カスミさんVS鷹梨Mk.Ⅱ

 あの日の観劇以来、雪が降っているのを見た記憶がない。それも視覚的な意味ではなく触覚的な意味でいえば、あの子とまじめに向き合った去年の12月を最後に、わたしの冬景色が更新されることはなかったはずだ。

「今年は異常気象がつづくなー……」

 早朝、わたしは外の寒波のためにひどい厚着をして来て、ついに嫌気がさし軽々しくうめいた。このとき自分の町区のゴミステーションで作業をしていた。内側に密閉された臭気しゅうきはとくに気にならなかった。ここほどではないけど社会人というものは独り暮らしに慣れると人目がないのをいいことに孤独な空間へれたあつかいをするものであるから、反動でおのずと公共施設への嫌悪感ももたなくなっていく(つまり他人のことをとやかく指摘できなくなるってこと)。そうしてわたしの退廃ぶりもまた、周囲に非難されることはなかった。

「さて一体、」どういうわけか、まだ空がほの暗い時分にもかかわらずポリ袋は山と積まれていたのだ。思うに、年の終わりが近いのでタイムリーにゴミを一気に出そうという主婦のぬかみそ臭い魂胆こんたん丸見えの状況なのだろうけど、半分同類のわたしは右のように負い目から文句を言えなかったのでしぶしぶ場所の整頓をするしかなかったわけである。

 ちなみにわが家のゴミを並べたおとなりには見たこともない古書から最近の新聞雑誌類までありとあらゆる紙束かみたばが、ビニル紐できゅっと締め上げられて置かれていた。同じ家から出たゴミらしく紐の結び目が全部特殊だった。

「おっと、家庭ゴミは個人情報が詰まってるって言うものね。しときましょ」

 そこにわたしは立ち上がる。うるさいゴミ袋から離れて気づいた。じょうをした扉と地面とのすきまから、びゅーびゅー又三郎が笛を吹いている。外は来たときより寒くなっているらしい。

 出不精でぶしょうで今日までゴミ捨てに来なかったことをわたしは悔いた。そのとき、明らかに暴風がたたくのとはちがう、何かが扉にぶつかる音がした。なんとなくそれに親近感の湧いたわたしは静かに戸まで行って、おそるおそる開いた。まず目に入った、くたくたのスウェットの上下に色のはげたスリッポンから、近所の人間であることは明白だった。安心したわたしはこう言った。

「あの、しばらく話し相手になってくれませんか?」

 それに対応する相手の返事は「はあ?」ときまっている。ただあまやみならぬかざやみをしたいだけの心を理解してもらう気が元よりわたしにないためだ。むねおく自信満々たるわたしが見上げた相手の顔は(実際、170センチあるわたしより大きいはずもないけど)同年代にありがちな窪眼くぼめをしばたたいて、こちらを警戒する女性のものだった。

「いや。待って。あなた、お店で会ったことあるかしら?」不快感情をはやく取り消したかったからか、女性のほうから声を上げた。わたしがそう聞かれてはたと思い出したのは、今年の7月、ユキちゃんの服をあたらしく買いに行った店で応対してくれた「おしゃれな若い女性」の姿だ。もっともそれはカン違いだと理性がすぐに訂正することになった。――言い換えれば、わたしはあのときの正真正銘美人がただの表皮で、今のつまるところ中身が中年をまさに絵にえがいたようなだらしのない人物であると、みとめなくなかったのだ。しかしわたしの願いに反して女性はかってに自己紹介を始めた。「河洲蔵かわすぞうって言うわ。あのときは実娘むすめさんに冷めた態度とっちゃって、悪かったわね」「あー……それは、ひどいカン違い。あの子はわたしのじつまいです」「そうなの? ずいぶん歳が離れてるようだったから、てっきり」あんたも人のこと言えねーだろ……とはいえ女性は本性ほんしょうなのか蓮葉はすっぱなもの言いなので、すっぴんの見た目のわりにはうら若い感じさえあった。河洲蔵さんと言ったか。そこらの日用雑貨店で働いている、世間ちまたのトピックにものぼらない人びとというのが仮に彼女の持ち場だったとしても、面と向かって雑談すれば案外おもしろく思えてくるものだ。そしてそれは彼女に限らないすべての人に言えるのだろう。このように、ある種の真理は今日こんにち地元のゴミステーションに転がっていたわけである。

