カスミさんVS鷹梨Mk.Ⅱ
あの日の観劇以来、雪が降っているのを見た記憶がない。それも視覚的な意味ではなく触覚的な意味でいえば、あの子とまじめに向き合った去年の12月を最後に、わたしの冬景色が更新されることはなかったはずだ。
「今年は異常気象がつづくなー……」
早朝、わたしは外の寒波のためにひどい厚着をして来て、ついに嫌気がさし軽々しくうめいた。このとき自分の町区のゴミステーションで作業をしていた。内側に密閉された
「さて一体、」どういうわけか、まだ空がほの暗い時分にもかかわらずポリ袋は山と積まれていたのだ。思うに、年の終わりが近いのでタイムリーにゴミを一気に出そうという主婦のぬかみそ臭い
ちなみにわが家のゴミを並べたお
「おっと、家庭ゴミは個人情報が詰まってるって言うものね。
そこにわたしは立ち上がる。うるさいゴミ袋から離れて気づいた。
「あの、しばらく話し相手になってくれませんか?」
それに対応する相手の返事は「はあ?」ときまっている。ただ
「いや。待って。あなた、お店で会ったことあるかしら?」不快感情をはやく取り消したかったからか、女性のほうから声を上げた。わたしがそう聞かれてはたと思い出したのは、今年の7月、ユキちゃんの服をあたらしく買いに行った店で応対してくれた「おしゃれな若い女性」の姿だ。もっともそれはカン違いだと理性がすぐに訂正することになった。――言い換えれば、わたしはあのときの正真正銘美人がただの表皮で、今のつまるところ中身が中年を
「あの、よければうち近いので、お茶でもいかがですか。あと、わたし、カスミです」
「あら、いいの? なんだか良くしてもらって、悪いわね」
もうおばさんの井戸端会議と誤解されても知るもんか、わたしの寂しさを埋めるために必要なのは独りで考える時間ではなく、だれかと過ごすむだなひとときなのだから。そう決めつけて、片づけを終えた二人で外へ出た。半身が浮くような強風が吹いていた。
しばらく歩いて、二階建てのうちが見えてきたあたりでわたしの目はとある一点に止まった。そこにはヒモの
「鷹梨っ!」
いやおうなしにわたしは怒鳴りつけた。約束も何も取りつけず、彼が自宅をおとずれるのがあまりにも身勝手に感じたからだ。しかしそれが万が一赤の他人だったなら、なんてことを考える余地もなく、鷹梨はのんびりと声に反応して首をかしげた。追いかけて来たわたしにえらく驚いているようで態度のわりに、こちらを向いたときどことなく不安げな顔色をしていた。
「あんたなんでここにいるのよ、バイトは?」
「いや。今日は休ませてもらったんだよ。それよりもカスミ……」
ん、なんだよ、と聞いたところで、鷹梨のようすがおかしくなる。もともと自信無さげの肌合いのものがなおさらトーンを落とし、変調して一種の錯乱状態のようだった。「ぼく、近いうちに逮捕されるかもしれない……」
「あら、そうなの。原因は?」「まじめに聞けよ」
「バイト先の同僚の女の子をかくまってたら、向こう方の母親に捜索願を出されて、警官がうちに来て、任意同行するようせがまれたんだ!」それは鷹梨がこう言う人間であることを
「その口ぶりだとどうにも悪徳だけど……どうなの?」
「どうも何も、その子が家出して帰る場所がないって言うから二晩泊めただけさ。なのに、どうしてこうなっちゃうかなあ……わるい評判立つよなあ。家追いだされたりしたらどうしよう……」
「そうなったらせめて、うちに泊めてあげるよ」
あくまでも徹底的に、わたしは鼻で笑ってそう突っ返していた。鷹梨はもしかするとキレるかもと思っていたけれど、決してそういうわけじゃなかった。鷹梨がぐちを言うためだけにここへ来たと初めに決めつけなかった時点で、なんとなくわたしには察しがついていたのかもしれない。
「それで? せめてもの罪滅ぼしに、親御さんに
「……話が早くて助かるよ。本当に」
なにか複雑な言葉で言いくるめようとするに違いないだろうと考えていたけど、鷹梨は
しかし、今回の案件がそれだけ彼の心情を揺さぶっているという現実が、わたしには理解できなかった。だってやましいことは何もしてないのだぜ? 実家に
西の町のどこかアパートに連れていかれたわたしは、彼が今やどんなにひどいところで生活しているのかというのを見せつけられた。
「まるで物置だな」「悪かったね。ていうか、毎月生活費払ってくれてるのに、ぼくがどんなとこに住んでるか知らなかったの?」「ぜんぜン。あんたが来てもおもしろくないとこだって言ってたからじゃない」という会話をした。彼の惨状を知ってやらなかったんじゃなくてわたしは、ただ知りたいと思わなかっただけなのだ、断固。
「それで、今も、その子っているんでしょ?」
あたり前田のなんとやら、と部屋の
さて、別に改行するほどのことでもないけど、居間には線の細い女の子が座り込んでいた。彼から聞いた話のとおりだ。母親とちょっとケンカしたくらいで逃げ出す意志薄弱そうな
わたしは、はっきりと自分が、人間を差別する人間なんだってことをこのとき思い出した。
「カスミ、この子あんまり
観察的だったわたしの思考に、鷹梨の声が割り込んできた。そうだ今は彼らのめんどうをみなければいけなかったんだ……わたしはふたたび記憶の更新に目ざめて、無けなしの
「初めまして。鷹梨のパトロンやってる、カスミという者よ」
すると女の子はぎょっとして当然鷹梨のほうを向いた。どういう口説き方をしていたか知らないけどこれで多少の信頼をうしなったに違いない。
