ユキちゃんVS義貴

 玄関をあけたカスミさんから最初に上がったものは、悲鳴でした。いや、と何かを拒むような悲鳴でもあり、同時におどろきを隠せないといったような悲鳴でもありました。居間リビングでからだをへにょんと伸ばしくつろいでいた女の子よりすればそれは相当めずらしいものでしたから、姫装束ドレスの末端の汚れることを気にする余裕もなく出掛けたのです。

「よう、脚本えんしゅつのねえちゃん。相変わらずおとぎの国から這い出てきたようななりだな、おい?」

 来訪者の第一声がそれでした。魅惑的な低音が、しわがれてしまった感じの声です。来訪者は自身を、白に近い金色に染めぬいたような立髪たてがみに、防瞳具サングラス遊着ジージャンという様相に仕立ててきたために周りから、到底このしずかな住宅地にふさわしくない人物のように映っていました。おかげさまでカスミさんはこのとおり、「ユキちゃんっ! あんた闇金にでも手出ししたわけじゃないよね?」とひそひそ話す疑心暗鬼のとりこです。もしそうであれば目の前の男性のねらいはまったく完璧だったというのですけれど、事実はそういうわけではありません。男性は続けて忌憚きたんのない言葉を発しました。

「俺は義肢ぎし提供ていきょう活動家ボランティアー義貴よしたかだ。おたく、『足のある生活』に興味はないか?」


         ◆


 このあと動きやすいようにと義貴さんは縁側への案内を希望しました。見ると、背中に大荷物をかかえていたのです、それが代物しろものでしょうから、女の子にはすぐにも合点がいきました。

「しかし、義肢提供だなんて、まゆつばっぽいよな。ああいうの普通は病院の再適訓練リハビリとかでもらうんじゃないか。……本当に入れてもいいのユキちゃん?」

「おにい」

 女の子はそのとき一切のうたがいをけ倒しました。

 なぜなら義貴さんの白金髪とあおざめた肌に降りかかる陽の光がいつになくやわらかなものだったからです。

「本来なら俺の作業場さぎょうばでじゃないと貸し出さねえし試着もさせねえんだが、ねえちゃんは運がいい。あの演劇は最高だった。清潔で精神プラトン的、俺はああいう飾りけのない劇が好きなんだ」

「へえ、演劇とか観るんですね。見た目そういうふんいきの人じゃないと思いますけど」

「よく言われるよ。だがいつもは内容なんて気にしない、人間の動きを見るのが好きなだけだ」

 もはや恐怖とか悩ましさが振り切ったように、カスミさんの言葉にはあからさまな嫌悪がありました。

「そもそも、義貴さんなんの仕事してんですか? 全然素性がみえてこないんですけど……」

「元は木材加工。その延長で木偶でく作りを始めて、いまじゃ陶器製とかいろんなもん作ってこづかい稼ぎにしてる。ただ2年前くらいだったか、廃品の義指なかゆびをゆずってもらってからは、機能訓練の斡旋あっせんが半分本業化してる。義肢ってやつは奥が深くて、おもしろいんだよ」

「自分で作ったりは?」

「できねえなー。需要も少ねえから。なにより全部がぜんぶ専売特許オーダーメードときてる、集めて売ったって一文の金にもならねえよ。無料収集コレクションが関の山だ」

 しゃべるのが好きなのか義貴さんは、やや身上調査的なカスミさんの態度に対しても親切に振る舞ってくれます。それがもっと女の子の興味をひいたことは知らないでしょう。元師たる義貴さんはけわしい顔をして一瞬したのち、またにこやかにほほえんで言います。「ものづくりのきもは素材を尊重するってことだ。好きに選んでみな」そして素材とは女の子の脚を指しているらしく、縁側の擬板敷ににせものの脚を何本もひろげました。

 女の子はまず先に、本物そっくりの肌色のものを取りました。受口ソケットのももは筋肉質な質感でふくらはぎも張っており、腰物スカートのすそを引きずる歩行で鍛えられた女の子の両腕とみごとに合いそうだったからです。はめてみると、ふっと気づきます。

