カスミさんVSユキちゃん

 その町に大雪警報が発令されて、間もなくのこと。

 その町は、毎年の冬にたくさんの雪が降るほかに、春夏秋冬のどの季節をとおして見ても割合わりあい涼しい気候をしていたので、「冬が住む町」と呼ばれています。町で生活している人びとは誰しもが寒冷さに幼いころから親しんで、雪遊びをこよなく愛し、その町がそう呼ばれていることを誇りに思っていました。だからその日、家を出なさるな、という勧告かんこくを受けても受け止めきれない老若男女がさとりました恰好で出かけて行きました。

 そんな町でしたから、積雪量がはやくも1メートルに達しようとするなか、午前10時の地元駅ではのんきに電車が走っていたのです。二両編成の独手ワンマン車両が朽ちかけた軌条レールをきちきちときしませて。もはや、鉄道会社の正気をうたがう事態でしたけれども、どうしてどうしてよく見ると、幾人いくにんかの町民たちが空いた軌条をかこって、簡易な除雪作業をおこなっていました。これでは運転手さんたちもしかたないという顔をするしかありません。ちょうどそのころ電車から降りてきた女性のお客さんが、運転の行方ゆくえを見守っていた駅員の人に「電車、よくはいれましたね」と感心したようすで言いました。

 さておき、女性のお客さん、とさっきはいいましたけれど、実際の彼女はとても凛々りりしくどちらの性別に照らしてもすばらしい器量を持っています。判断がついたのは青みがかかった茶色の髪色ヘアマニキュア越しに彼女の天然のうるおいがうかがえたことと、首元が硬紐ベルトで締まった皮革の長い防寒着コート越しに男性との明確な違いをうかがえたことのおかげでした。そして気がついてあとから、下唇くちびるの左にちらっと、非常に薄らかなほくろがひときわ妖艶ようえんに見えてくるのです。

 女性は護謨ゴム特有の滑らかな風合いで、くっきり浮き出たくるぶしに満たないほどの丈の短小深靴ショートブーツでざっと新雪の大地を踏みしめて歩き出します。

「……とっ、待ち合わせはこの辺のはずだけど」

 そうと途中で足を止め、右手に持った懐中時計をなんども確認しながら彼女はつぶやきました。

 空模様の晴れないなかにたたずむと、すぐにも雪はいっそう強く、女性の頭の上を目ざして降り乱れました。とくに頭頂部は真っ白になり、女性は嫌気いやけのさしたようすで雪を手で払い落とします。そうしながら駅の出口をなんども行き来するのです。心配した先の駅員が「何かお困りですか?」と、わざわざ外着に着替えて出てきてくれました。それでも女性は「ありがとうございます。でも、一人で大丈夫ですから」と愛想よく答えて行ってしまったのです。

 駅にはいまだ除雪作業にはげむ町の人びとと、車線レーンを封鎖すべきかどうか話し合う駅員たちがいました。けれども、女性の探している人物の影はどこにだってありえません。雪はまたさらに強くなりました。

 女性の顔には諦めの色が浮かんでいました。もう今日はどうしても会うことができないのではないか、そう考えているのでしょう。すると一瞬のうちに雪ははげしさを増しました。女性はたまらず板金トタン屋根のついた乗合車バス停につき、ついに落胆の窮地におちいったのです。

「どうしよう……」不意な弱音に女性自身の気分がわるくなっていきます。

 そんな女性の水気を帯びた防寒着のすそに瞬間、うすらかに、下へ引っ張られるような感覚が走りました。それは最初、植木の枝に引っ掛けられたような気分でした。でも人間の五指につかまれているという具体的な意識にすぐに変わっていったのです。女性は布を引かれた方向に目を落としました。

「ユキちゃん……!」

 目線の先には小学校高学年くらいの背丈の女の子がいて、さらに女の子は女性が待ち望んでいた相手でした。この時点で女性がカスミさんであることはわかってもらえたでしょうか。雪と風はうなるように吹き荒れていたことが根本から嘘だったかのようにしんと静まりかえりました。そして、しゃんしゃんという擬態語が今にもきこえてきそうなほどにせつなげに、二人をよけて降り続いていました。