「あの、よければうち近いので、お茶でもいかがですか。あと、わたし、カスミです」

「あら、いいの? なんだか良くしてもらって、悪いわね」

 もうおばさんの井戸端会議と誤解されても知るもんか、わたしの寂しさを埋めるために必要なのは独りで考える時間ではなく、だれかと過ごすむだなひとときなのだから。そう決めつけて、片づけを終えた二人で外へ出た。半身が浮くような強風が吹いていた。

 しばらく歩いて、二階建てのうちが見えてきたあたりでわたしの目はとある一点に止まった。そこにはヒモの鷹梨たかなしがいたのだ。鷹梨は迷いのない足取りでわたしの自宅に向かっていた。「すみません。急用があるのを思い出しました」と後ろの河洲蔵さんに嘘を言った。するとつやのある、錬れた声色で、「そう、わかった。けれどまたで、お店に来てちょうだい」と返された。わたしはいそいでいたからすぐに視線をひるがえしたけど、さいごに一瞬見えた河洲蔵さんの表情は、祝福するみたいだった。


「鷹梨っ!」

 いやおうなしにわたしは怒鳴りつけた。約束も何も取りつけず、彼が自宅をおとずれるのがあまりにも身勝手に感じたからだ。しかしそれが万が一赤の他人だったなら、なんてことを考える余地もなく、鷹梨はのんびりと声に反応して首をかしげた。追いかけて来たわたしにえらく驚いているようで態度のわりに、こちらを向いたときどことなく不安げな顔色をしていた。

「あんたなんでここにいるのよ、バイトは?」

「いや。今日は休ませてもらったんだよ。それよりもカスミ……」

 ん、なんだよ、と聞いたところで、鷹梨のようすがおかしくなる。もともと自信無さげの肌合いのものがなおさらトーンを落とし、変調して一種の錯乱状態のようだった。「ぼく、近いうちに逮捕されるかもしれない……」

「あら、そうなの。原因は?」「まじめに聞けよ」悪癖あくへきでなく目元をふくれさせた鷹梨に、「まじめに聞いてるし驚いてるわよ」冷たく突き放すようわたしは返事した。

「バイト先の同僚の女の子をかくまってたら、向こう方の母親に捜索願を出されて、警官がうちに来て、任意同行するようせがまれたんだ!」それは鷹梨がこう言う人間であることをはなからわかっていたせいでもある。もちろんわたしはそれについて質問した。

「その口ぶりだとどうにも悪徳だけど……どうなの?」

「どうも何も、その子が家出して帰る場所がないって言うから二晩泊めただけさ。なのに、どうしてこうなっちゃうかなあ……わるい評判立つよなあ。家追いだされたりしたらどうしよう……」

「そうなったらせめて、うちに泊めてあげるよ」

 あくまでも徹底的に、わたしは鼻で笑ってそう突っ返していた。鷹梨はもしかするとキレるかもと思っていたけれど、決してそういうわけじゃなかった。鷹梨がぐちを言うためだけにここへ来たと初めに決めつけなかった時点で、なんとなくわたしには察しがついていたのかもしれない。

「それで? せめてもの罪滅ぼしに、親御さんにあやまりに行くのを見といてほしいってわけ」

「……話が早くて助かるよ。本当に」

 なにか複雑な言葉で言いくるめようとするに違いないだろうと考えていたけど、鷹梨は姑息こそくに悪びれた顔をするまでもなく肯定してみせた。よけい清々しさが目につく。相手がわたしじゃなかったらその場で蹴倒けたおされていろ。

 しかし、今回の案件がそれだけ彼の心情を揺さぶっているという現実が、わたしには理解できなかった。だってやましいことは何もしてないのだぜ? 実家に勘当かんどうされた人間がそれほどおくびょうに身構えるべき問題じゃないはずだ。でも、もしかするとここでは、明かしかねる真相がほかにあるのか? 神妙な面前つらまえの鷹梨は何も言わない。わたしも返す言葉が見当たらないから、とにかく、わたしは彼に今の自宅へ案内するよう勧めた。そうするほかにないと、早くしろと、雲の垂れ下がった暗がりの空が、雨の湿気しめりけを匂わしていたからだった。