「おに、お?」

「そうだろ、地面に対して装着部が曲がってるんだ。専門知識をひけらかすような趣味はねえから説明はしないが、そのほうが立ったとき安定するし、歩くのにてきしてる」

 義貴さんに代わってあとで調べたのですけれど、大腿切断した人は股関節筋群のはたらきでおなかがわに脚が折れやすく、仮に受口が垂直だとこの屈曲作用のために姿勢が悪くなったり、拘縮が起きたりする恐れがあるそうです。だからほんとうに擬足ではなく義足なんだと実感します。姫腰物ドレスからのぞいた皮ふに自分の感覚がなくとも、このように血のかよった脚同様の精密なつくりをしているのですから。

「立ってみたら?」

 少し関心が湧いたようすのカスミさんにうながされて、女の子は両義足を伸ばしたまま、手をついて腰を持ち上げてみました。するとさながら宙に浮かされているような気分になりました。義足の膝は曲がることには曲がるのですけど、姿勢を安定させるためにととにかく硬くて、まだ足の裏で踏んばるやり方を知らなかった女の子は現実逃避的に白色巨人ロボットが立ち上がるあの感じを思い出していました。

「ほら、あぶねえから、ねえちゃん支えてやりな」

 うしろで声がしたとき、女の子のからだは空中で潜棒リンボーダンスをしているかと錯覚するほど不安定極まりなかったのです。すぐに、人口板の上で手をすべらし、女の子は頭を叩きつけそうになりました。それをあぶなく、カスミさんのやわらかい胸が受け止めてくれました。

「おにい……」

「いいよいいよ、少しずつ行こうぜ」

 そうしてカスミさんに手を引かれる形で立ってみると、上半身が揺らがなくなったせいでしょうか、足元にもよくよく力が入るようになりました。最初宙空へ投げ出されたようだった浮遊感が、吸盤きゅうばんを張って地面にしがみつこうとするたこにでもなったような未経験の感覚に切り替わったのです。じゃあ空へ投げられる感じが未経験の感覚ではないのかといえば、未経験ですけれど、想像もしえないという意味合いで蛸のようだと考えたわけです。

「しかし、はつ義足ってのでこれだけきれいに立てるなら、伸びしろあるなあねえちゃん。なら歩くのはどうだ? やったことねえかもしれねえが、脚のもんを竹馬だと思えばいい。元からあるもんじゃなくてつけしたもんだってな」

 と、言われても、女の子は重心移動の仕方だって知りません。ためしに利き手と反対の脚で踏み出してみたら、手指で持った毛筆の、墨汁を吸った毛がおもうまま動いてくれないのと一緒で、遊靴スニーカーを履いたつま先が庭の土にめり込みそうになってしまいました。おまけに立つと腰物で足元が隠れてしまうので次をどう踏み出せばいいのか見当もつかないのです。そのむねを、向かい合ったカスミさんに訴えたところ、

「そうじゃんっ! 義足使うようになったら、ユキちゃん、念願の穿物パンツはけるようになるよ!」

「いや、布で隠れるわけだろ、なら足だけ本物のやつでよくないか?」と、急きょ義貴さんが眉毛にしわを寄せて口をはさんできました。「一繋ワンピース着たいからって、そのなま脚みてえなのを履く女はごまんといるけどよ、性能はまだ骨組みだけのほうがいい、軽いしな」

「でも立体的スキニーだと映えないですよ。脚長穿スラックスならぎりいけそうですけど、やっぱり肉のあるないは気になりますって」

「そういうものか? 着たときの見映えなんて気にしていたら、歩けるものも歩けなくなってしまうんじゃないか。それと義足を四六時中履くもんじゃない、肌はれるし、かぶれるぞ」

「ならなおのこと、一時いっときのおしゃれで着けるぶんには自由じゃないですかっ」

 そんな言い争いを傍聴してうんざりしているなかで、女の子は気づきます。カスミさんの手が離れているのです。つまり今、自立しているのは義足越しの自分のみじかい脚だけなんだ、と。

「おにい」

「おおっ、すごいじゃんユキちゃん!」

 カスミさんは実にうれしそうに笑いかけてくれます。

「なるほどな。確かにこんだけ美人だったら、肉つき履いてるほうが絵になるかもしれん」

 義貴さんも、腕を組んで納得した恰好かっこうをとっていました。

 どうやら蛸の擬態はうまくいったみたいです。またすぐにカスミさんの支えを借りて、女の子は縁側に腰かけました。そうして前かがみの姿勢になると、奥側に置いた足の裏に気持ち力が入って、金属の膝関節はほんのちょっとのきしみを上げながら折れ上がるのです。手をついて。それから靴のところに目線を落としたとき、裸足で履いていたらにおいがついちゃうかな、という不安に駆られるくらい真に迫った肌の質感を垣間かいま見たのです。