むかえにきたよ。ユキちゃん」

 カスミさんはそれらについて本当に安堵あんどした表情を浮かべます。しかし反面、脚誇型ハイウエスト遊着ジーパン穿いたおへそのあたりに、車椅子の車輪の高さをもってしてようよう並んでいる女の子は疑わしげに、彼女の身なりをにらみつけていました。きちんと打ち合わせをしてそのうえで待ち合わせていたはずなのに、この人は誰だろう、といったような淡白な目つきをしているのです。すると徐々じょじょにカスミさんのなかにも不安な気持ちがぶり返して来ました。「あれ、ほんとの、ユキちゃんよね……?」

「あんた、名前は?」

「……おにい」

 女の子は一言だけ吐き捨てるように口にして。「あ?」

「おにい!」

「ちがうっ、わたしは『おねえ』だ! 『お姉ちゃん』だ! そんであんたはユキちゃん!」

「おにいいぃ!」

「だあっ。ちがうっつってんのにさあ……」

 勿論もちろん言うまでもありませんけれど、二人にとってこれは初めての対面でした。カスミさんのほうは女の子の脚のないことにとにかく無頓着むとんちゃくで、目をそらすなどいやな真似はしませんでした、一方女の子の意識へはじつにこの女性が感情的で幼稚であるかのように刻まれてしまったことは否めません。

「まあ、いい。これからはわたしと一緒に住むんだよ。ユキちゃん?」

「…………」

 右のことから、女の子はきまり悪く口を閉ざしてしまったのです。また、その「一緒に住む」という場所の住所や何も知らないというのに、ひとり勝手に車輪を進め出してしまったのです。カスミさんは「こらっ!」といそいで追いかけました。彼女たちの二人三脚にちじょうはこうしてせわしなく始まりを告げたのでした。


         ◆


「ほら、脱いで」

 その家の洗面所にて。下着のみになったカスミさんは、女の子のお姫様みたいな礼服ドレスをあたまから脱がし(天然のものと思えない透きとおった空色の稍々長髪セミロングに、幼くはかなげな容姿をした彼女は、一方で胴位ウエストのくびれはたいへんに美しかったのです)冷え切った体温をおふろの湯で温めてあげることにしました。

「あれま」おめかしをすっかり取り去り、すっぽんぽんになった女の子のようすにカスミさんははたと気づきました。

ひだりあし、ちょっと長いね。だから姿勢悪かったのか」

 車椅子を下りてすぐにも自立して歩き出した女の子でしたけれど、よくよく思い返せば歩き方が少しだけおかしかったのです。両の手を交互につき出して、それこそ這うような形でした。緩衝材としてのひざもなく、地に接する面があんまり平らかでないぶかっこうな脚なので、たとえどうこうしても普通の人のように歩くことはできません。しかし、10糎限センチりの長さに加えて切りかぶのように太く重たい短脚を引きずってでも、女の子は「歩く」ことができたのです。自分の人並みはずれた視点から世界を見ることを受け入れていたのです。

「なあ、ユキちゃん。脚を綺麗にする手術受けてみなさいな。そのほうがずっと歩きやすい」

 カスミさんは半身を、女の子を胸にかかえて湯船に浸しながら提案しました。女の子はさっきのままだまって頬をふくらませています。それでも小1時間前とはちがって、現在は幾分いくぶんとおだやかさをにじませていました。

「何、痛そうだって、こわいって? 大丈夫。麻酔で、歯あ抜くのよりもずっとらくなもんさ」

 カスミさんの主張はいやに楽観的でした。とてつもなく怖い、屁理屈なことを言っているにもかかわらず、彼女の態度は無責任そのものでした。女の子にはそれがまたくやしく感じられました。しかしどうしてでしょうか、くやしさは振り切るとやがてあきらめに変わっていきました。

「……おにい」

「はあ……あんさ、どーせユキちゃんには興味ないことだろうけどよ、わたしの名前はカスミっていうのよ。あんたとおんなじ雨冠あめかんむりの字でさ。いいよね空から降って来るもんって。誰の都合にも左右されないっていうか」カスミさんは浴槽の後ろに首をだらんと垂れました。その際に塗料の落ちてきた自前の髪を気にします。「そろそろ染め直すかな……」

 二人はおふろを出てそれぞれ着替えると、手すりつきの階段から玄関との間に位置する居室リビングにくつろいでいました。正午までまだ随分時間がありました。でも女の子の、カスミさんいわく「こらしょうがない」胃袋がせつない声を上げていましたから食卓は簡単な惣菜と根菜の薬皿サラダで飾り付けられました。今はそこにあの女の子の作法じみた食事風景があるばかりでした。