 西の町のどこかアパートに連れていかれたわたしは、彼が今やどんなにひどいところで生活しているのかというのを見せつけられた。棟割むねわ長屋ながやの片隅で、この時世にあり得てもいいのだろうかわからないような、立てつけ悪い引き戸を開けた先に玄関があった。

「まるで物置だな」「悪かったね。ていうか、毎月生活費払ってくれてるのに、ぼくがどんなとこに住んでるか知らなかったの?」「ぜんぜン。あんたが来てもおもしろくないとこだって言ってたからじゃない」という会話をした。彼の惨状を知ってやらなかったんじゃなくてわたしは、ただ知りたいと思わなかっただけなのだ、断固。

「それで、今も、その子っているんでしょ?」

 あたり前田のなんとやら、と部屋のふすまをひらく鷹梨。心なしか音を殺していた。

 さて、別に改行するほどのことでもないけど、居間には線の細い女の子が座り込んでいた。彼から聞いた話のとおりだ。母親とちょっとケンカしたくらいで逃げ出す意志薄弱そうなひとみの色をしている。部屋着はグレーのパーカーと太ももを見せたがるユルユルのショーパン。そのくせミディアムカットの髪を黄味にしっかりと染めて、顔周りは可愛らしく決まっていた。男の絵に描いたもち的理想像をこよなく体現したような、まさしくそういう感じが第一印象だった。

 わたしは、はっきりと自分が、人間を差別する人間なんだってことをこのとき思い出した。正味しょうみ1年間の輝かしい記憶の底に埋め立てていた、みにくくもいぢらしい自分らしさを、初対面の女の子の目の前で判然はんぜんと取り戻していた。なんで、どうしてだろう。

「カスミ、この子あんまりくちベタだからさ、優しくしてやってよ」

 観察的だったわたしの思考に、鷹梨の声が割り込んできた。そうだ今は彼らのめんどうをみなければいけなかったんだ……わたしはふたたび記憶の更新に目ざめて、無けなしの語彙ごいでこうあいさつをした。

「初めまして。鷹梨のパトロンやってる、カスミという者よ」

 すると女の子はぎょっとして当然鷹梨のほうを向いた。どういう口説き方をしていたか知らないけどこれで多少の信頼をうしなったに違いない。

「なんだかことがいろいろ差しせまってるみたいだから、単刀直入に聞くけど……」わたしは座布団のようなものの上に尻もちをついた。それはよく見るとのれんみたいに薄いしき布団だった。

「はい」

 女の子は可愛い声――まわりくどく言えば、上品でうやうやしく、不自然に媚びているようすのない心の清廉せいれんそうな声――をしていたから、わたしはさっきの第一印象を即座に撤回てっかいしたくなった。

「あなたって、鷹梨のことが好きなの?」

「はい」

「なるどね。ふーん……」

 わたしはぷいっと後ろの鷹梨を見た。彼は腕組みをして、目だけハエのように飛ばして、気まずい顔になっている。「なんだ、やることはしっかりやってるわけ」とわたし。「なんだよ。それがやましくて謝りに行くわけじゃないからな」と鷹梨。ひとしきり笑ってやってから当事者のもう一人に向きなおった。

「それが鷹梨をたよった理由ね、わかったわ。部外者のわたしじゃあなたの家のケンカの深刻度なんて知らないけど、それが家出で解決しないことくらい予想はできる。ここでいい考えがあるんだけど、鷹梨が今から専門(学校)をやめて小会社に従事してあなたのパトロンになるっていう口説き文句、どうかしら? お母さんも現実味にせて、許してくれるんじゃない?」

「はい。ありがとうございます」

「いや待て、なんでぼく抜きの将来設計がそうそうまかり通るの?」

「あんた抜きなわけないでしょ。ダシのメインよ?」

「そういう意味じゃないんです……って、もういいや」

 結局決定はそのままに、きたる25日、偶然のクリスマスはどうでもよくて歳末――郵便局がいそがしくなり出した時期にわたしたちは彼女の実家がある住宅地へおもむいた。別々の意味で両親をあざむくことになり彼女は最初不安を覚えていたけれど、三日を空けて鬼の形相ぎょうそうに変わっていた母親の面前にさいしてそのようなこと、ミジンコ並みにどうでもよく感じていたはずだろう。鷹梨もおびえていた。しかしわたしはその場でさえ「拙者せっしゃ、この男のパトロンでソウロウ」と胸張って自己紹介をした。

