えてほしがる人もいない。母親の垂らす甘いミルクを吸って、からだじゃなく自尊心だけが肥えて大きくなったただの子どもの一人だ。そんなことわかっている。だから、わたしは本当の愛を知らないのだ。
『……もしもし?』
「なんだよ、父さん」
午後2時ぐらいに、父さんのケータイから電話がかかってきた。
『母さんの調子があんまりよくなくて、もう会えないかもしれないって……』
「そっか。だから
『あのさ、別に母さんと話さなくてもいいんだ。ただ顔を見せてやってほしい。カスミに会いたがってる。それに、こっちに来たら、久しぶりに会えるよ? 会いたくないの?』
「……
父さんの人柄は温厚そのものだったけど、いつも病院に呼びつけるときは一方的で、電話も向こうからかってに切られる。わたしは初めてあの人につめたく当たってしまった。あの子の治療費も手術代も背負ってくれたのは父さんなのに。こんな不義理なんてない。わたしは、わたし自身で幼稚な人間を
そうに違いない。あのときユキちゃんを止められなかった、わたしは、あの子の感情を模倣したり後追いしたりしてはいけないんだ。
だからもう、会いに行くことなんて絶対しちゃいけない。できない……。
◆
雪の象徴するものはなんだろう。いずれ溶けるから
『今夜6時からお送りします、年末大特番の――』
「そうか、今日は
年をまたぐ意識さえ希薄だったわたしだ、最近部屋の掃除が行きわたっていないことにも同様に無関心だった。広告ビラ、新聞、小雑誌、コンビニのレジ袋、なんでもフローリングの板の上に転がっていた。ほうきで掃けば一瞬という出来であるけども、まったくそういう気分になれなかったのだ。
すると、いきなり外から玄関扉のひらかれる音がした。住宅地だし、泥棒ではなかろう。もしものときは知らない。無用心なネグリジェ姿で確認しに行くと、裏に住む
「あ、どうも……」
「久しぶり。単刀直入に聞くけどあの人どこ行ったの?」
「ああ、お隣さんですか。たぶん母の世話にもどったんだと……」
「そう。いろいろ込み入ってるみたいね。実はそこの家を買いたいって人が訪ねてきてね。片づけしたらすぐにも入居したいって言うもんだから」
「はあ」
「一応あそこってあなたの家でしょ?
本当にそれだけの用だったのか、はたまたわたしと目を合わせたくなかったのか、長生さんはすたこらさっさとアプローチを出て行った。寝間着のままわたしはしばらくその場を動けなかった。お隣さんのいた場所に、別の知らない人が立ち入る――それだけで寒けがした。
「でも、片づけないといけないのはほんとだしな……」
正直をいうと、わたしがお隣さんの引っ越しを知ったのは、夏の帰省中のことだ。ユキちゃんが見たときすでにもぬけの殻だったらしい。二人がそんなに親しい仲だなんて聞いていなかったし、お隣さんが家を空けた理由も最後まで教えてもらえなかった。父さんとの電話がその証拠。わたしがいらだっているのも、不当な理由だけじゃないんだと理解してもらいたい。
さて、隣の家をみてみると、感じのいい家具や食器はそのままで、冷蔵庫の中味や
「そういえば、あの人、まだ日記書いてるのかな。『日記は
彼に文章の書き方を教わったのは、もう10数年も昔のことだ。家政夫としてうちに来ていた際、彼はわたしの勉強のめんどうをみてくれた。と同時に、わたしの母親に対する怒りを真摯に聴いてくれた。ユキちゃんとの生活を送るうえで、あの人がすぐ近くにいてくれたことが大きな心の支えになっていた。
……そんな彼の愛する「手帖」の一冊、とくに最新らしいものが書斎の机の引き出しに入っていた。紐とボタンで留めるおしゃれなやつ。だけれど、「手帖」は開いていた。彼が恐らく意図して置いていっただろうその内容に、わたしはおどろいて
「今、あなたを立たせてくれている足は、誰のものですか……あなたを歩かせてくれるその足は誰のものですか……」
わたしの音読といえば、異常な震えでとても
その言葉を彼が残したのは、(もう去年になってしまっただろうか)8月の、ほんとうに頭のころだった。日付を見ておそろしくなった。わたしは、こんなにも前からユキちゃんの、支え無しには立っていられなくなっていたのか。ユキちゃんの保護者として、周りに振る舞えていなかったというのか。
(明日の自分のためなんて、うそっぱちだろ――)
わたしはそう言い聞かせたかったんだとおもう。
でも、ユキちゃんがわたしにうれしそうに「ようやく一人で立てる」と報告してきた日の記憶が、わたしの唯一慰めだった自虐性をあばきだした。「一人で立てなくたっていい」と自己完結した、わたしのユキちゃんへの甘えを、彼の残した言葉たちは絶対ゆるさなかった。家出したわが子の手をひしと
「今、もしも、そのどちらをも自分のものであるときっぱり言えるあなたであるのなら、そう言いきることのできない誰かのために、どうか自分の足を貸してあげてください。……来るなら、気をつけて」
わたしの心はまだそれでも、親心だとか愛だとかそういうものを理解しようとしなかった。受け入れたくもない。だって大人は世間体を口実に、臭いものにふたをした。ユキちゃんを愛さなかった。でも、ユキちゃんはそんな大人になりたくて、わたしの元から離れて行った。どういうこと? ユキちゃんは
だれか、教えてください。わたしが子どもだからわからないのですか。それとも大人になってもわからないことなのですか。教えてください、だれか。
自立できなかった人間は、ずっと子どものままなんですか。わたしは40歳になっても、50歳になっても、母親がいつか
時間の流れが止まったように錯覚した。自分が世界の中心人物だと思い込んでしまった。だから、この問いにほかのだれかが答えてくれるものだと、ユキちゃんが隣にいっしょに立って相談してくれるんだと、ずっと期待していた
何がエッセイだ。こんなに悩んでばかりで、自分の考えを流布させようとする気のないものが、随筆でたまるか。こんなもの、私小説の出来損ないだ。わたしのしてきたこと、わたしは……そうか。この家を出ない限り、ずっと答えをみちびけないのか。
もうユキちゃんはもどってこない。お隣も別の人がはいってくる。だれもわたしが子どもなのか、大人なのか、どうしたら何がどうなるのか、一つも教えてくれない。
「……出るしか、ないのかな」
「その足はとどまるためのものじゃなくて、自分であちこち見て回るためのものでしょ?」
「…………」わたしはお隣さんの「手帖」を持ち出した。そのまま家に帰らなかった。
向かったのは駅だ。
「
わたしの足は、どこをめざすのだろう。仕事もない。家もない。家族の支えもない。ただ降り積もった雪のうえに、両方の
でも、ユキちゃんはそうじゃなかった。車椅子の二本の線を、わたしの前か横にならべることしかできない。そのはず、だけど彼女は自立していった。
わたしも、彼女みたいな足が欲しい。
果たしてどうやって、日常というものの締めくくりをすればいいのかわからないけど、わたしたちはこうして大人になっていく。不器用なりに。
10(テン) 屋鳥 吾更 @yatorigokou10
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