「わぷっ! ……はあ。ユキちゃんてさあ、もしかして姫装束ドレスしか持ってないわけ? つか姫装束しかない……」

 食事机から、とおく離れた受像機テレビ台と向かい合わせの多目的長椅子ソファベッドとのあいだに腰を下ろし、一人で彼女の衣装整理をしながらカスミさんはぼやいていました。なにしろ荷解にほどきを済ませた全部の衣装いしょうケエスを床一面に広げたとしても、姫装束以外の衣類が見当たらなかったのですから。下着を含めてそこには派手な礼服のほかには何もありませんでした。

「……まあ特に服がなくて、こまることはないか。寒けりゃわたしの上着着せてやりゃあいいわけだし」

 と、服たちは意外なことに、すぐにも女の子の私用の箪笥たんす仕舞しまわれることが決まってしまったのです。

 カスミさんは枝葉末節こまかなことにあまりこだわらない人でした。洗面所でぬいだ服を洗濯機に入れるだけ入れて放置したり、食器を洗うのがめんどうだからといって便利屋コンビニ弁当を一度に買いだめしたり……まだまだあります、彼女が彼女の叔父おじさんからこの持ち家を借りることになったときにも今のように「だいじょうぶ! 家事だろうがなんだろが、やろうと思えばできる性分しょうぶんだからっ!」と豪語して、実際にできることは部屋のちりさらいくらいしかなかったほどです。これではたしかにカスミさんが、ご自分の言うとおりに口先八丁の性分をしているといえましょう。

 しかし、カスミさんと今日を一緒にすごすまで、女の子はこの町の養護施設で育ってきました。食事礼法テーブルマナーも衣服の着こなしもひととおりばっちりです。めんどうはよくても、めんどうを惜しんで手抜かりの多いカスミさんのような性格は、きっと大きらいでした。

 翌日からカスミさんは家事を始めました。これまで両親に任せきりだった炊事洗濯となおさらに女の子の入浴や移動の手伝いもしなければなりません。たとえ二人の家内でもやることは毎日尽きませんから、当時のカスミさんはそれらと制限勤務パートタイムの両立がうまくいかず、いつも寝不足ぎみでした。そうやって労苦を重ねても、全然カスミさんの家事に対する手ぎわはよくなりませんでした。女の子は女の子で、代替のしにくい洋服をわざとよごしたり食べ物の好ききらいを言ったり(「おにい」だけでの会話ですけれど)して、分かりやすくカスミさんの邪魔をしていました。

 このころはまだ二人とも、ご近所さんとの関わりを持つことはなかったようにおもいます。といっても、家事と仕事に奔走し、また一方で社交にまだ不安が残るあの二人ならばしかたがなかったのかもしれません。

 そんな彼女たちに生活の転機……と、果たしてすればいいのでしょうか、変わらざるを得ないような出来事が起こります。カスミさんの母親が重い病をわずらってしまい、隣町の病院に入院することになったのです。大雪の降るなかに彼女たちが出会ったあの日から、およそ2月が経過していました。ちょうど、こよみの上でも2月になっていました。

 間もなく、カスミさんたちはちょうど空の晴れているときをねらって、母親のお見舞いに行きました。隣町の病院は雪の町に唯一ある診療所とは比べ物にならないほど大きく、清潔感があってなにより病室がたくさん並んでいました。

 そこで、二人は二階のとある廊下で迷子になっていました。

「あー……すまない、ユキちゃん。わたし方向音痴なうえに矢印とか見ない性分なんだ……」

 カスミさんはにわかに笑いながら謝罪しました。言行に、これだけを連ねると、いつか大でもなりおおせてしまいそうな勢いを感じられます。

 そして、女の子はお馴染みの車椅子(実は、この病院から彼女の養護施設へ貸し出されたものだったのです)をカスミさんの歩く速度に合わせて進ませながら、これだからきらいなのよ、というような表情を浮かべていました。

「受付のおねえさんは『二階の203号室です』って言ってたんだけどねえ」

 と、正確な部屋番号まで分かっているくせに、今……、通過したばかりの案内図には目もくれずたったと歩を進めていくカスミさんはやはり荒肝をもった女性です。

「あー、誰か、知り合いとかに会えねえかなー」

「おにい、おにいっ!」

 女の子は、院内で声を張り上げたカスミさんに対して強く叱りつけます。つい、二人とも声が大きいですよと言いたくなったのですけど、ここでは胸の内におさえておきましょう。