「パトロンのパトロン? まあいいわ。入ってちょうだい」と意外にもすんなり客間に通されたわたしたちは胸中で安堵あんどしていたものの終始たがいの表情を見ないようにしていた。それぞれ秘中の秘とでも言うべき思わくをかかえていたからだった。そして、どうせ飲まれることのない緑茶の碗を盆に乗せた母親がやっと席についたところで鷹梨が、まるでこれから「ぼくにお嬢さんをください」そう言い放ってもおかしくないいきおいではらを明かした。今日の鷹梨は、迫真の真面目まめんぼくだった。

明日あす、ぼくは学校のほうに、退学願を出そうと思います。それで少しでもまっとうな仕事に就いて、むすめさんの夢の一助になれたらいいな、と。ご両親の経済的負担もできるだけ無いようにします。だから、どうか……」

 話の腰を折るようだが、むろん、彼は女の子の母親に自分の身上しんじょうと女の子との関係以外の説明をまだしていない。おまけに母親は娘の進学(絵画の素養があるらしく、相当有名な美大志望だった)を多方面から認めていなかった。そこでおまえのような男が頭を下げて「だから、どうか」だの言っても、「だから、どうした」としか返す言葉がないに決まっている。そういうわたしの思考が態度に出ていて、かんさわったのか、女の子の母親はわざとがましくつぶやいた。

「それで、結局、鷹梨さんはこの子とそういう関係なの?」

「ええ、まあそういうというか、金銭面的にも精神面的にも支え合いたい仲って感じで」

 こいつ、なんて恥ずかしいことをぬけぬけと、とわたしは思った。自分のことのように恥ずかしくって思わず天井に振り仰いだ。そのまま見つめていようと心に誓っていた。

 すると、「夢ねえ……」と女の子の母親。「あんた(女の子)、ほんとにお絵描きを仕事にする気?」女の子は子ども扱いされたのがいやで眉を寄せているが、「はい」ときちんと肯定した。

「なんとなく、この子が家出をしたのはわたしのせいだってわかるんです。でも夢なんて言って、もう19ですから、できる限り早く自立させたいという気持ちがわたしにもあるんです、ご理解ください」

 その真摯しんしな言葉について、何がなんでも最終的には子どものためだと断言するものなんだな、とわたしは邪推した。別に、母親というだけで敵視することもないのに。どうしても「ジリツ」の三文字に、耳のうらを虫にでも這い回られるようなそんな不快感を覚えてしまっていたのだ。

「むかし、ある高校教師がですね、」

「短大に進学しようとしていたぼくに、フリーターになれと言ったんです。むちゃくちゃ嫌でした。彼いわくぼくはやらねば精神に取りつかれていたらしいです。社会に出て自分でお金をかせがなきゃ、立派にならなきゃ……」その話はわたしも聞いたことなかった。

「彼女のパトロンを買って出たのもそう、やらねば精神のせいです。ただ言い回し上の問題なんですよ、夢なんて。ぼくは病的に、彼女の支えをしたくなっただけなんです」

 鷹梨は早口ぎみに言い切った。女の子の母親のほうは咀嚼そしゃくし終えると、あきれぎみに「文脈が支離滅裂しりめつれつね」と告げた。

 今回のまとめと言えばいいのか、要するに、この会合で鷹梨と女の子の話が決着することはなかった。まるく収まったのは家出騒動と鷹梨のアパートを追い出されるかも不安の二点のみだ。あとはよく知らない。彼女に入口で手を振られてから、わたしと彼は歩いて西の町まで戻って来ていた。「ここって町中一緒の道路してるのね。さすがに見飽きたわ」「そりゃ、何年も見てるからでしょ?」だいたいに思われるのだけれど、一体ぜんたいこの会話とか一連の事件の何がそんなにおもしろいのか? ユキちゃんもおじさんもどうかしている。いや、もしかするといまわたしの書いているものがエッセイだと追及される可能性もある、だからおもしろくないんだ、とか。そんなことを言う人たちじゃないはずだけど、この真横でなみだぶくろをぴくぴくさせる男だとかは、悪びれることなく口にしそうだ。