「ユキちゃん、これからもっと練習して、いっしょに散歩とかしたいねー」

「おにい……」

 女の子は素直な感謝を、カスミさんに表情で伝えました。


         ◆


 近ごろ温暖化の加速は目覚ましく、寛容な自然さえついに地元小学校の入学式へ時機を合わせることができなくなっていました。3月終旬ながらにぽかぽか陽気が満ち満ちて、河川敷にはほとんど咲ききった桜並木の景色があるのです。右のように感じざるをえません。しかしそこを見ている体感としては、人びとの大騒ぎの声があるのに客は一人もいない、そんなようなもので、半分夢ごこちでした。

 さて、勾配をのぼった先のせまくるしい道路の上を、二人の女性が歩いて来ました。右側の背が高くもう一人を護衛エスコートするように歩くのがおそらくカスミさん、左側の護衛されているほうの身長160センチ前後の青い髪が――ユキちゃん、でしょうか。二人は肩をならべて話しています。カスミさんが翡翠ひすい色の羽毛上衣ダウン密着タイトパンツという恰好でした。ユキちゃんが白丁しろティーに肩掛けの長留編上衣ロングカーディガン胴位ウエストの高い絞脚テーパード遊着ジーンズに白遊靴という恰好でした。ユキちゃんはまだ歩き方からぎこちなさが抜けきっていないようすでしたけれど、とても快適そうにしていました。やがてこんな会話が聞こえてきます。「ユキちゃん、義足にしてよかったね」カスミさんの見た目にそぐわない幼い声です。「これからいろんなこと、競技運動スポーツとか、おしゃれとかしていこうね」それに、ユキちゃんは答えました、「おにい、ありがとう」と。

 それが夢だったのか、将又はたまた心象風景だったのか、もう女の子にはわかりません。とかく目を覚ますとすべては経験したことのように記憶に刷り込まれてしまうものですから、実際の出来事のほうが曖昧模糊あいまいもことした夢のようにみえてしまいます。だからむしろいつか、演芸路家に宿泊したときの無半覚醒のほうが、現実にとっていいものなのです。要するに……夢なんて当てにならないということです。

 女の子は衣装部屋から廊下に出された戸棚キャビネットのなかの、夢に見た羽毛防寒着ダウンジャケットを着て一階に下りました。ごみ出しでもしに行っているのかカスミさんの姿はありませんでした。もうこの生活も1周年をむかえようとしていましたから、彼女がこれだけ生活感ある行動を取るようになったことは率直にうれしいことです。ただそのせいで「自分らしい時間の取り方」がおろそかになっているようにも思えて、女の子は気にかけていました。出かけますと書いた置き手紙だけをして、車椅子で家をあとにしました。

「――ああ、なんだねえちゃんか。1日ぶりだな」

 行き先はとうに決めていました。昨日義貴さんに自宅の住所を聞いていたわけです。西の町の駅近くにあるほんのちょっとした建物の二階に、義貴さんは専用の作業場アトリエを持っていました。ふだんは人形細工や大工仕事などで使っているそうですが、実のところ内装インテリアとしてか義手義足のたぐいがおびただしく展示されていたもので、初めはどぎもを抜かれました。

「いい趣味してるだろ。こんなもん、行政に見つかったらただじゃすまないだろうがな。それでも俺はやめる気なんてない、市民はもっと義肢の芸術的価値を認めるべきだと思ってるよ」

 この状況の当事者である以上そのような志も骨髄皮肉ブラックユーモアに成り下がってしまうのですけど、義貴さんはとにかく楽しそうでした。

「そんでどうした? こんな、気味悪いところに来る用事なら、手早く済ませてしまったほうが身のためだぞ」

「に、おに……」

 ここをたずねた理由を思うと愛想よく接してくれる義貴さんに申しわけなくて、女の子は言葉に首を振りました。そうして客間のようなところに案内してもらって、重苦しく、今年の4月にあったできごとを話しはじめました。