 やがて白磁のような廊下の先に、カスミさんは見憶えある背中と出会いました。「ああ。とおさんか」気さくに声を掛けます。女の子の倍近い身長があるカスミさんよりも頭一つ分大きな男性は少し遠くから半身を向けて、こちらも「やあ」と気軽な口調で返しました。

かーさんは?」

「うーん。あんまり体調がよくないみたいで、今日は面会できないって」

 男性はこけた頬に手を当てて言いました。

「そっか。あ、この子が」

「もしかしてユキちゃんっ?」

 すると急に男性は声を上擦うわずらせ、はしゃぎ出しました。

 ちいさな視点から怪訝けげんな目を向け男性を警戒していた女の子はそのとき、男性に両脇をつかまれ、すぐに、天井近くまで掲げられてしまいました。いわゆるたかいたかいをされたのです。

「ひゅうー! ユーキちゃん! パパでちゅよーぉ?」

「おいおい、そんな子供あつかいはやめてやれよ……」

 とはいえ軽はずみに止めてはいけないような気がして、カスミさんはそばに拱手きょうしゅ傍観ぼうかんします。

「あれまあ、かわいい一繋ワンピースでちゅねえ? ママのためにおめかししてきたの? えらいねえー」

 それを聞きつつ、約2メートルの高さに全身が浮いてさらに後ろの通行人に腰物から下着をのぞかれている女の子に同情することは、きっと誰にもできえないでしょう。せめて、さっきおさえこんだお節介を、今度は彼女を救うために使うほかにはありません……、

「おとうさん、声が大きいですよっ」

 ついでに、しー、と口に指を当てて。

 男性はぼっと赤面されて、すぐに女の子を元の場所にかえしました。それからお詫びのしるしに二人に清涼飲料ジュースを買ってあげて、病院の外のちょっとした公園に連れていってあげました。公園には遊具はなくていねいに整備された芝生しばふがあり、心癒されるような香草ハーブの香が漂っていました。三人は古めかしい庭長椅子ベンチ老材ろうたいにむかい、にこにこしながらむち打って座ります。

「さっきはおどろかせてごめんね、ユキちゃん」と、はしの男性が音頭をとると、

「いいよ。それに、言えなかったわたしも悪かったし」

 カスミさんは真んなかの女の子を、優しくなだめるようにその頭へ手を添えました。

「ぼくとカスミとユキちゃん、初対面だけど実は家族なんだ、血の繋がった、ね」

「……おにい?」

「まあね。『お兄』じゃないけどね! 何べんも言うけど!」

「ぉおにーい」女の子は男性のほうを見ました。

「ははっ、ユキちゃんはおもしろい子だなー」

「おにい……?」

 首をかたむけている女の子に、男性は目をそそいで語りかけます。「ユキちゃんは、かあさんによく似たね。肌がつやつやで、綺麗な髪の毛をしてる。カスミは、どっちかっていうと、ぼくの成分が強く出たのかもね」

「わたしは、別に父さん似でよかったと思ってるよ。まあ、髪の遺伝については、毛え太いし色濃いから塗料カラーが染みんなくてめんどうなのもあるけどさ」

「彼氏はできたの?」

「なんでそんなこと聞くんだよ……引っ越したばっかで、そんな、男作る余裕なんてあるわけないでしょ」

「そうかな? 2か月もあったら、ぼくならニ、三人くらい全然いけると思うんだけど」

「父さんは節操がないんだよ」

「男なんてそんなものさ。ぼくは、カスミに彼氏や旦那ができても、それでいいと思ってる。いちいち牽制けんせいしたりしない」

「じゃあユキちゃんは?」

「それはだめだっ!」

「がっつきすぎだって。見っともない……」

 二人の言いぐさに挟まれて、女の子は終始めいわくそうな顔を浮かべていました。

「それでも、ユキちゃんはこれから色んな人たちと関わって、違いを認め合って、いつか自分の容姿に自信をもってほしいとおもう」

「別に、ユキちゃんは脚ない劣等感コンプレックスあるわけじゃないよ」

「そうなの?」

「おにい?」

「父さんはともかくユキちゃんまで疑い出さないでくれ」

 それから、カスミさんは男性に、女の子の両脚の長さを等平にする手術を受けさせてあげたいということを伝えたのです。カスミさんにはすでに両親へ、生活費や交際費の諸々もろもろにより多額の借金がありました(きっとこれからも増えていくのでしょう)、しかし男性はどうしてか理由も詳しく聞かないまま、手術を受け入れて、あまつさえお金のほうもどうにか工面くめんすると約束してくれました。