「なに?」

「いや……鷹梨って、ちゃんと高校卒業してたのね」

「そうだよ。しかもあそこの理数科。カスミこそ高校はどうしてたの?」

 こういう、答えたところでとくに発展性のない問いは黙殺した。

「さっき言ってたこと、学校やめて仕事するってやつ、あれ本気だよ」

「はあ、なんで? 一時しのぎだってはなししたじゃん」

「……元々フリーターは一年でやめるつもりだったんだ。けど、気づいたら高校卒業した18歳からもう10年も経ってる。おかしいでしょ。そう思って性急に進路がっこうを決めたわりには、介護福祉士の仕事ってのにも正直言って前向きなわけじゃない。カスミと再会したときがその契機きっかけだったっていうのなら合点がいくんだ、なのに、ぼくは何もないタイミングで、将来観を決定づけてしまった。――だから固執するひつようもないんだよ」

 と、鷹梨は長ったらしくしゃべくった。

「カスミはどう、今の夢は、叶いそう?」

「そもそも、夢なんて……」

 わたしはその気がないままに言葉を濁した。

「カスミが自立できないのは、そういう性格のせいだとおもうよ。なんていうかまだ思春期が終わっていない、それこそ自分の自分らしさの体裁ていさいを、ずっと気にしているせいなんじゃないか?」

 と、いまだ幼なじみからの庇護をすて切れていない野郎は御大層ごたいそうなことを口にした。まったくそのとおりにわたしも認識していたはずだ。

 でも確かにわたし自身のなかに夢と誇れる野心とか理想像があったためしはなく、もし彼が比喩的な意味合いにした思春期を本当に謳歌していた時代にそのような思いがあったんだとしても、将来的にも、それが達成されることはなかった。つまりわたしの行動のすべてに、目的なんて初めから設定されていなかったのだ。ユキちゃんにわざわざ問われたこれまで数々の質問にも、頭から答える気が無かったのだ。ほんと嫌気が差す。わたしは、あいつらの思わくも知らないで自足と自立をはなっから履き違えていたんだ。だからいつまでたってもあの人たちの残したこの原稿を――任された寓意ぐうい的な記録を――書き上げられず、冗長にすごしているだけなのだ。社会不適合者にもほどがあるわ、わたし。

「ともかくもぼくは、ようやく自分の足で立つ機会を得た。どれだけ社会に揉まれたって、今後カスミをたよることはしないよ」それは、さっきの苦言を聞き入れながらにまたも自分独りの結論で自足まんぞくしてしまったわたしを見限るような、それでいて恩義を尽くすような、いわゆる婉曲えんきょくなものにひびいた。

 こののち鷹梨の脚はきちんと自宅の前で、振れるのをめた。よりどころに落ち着いた。安定感のある無表情とぎこちない目元の笑みだけで、わたしを見送った。……と思ったのに背中から、おいという声で呼んで来たのだ。わたしは冷静おもむろに振りかえった。

「なんだよ、もう……」

 それでも、あい同様に答えることはままならなかっただろう。いったい鷹梨がどういう意図でわたしを呼びとめたのか、考える余裕のないことくらい、手鏡てかがみ無しでも自分自身でよくよく知っていたから。

 鷹梨は、何か思い詰めた表情で言う。

「カスミ、自殺したりしないよな?」

「は? 重た。ばかなこと聞いてるんじゃないわよ」なんて答えておいて直後の瞬間には、鷹梨のインテリ(ジェンス)を鼻にかけたみたいなするどい目つきがひどく気になっていた。

「悪い、深い、意図はないんだ。じゃあね」

「そっ、か。うん。またね」

 この記述が、あくまで今日より昔の心象風景に基づいたエッセイであると真意に分からせられるがごとき冷血さと無知で、あのときのわたしは道路に視線を戻した。鷹梨との別れが彼の後援者を卒業することのほかに何を意味しているのかなんて、考えなかったのだ。





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