 それは、あの夢のように、花見の時点で女の子の脚が義足になっていたとすれば、おのずと彼女は「義肢ありきの健常者」としての立場を受け入れることができていた。少数ながら前例のある進路を、将来的には見つめることができたかもしれない。しかし現実はそうではなく。きっとあのときカスミさんが「義肢がなくても健常者」というように――ありのままの女の子を――ゆるしてくれたから、女の子の生来のぶかっこうな脚は断たれ、今も自分で自分の行くすえを想像できないのだと。カスミさんが悪いことをしたと言っているわけではありません。ただ、当時の女の子がそのことについてまだ関心を持てなかったとき、自分との違いを彼女にこうたずねたからです。「なんで、足生えてるの?」それはまぎれもなく自分こそ健常者だと思い込んでいるあかしでした。

「なるほど? ……おたくの出生はどうあれ、下肢不自由者への対処としてはたしかにおかしい。俺なら即座に義肢をあてがって再適訓練リハビリさせる。なぜ切りそろえる必要があった?」

 義貴さんは年輩らしく、こちらが思いのたけを語っても動じず、冷静に答えてくれました。

「おにい、いにお」

「そういうことだろ。けどな、おたくのほかに前例はある。まえあしのほうだが、奇形で生まれてきたところを切断して通常の上肢不自由者に見せかけるってのは、昔よくあった。切ったところで箸が使えるわけでもないのに。本質は何も変わらない、結局は本人以外の無分別エゴってことさ。だがく言えば……」

 義貴さんは奥から、自分の作品の人形を持ってきました。彼が意図して作ったとは思えない姫装束ドレスに洋風のかつらをつけて、かわいらしい人形。すると躊躇ちゅうちょなく彼は、思いきり、両足を引っこ抜いてしまったのです。人形の目の光沢が瞬間うるんだように見えました。

「その子の体面を少しでもいいものにしてやろうって、周りが気にかけるきっかけになるのさ」

 次に義貴さんは女の子にその人形を手わたしてきます。

「昨日の姉ちゃんは、いつわりなくあんたと足並みそろえて歩くのを喜んでたと思う。だがそれがかねてのものだとは言いきれない。あの姉ちゃんも、悩んでいたのかもしれない」

 そう言われて女の子は、いつか彼女にすすめられたとある提案を思い浮かべました。

「ほう、夜間中学か、それはいい。何をするにも教養は大事だからな。俺も高校の授業はちゃんと受けとくべきだったって、社会人になってから後悔したよ。教養がなければ、時間を棒に振るだけだ」

「おにい」

「そうか。再適訓練リハビリなら、いい病院を選んでやる。費用は姉ちゃんにでも話して、」

「おにい」

「お? まあ、なんでもいい。元から無いねえちゃんなら、1月もすれば竹馬みたいに使えるようになる。時間は追って連絡するから、あとは頑張れよ」

 義貴さんに頭を下げて、その日女の子は車椅子のまま家に帰りました。途中町の豪邸にも足を向けましたけれど、だれもいませんでした。生垣いけがきの一部にのこぎりのような葉と小さな白い花が咲いていて、きれいだと手に取ったばかりです。

 よごれた車輪を浴室へ運んで、居間リビングにもどると、カスミさんが旅番組テレビを観ながらくつろいでいました。「おかえりー」その声に無返答のまま女の子は食卓テーブルにつきました。「どこ行ってたの?」という露骨な質問にも、答えようとしません。


         ◆


 11月11日。義手義足マニアの義貴さんが家にたずねて来ました。それも大荷物。縁側いっぱいに人の足が転がっているのを見て、わたしは今どきの技術ってこんなにも進歩しているんだなーと感心しました。でもどんなに精密な肌色に仕上げても義足には血が通っているわけじゃないのでとても冷たかったです。わたしの足につながったときが特にそうでした。鏡でみた自分と感覚としての自分との落差にヒヤっとします。まさに擬態です。

 11月12日。今日はいつも見ないへんな夢を見ました。まえに彼女と花見に行った記憶を改ざんされたような、そんな夢です。あの夢でわたしは義足をはいて、彼女にありがとうと言っていました。そんな言葉がわたしの口から出るはずもありません。なぜならわたしは彼女が食事を作ってくれること、洗濯してくれること、服を買いに連れて行ってくれること、なんにもうれしいと思ったことがないんですから。彼女の行為のすべてが自己満足のように映っていたようにさえ思います。その旨をアトリエに行って義貴さんに伝えました。義貴さんは、最初わたしがぐちを言うようにしていたからか共感するみたいに接してくれたんですけど、あとから彼女をフォローするような発言をしていました。そのおかげでわたしは約束をやぶられたような気になって忘れていたことを思い出しました。彼女はわたしのことを想ってくれる、だれよりも、そしてわたしのことを一番に心配して行動してくれる。わたしの母親代わりを自分からやりたいと言ってくれた人。