「なんだかことがいろいろ差し
「はい」
女の子は可愛い声――まわりくどく言えば、上品で
「あなたって、鷹梨のことが好きなの?」
「はい」
「なるどね。ふーん……」
わたしはぷいっと後ろの鷹梨を見た。彼は腕組みをして、目だけハエのように飛ばして、気まずい顔になっている。「なんだ、やることはしっかりやってるわけ」とわたし。「なんだよ。それがやましくて謝りに行くわけじゃないからな」と鷹梨。ひとしきり笑ってやってから当事者のもう一人に向きなおった。
「それが鷹梨をたよった理由ね、わかったわ。部外者のわたしじゃあなたの家のケンカの深刻度なんて知らないけど、それが家出で解決しないことくらい予想はできる。ここでいい考えがあるんだけど、鷹梨が今から専門(学校)をやめて小会社に従事してあなたのパトロンになるっていう口説き文句、どうかしら? お母さんも現実味に
「はい。ありがとうございます」
「いや待て、なんでぼく抜きの将来設計がそうそうまかり通るの?」
「あんた抜きなわけないでしょ。ダシのメインよ?」
「そういう意味じゃないんです……って、もういいや」
結局決定はそのままに、
「パトロンのパトロン? まあいいわ。入ってちょうだい」と意外にもすんなり客間に通されたわたしたちは胸中で
「
話の腰を折るようだが、むろん、彼は女の子の母親に自分の
「それで、結局、鷹梨さんはこの子とそういう関係なの?」
「ええ、まあそういうというか、金銭面的にも精神面的にも支え合いたい仲って感じで」
こいつ、なんて恥ずかしいことをぬけぬけと、とわたしは思った。自分のことのように恥ずかしくって思わず天井に振り仰いだ。そのまま見つめていようと心に誓っていた。
すると、「夢ねえ……」と女の子の母親。「あんた(女の子)、ほんとにお絵描きを仕事にする気?」女の子は子ども扱いされたのがいやで眉を寄せているが、「はい」ときちんと肯定した。
「なんとなく、この子が家出をしたのはわたしのせいだってわかるんです。でも夢なんて言って、もう19ですから、できる限り早く自立させたいという気持ちがわたしにもあるんです、ご理解ください」
その
「むかし、ある高校教師がですね、」
「短大に進学しようとしていたぼくに、フリーターになれと言ったんです。むちゃくちゃ嫌でした。彼いわくぼくはやらねば精神に取りつかれていたらしいです。社会に出て自分でお金をかせがなきゃ、立派にならなきゃ……」その話はわたしも聞いたことなかった。
「彼女のパトロンを買って出たのもそう、やらねば精神のせいです。ただ言い回し上の問題なんですよ、夢なんて。ぼくは病的に、彼女の支えをしたくなっただけなんです」
鷹梨は早口ぎみに言い切った。女の子の母親のほうは
今回のまとめと言えばいいのか、要するに、この会合で鷹梨と女の子の話が決着することはなかった。
「なに?」
「いや……鷹梨って、ちゃんと高校卒業してたのね」
「そうだよ。しかもあそこの理数科。カスミこそ高校はどうしてたの?」
こういう、答えたところでとくに発展性のない問いは黙殺した。
「さっき言ってたこと、学校やめて仕事するってやつ、あれ本気だよ」
「はあ、なんで? 一時しのぎだって
「……元々フリーターは一年でやめるつもりだったんだ。けど、気づいたら高校卒業した18歳からもう10年も経ってる。おかしいでしょ。そう思って性急に
と、鷹梨は長ったらしく
「カスミはどう、今の夢は、叶いそう?」
「そもそも、夢なんて……」
わたしはその気がないままに言葉を濁した。
「カスミが自立できないのは、そういう性格のせいだとおもうよ。なんていうかまだ思春期が終わっていない、それこそ自分の自分らしさの
と、いまだ幼なじみからの庇護をすて切れていない野郎は
でも確かにわたし自身のなかに夢と誇れる野心とか理想像があったためしはなく、もし彼が比喩的な意味合いにした思春期を本当に謳歌していた時代にそのような思いがあったんだとしても、将来的にも、それが達成されることはなかった。つまりわたしの行動のすべてに、目的なんて初めから設定されていなかったのだ。ユキちゃんにわざわざ問われたこれまで数々の質問にも、頭から答える気が無かったのだ。ほんと嫌気が差す。わたしは、あいつらの思わくも知らないで自足と自立を
「ともかくもぼくは、ようやく自分の足で立つ機会を得た。どれだけ社会に揉まれたって、今後カスミをたよることはしないよ」それは、さっきの苦言を聞き入れながらにまたも自分独りの結論で
こののち鷹梨の脚はきちんと自宅の前で、振れるのを
「なんだよ、もう……」
それでも、
鷹梨は、何か思い詰めた表情で言う。
「カスミ、自殺したりしないよな?」
「は? 重た。ばかなこと聞いてるんじゃないわよ」なんて答えておいて直後の瞬間には、鷹梨のインテリ(ジェンス)を鼻にかけたみたいな
「悪い、深い、意図はないんだ。じゃあね」
「そっ、か。うん。またね」
この記述が、あくまで今日より昔の心象風景に基づいたエッセイであると真意に分からせられるがごとき冷血さと無知で、あのときのわたしは道路に視線を戻した。鷹梨との別れが彼の後援者を卒業することのほかに何を意味しているのかなんて、考えなかったのだ。
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