「ごめん……でも、ありがとう」

「ははっ。相変わらず、カスミには金の払いがいがあるなー」

「それどういうこと?」

「すっきりしてるってこと」

「なんだよ、やっぱ根に持ってんじゃん……」

 そう言って口をとがらせてはいるものの、カスミさんの目つきや息づかいは男性の言葉にとても安心しているように見えました。経済的に親離れのうまくいっていない自分に対して、彼女が負い目を感じているそぶりはこれまで一度もなかったのですけど、同時にまったく気にしていないという開き直った雰囲気もありませんでしたから。

 と彼女をいろいろまじまじ眺めていた女の子の、小さな手に乗せられたカスミさんの爪のきれいな手の上に、男性は自分のすじっぽくて大きなてのひらをすっぽりとかぶせました。

「カスミは、ユキちゃんが好きかい?」

「ああ。じゃなきゃ父さんにこんなに手間掛けさせてないよ」

「母さんにもな」

 言い終わると、男性は女の子の腰物スカートに隠れた10糎ばかりの脚を一瞥いちべつし、それからきゃしゃで幼げな彼女の、感情のあらわれづらい顔立ちを見ました。

「ユキちゃんは、カスミが好きかい?」

「おにい」

 と、彼女はまっすぐ答えます。

「そう。じゃあ、これからはもっと仲良くなりなさい。きみはなんだってできる子だ。神様にだって愛されてる。でもきみを、愛してくれているのは誰よりもカスミなんだから、いつまでも、仲良くしてあげるんだよ?」

 男性はほほ笑みながら言いました。すると、ふるりとからだを震わせて、こんどはずかしそうな笑みを向けてくるのです。男性はそろそろ寒さに耐えかねてしまったらしく、平然としたカスミさんたちに一言断りを入れて、女の子と帰路まで見送ってくれたのでした。

 二人の懸念といえば、来しなにこころよく晴れていた空の青が、いまでは岩のような雲にはばまれ、爽快な空気のひとつもくれやしなかったことです。そうして、またあのどか雪が降らないか、降ってしまえばもうしばらく見舞いには来られないんじゃないかと、不安を煽ってくるのです。

 カスミさんはなんでも楽観主義者だと思い込んでいたのですけれど、ほんとうのところは器が小さくて現実的な人でした。薄手の羽毛防寒着ダウンジャケットをかさかさと言わせながら女の子の車椅子を押して、いつものおしゃべりや憎まれ口のひとつも自ら口にしないのです。

「……おにい?」

「ああ。雪、降らないといいね」

 それから女の子にすればたった10分、重量のある車椅子を押して歩いてきたカスミさんにすれば10分もの時間をかけて、二人は自宅まで帰って来ました。悪天候で目視することは叶いませんけれど、日は墜落する寸前なのか1キロメートル先の暗闇がだんだんこちらに近づいてくるような錯覚をおぼえました。

 このような時間になっても、カスミさんは夕食を作ろうとしません。心労がたまっているせいかもしれないと女の子は催促さいそくしませんけれど、それにしたって、居間リビング長椅子ソファにだらんと転がって身動き一つしないのです。女の子はごうを煮やしたので自分で器乾麺カップめんを用意し、彼女を食卓に座らせました。

「おにい!」

 すると、カスミさんはそっと顔を上げ、静かに聞いてきました。

「ユキちゃん。今さらだけど、脚の手術かってに決めちゃって、ごめん。もっといろいろ相談するべきだったよね」

 本当今さらどうしようもないことを言う、しかたのない人でした。いえ、これから女の子が断れば、いくらでもどうにかすることができることです。けれどそれを最後に阻止したのは彼女の今の謝罪であり、女の子はせめてもの意趣返しに「あくどいな」と皮肉ってやりました。