 だけど、彼女は昔はそんな人じゃなかった。自分勝手で、わたしの言うことに耳も貸さなかった。彼女が大人らしくふるまっているのはわたしのため? だとすれば、この生活はもう彼女のためにならない。わたしはそう思うんです。


         ◆


「……ねえ。これからどうするの? 将来何したいとか決めてたりするの?」

「え。な、なんだよ急にっ」

 カスミさんは心底おどろいたという表情をして、こちらに振りかえってきました。女の子はつとめて冷徹れいてつに、さとすみたいな口調でつづけます。

「年齢のはなしとかは、なしよ。答えて? おにいはどうしていきたいの?」

「わたしの……」

 カスミさんは、説明のできない自分の境遇を洞察しようとしているのか、しばらく口をまごつかせていました。

「わたしは、ユキちゃんと一緒にいられるんなら、それでいいと思ってる。ほかのなんを犠牲にしたってこの生活を守りぬきたい、ってさ。あはは、照れくさいこと言わせないでよっ」

 それはいつものごとく、カスミさんへの無理解です。女の子は彼女への自分の無理解を理解しているつもりでいました、だからその想いを追及することはしません。

 ただし、「何を犠牲にしても」の「犠牲」の部分に、女の子自身の脚の切断がくわわっている事実がとてつもなく許せなくて、悲しかったのです。

「おにいって、すごく、普通ないい人。わたしは脚がなくて異常な子。それがわたしたちの、姉妹の姿だった、本当のね。今までわたしはおにいのおかげで、自分のこと、健常者みたいに思ってた」

「ちがうよ。ユキちゃんは全然っ、脚がないのは悪いことなんて、」

「わたし、悪いとまでは言ってない。……おにいがそう考えてるだけ」

 これだけの不義理があるでしょうか。衣食住すべてのめいわくをかけて、大切に世話をしてもらって、そんな相手を突き放すようなことを平然と言ってしまった女の子は無情です。もはや親のような存在に向かって――いえ、女の子はカスミさんの娘ではないのです、血のつながった妹なのです。「それは実感的には親子関係に近いものがある。」この言葉を彼女が用いたのは、鷹梨たかなしくんとの関係限り。むしろカスミさんは女の子が、自分の娘だと間違われることをよく思っていないようすでした。

 女の子は、長椅子ソファにいるカスミさんの元まで這っていって、胴の高さで目線がおんなじになるよう、隣に腰を下ろしました。

「そういえばなんで、髪染めたの?」

 カスミさんはうつむいたまま、答えません。

「わたしね、うそを言ったわ。ほんとは茶髪のおにいがかっこよくて好きなの」

 女の子はわずかに見下ろして、彼女の顔をながめていました。

「姉妹だって、別々のおんなの子だし、むやみに欲しがらないでいいのよ。わたしこそ、おにいみたいな脚が欲しいって思うべきだった」

 女の子は思いました。もしも自分基準で世界や社会が回っているのなら、そのことを誰より最初に教えてくれたカスミさんはまさに命の恩人で、親のような存在なんだと。でもほんとうの世界や社会はカスミさんやカスミさんの母親、お隣さんの視線や価値観があたりまえで、背のひくい女の子ではその景色に届かないんだと。さっきにも言いましたけどカスミさんは女の子から見晴らし台に昇る機会チャンスをうばったわけではありません。単に彼女は、幼少期に叶えられなかった女の子との「姉妹の生活」を、してみたかっただけなのでしょう。

「もうね、望んでいるだけの時間は終わったから……自分の足で、見に行かなくちゃいけない。だって足はとどまるためのものじゃなくて、あちこち歩くためにあるんでしょ?」

 女の子はそう言って、カスミさんを抱きしめました。

「《姉さん》、わたしね、やっと自分の足で立てるの。一人で!」

「うん。よかったね……」

 それから女の子は跳びはねるようにして、二階に上がっていきました。カスミさんも映像テレビを消して、二階の自分の部屋にもどります。車椅子は掃除されずに浴室に放置されたままでした。

 1週間後、病院から、女の子に電話が入りました。車椅子もあずかると。同時に父親からも、彼女を歓迎する内容の手紙がとどきました。すべて、詳しいことはカスミさんに告げませんでした。





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