「わたしさ、思うんだよね。母さんがユキちゃんをきらいなことも、ユキちゃんの足がないことも、全部どうしようもないことだろ、だから無理に取りつくろわなくたっていいんだ。わたしたちはみんなぜんぶ承知の上で付き合ってるわけじゃない。だから理解し合えないことを理解し合って、わたしとユキちゃんみたいにさ、似てない姉妹でうまくやっていけたらいいんじゃないか、って」

「……おおに」

 あくまでもカスミさんの具体性のない理論でしたけれど、女の子の耳にずっと心地よく残っていました。彼女の明るさにふれていると、そうしてだんだんと手術の恐怖や嫌悪感がやわらいでいくように感じました。女の子は、そのとき「脚のない自分」を受け入れることに前向きだったのです。


         ◆


 3月25日。わたしたちは町の河川敷に、花見をしに行った。

 ロケーションは、というとおせじにも桜がえるとは言えないし見えない寒空のもとになってしまった。どうしていつもわたしの気持ちがいいときには太陽はかげって、胸くそ悪いときには空が澄みきっているんだろう。いまいましい。でも、それだけ天気というやつはこっちの心のなかをくみ取ってくれやしないんだと見切りをつけることで、結局納得した。

 ユキちゃんの車椅子を押しながら、場所取りのために、わたしは桜並木の下のゆるい勾配こうばいのところを見ていた。やはり人は少なくて、しめしめと思った。ユキちゃんに言って、わたしは一番おっきな桜の木の根元に持参したシートを広げた。もうとっくに初春を迎えたはずなのにこの町は相変わらずこごえそうな寒さをきっしている。だから結露した芝に素肌が当たるたびにしにそうになる。他方でユキちゃんといえば、すっかり枝先の新芽や、宙に舞った花びらのとりこなのだ。まあ共感はするけど、こっちの手伝いもしてくれよと気がねもせず言いたかったものの、そのきらきらした目を見るとさすがにあきらめざるを得なかった。

 唐突だけど、わたしはついに生来の茶髪をやめた。陰気な雲のことなんてこれっぽっちも知らないような、ユキちゃんの透明な空色の髪にあこがれたからだ。けどわたしは本当に父さんの血を強く引き継ぎすぎたみたいで、色濃く太い毛はやっぱりうまく染まらず、今のように晴れなのかくもりなのかわかりにくい中途半端な模様になってしまったわけだった。「きれいだし、同じ色よ」とは言ってもらえたけど、見下げるといつも視界いっぱいに映るこの子の純朴さを考えたら、素直にうれしく思えなかった。正直あの人の見舞いにも二度と行きたくなくなった。

 そんななかでの今日の花見だったから、さっきは色味が悪いみたいなことを言ったけど、やっぱりこの天気と一緒に見る桜はわたしにとって大事ななぐさめになっていた。天真爛漫てんしんらんまんにふる舞う花弁を、後ろに、どこまでも続いていて落ち着いたトーンの空がいっそう引き立てる。そういう構図というか関係に自分とユキちゃんを重ねて、自己満足ぎみに納得していた。

「桜、きれいだねー」

 すでに昔から言い古されているようなわたしの感想なんか興味ないというユキちゃんの顔をのぞき込む。邪魔だ、と手で押しのけられた。そういうところはまだ子供だなと、わたしはひとり手元の弁当をき込んだ。

 ふと振り返って、坂のうえの遊歩道にいる初老の男性を見た。わたしたちの引率の人だった。今はユキちゃんの車椅子を見守ってくれていた。

 また、ドレスのユキちゃんに目を向ける。

「年度始まったら、ユキちゃんいっしょに買い物行こうね。海とかもいいな。あーでもわたし塩素だめだったか……じゃあ家のビニールプールとかであそぼっか。脚きれいになったらおしゃれとかも楽しくなるよ。ドレス以外にも着たいよな?」

 わたしの確認に、ユキちゃんはいつもの無反応を返してくれる。たんにそっけなく見えるけど、案外わたしはそういう空気感が好きだったから、笑顔は絶えなかった。

 するとユキちゃんはふるっと耳をらしたあと、桜の木の枝から、わたしのほうに見上げてきた。

「……おにい」

「ん?」

「なんで、あし生えてるの?」

「んー。それは、多分、ユキちゃんとおでかけしたかったからだよ。わたしたちは足がないと、あちこち行けないからね」

「そう……」

 ユキちゃんは返事しながら、そのあどけない顔を、わたしの横で少しだけとろけさせていた。





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