ファイナルラウンド 竜虎の拳
カイリは自分の指導法に疑問を抱き続けていた。彼に教えた技術はこれでよかったのか。あの技術を教えていれば、この戦局を打開したのではないか。何度も何度も心の中で自分に最善を問い直す。それは今の自分には竜也を救う事が出来ないという無力感の裏返しでもある。
カイリにはリングで生殺しにされる竜也に何もしてあげられなかった。もういっそ試合を止めてくれとすら思った。そんな時、カイリの背後で声が聞こえたのだ。その女の声で、竜也はこの絶望的な状況から一時的に生還した。
カイリは、聞き覚えのある声に振り返る。そこに誰がいるかをしりながら。
「どうしてあなたがここに」
黒いシャツに黒いジーパン。枝垂れのような前髪から放たれる毒々しい眼光。そしてその項で揺れる赤いリボン。地獄の底から派遣された悪魔のような異様な空気の持ち主。
格闘ゲーマー幸律虎子がそこにいた。
「……前と同じ。アレクに呼ばれた」
言いながら幸律はセコンドだけに配られる入場許可のパスをこれ見よがしに見せた。それをしまうと、幸律は一度ポケットに手を突っ込んだ。
「ほらよ」
幸律が何かを親指で弾く。キン、と甲高い金属音とともに銀色の硬貨が放物線を描いてカイリに飛んできた。右手で受け取ってみると、それは一枚の百円玉だった。
「その台、アタシが貰う」
言うと幸律はカイリの横に並び立ち、指示を出し始めた。
「RWの大パンから打ってけ! 至近距離の攻撃は全部ファジーで対応しろ!」
幸律の指示で、明らかに唐澤の動きが鈍った。カイリは頃合いを見計らい
「どういう風の吹き回しですか」
幸律は戦う二人から目をくぎ付けにしたまま答えた。
「過保護なのは承知してる。だけどな、場合が場合だ。アイツはもう二度と理不尽な都合に運命を左右されちゃいけない」
「本当にそれだけですか?」
「逃げても構わん! 泥臭く生き残れ! ――相棒の席が恋しくなったってのはある。恋人なんて柄じゃないが、肩を並べて戦う役は誰にも譲りたくないのかもな」
指示を飛ばす幸律の顔はカイリが見た中で最も活き活きとしている。戦う竜也も動きと冷静さを取り戻し、曲がりなりにもなんとか唐澤の攻撃を凌いでいる。
「なんせ状況はイレギュラーだ。この試合、アタシが預かるけどいいか?」
カイリは小さくため息をついた。百円をポケットにしまい、前を向く。
「アイツを、頼みます」
幸律は「おう」と短く返事をした。
明らかに唐澤のリズムが崩れるのが分かった。虎子は一体唐澤の何を見ているのだろう。しかし、攻撃の切れ味は変わらない。しばらくするとまた以前の回転力を取り戻し、竜也は守勢に回る。再び拳の烈火が竜也の体表に降り注ぐ。
唐澤は冷静だった。殺意の籠った眼と、銃弾の様に放たれる鉄拳。その隆々たる身体は疲労など感じないかのように躍動する。だが――
「いいぞまだ大丈夫だ! アークゲーやってんだろ! 体力が一ドットになっても諦めるな!」
虎子の声は竜也に絶望を与えてくれない。
「LWだ。フックを叩き込め!」
竜也は自ら間合いに入って左のフックを放った。完全な技術不足で威力は乗っていない。それでも
「構わん! ガードの上からガンガン打ってけ!」
虎子はコマンドを出しつ続けた。竜也は虎子の指令に何の疑問も持たない。虎子の細かい指示の通り竜也は動いていく。動いていく中で、竜也は少しずつ、余裕を持ち始めた。いつしか竜也は唐澤の動きを読むようにカウンターを回避し、虎子の命令を待たずに左のフックを唐澤に当てる。
虎子の言葉で戦況が好転したかに思えた。だが、唐澤の厚みはそれ以上だった。後ろで括られた髪を火砕流のように振り回す大胆な動きで軽いジャブを浴びせると、竜也に打ち合いを仕掛けてくる。
「お前はここで落ちる」
荒れ狂う獅子の様な威圧感が唐澤の総身から吹き荒れる。竜也が盛り返せば、それ以上の力でねじ伏せて来る。竜也はそれに戦慄を覚えずにはいられない。
「呑まれるな! 相手は人だ! 冷静に出来ることをやれ!」
押しつぶされそうになる心を幸律の声が支えた。幸律はいつも具体的なアドバイスと、心理的に支えになるアドバイスの二つを竜也に送る。それは竜也の心に心理的高揚とは逆の鎮静作用を齎した。
竜也は息を吐き、身体の力を抜いた。バックステップで蹴りを交わし、遠間からの飛び蹴りを防ぎ、竜也は耐え忍ぶ。一撃必殺の打撃が幾度も竜也の急所を掠めた。
終わりのないかと思われる打撃の雨。
「ストップ!」
それが、レフェリーの声をきっかけにようやく上がったのだった。
竜也は第三ラウンドの判定を全て唐澤に取られた。これで竜也が勝つには唐澤を倒す以外の道が無くなった。身体は傷と痣まみれで身体中は赤く腫れあがっている。呼吸は荒い。全身を流れ出る汗は血を吸って赤くなっていた。
でも、竜也の側には相棒がいた。
「よく凌いだ」
虎子は竜也の肩をポンポン叩いた。
「だけどボロボロだ」
「死ななきゃ安いってやつだ」
竜也ははれ上がった患部に治療を施されながら虎子の方を見る。
「お前が左を入れたことで逆転の布石が打てた」
虎子はいつもそうだった。竜也が勝つ前提でアドバイスを送る。それが竜也にはこの上なく頼もしい。
「唐沢の意識のバランスが崩れた。今度はお前の右が当たりやすくなったはずだ」
「どういうことだ?」
虎子は笑う。
「からくりは後で教えてやる」
致命傷にもなっていない左のフック。そいつがそれほど劇的に相手の心理を変えてしまう、などということがあるのだろうか。だけど、竜也はもう疑問を口に出さない。
「分かった。右カウンターだな。だけど、ゼロコンマ五秒のタイミングで反応できるかな」
「れーてんごびょう? 三〇フレームありゃ十分だろ」
本当に格闘ゲーム脳だな、と竜也は苦笑いを浮かべた。
「蹴りやパンチの上下の打ち分けはどうする?」
「見えない二択はどう防御するか教えただろ?」
「……迷わない。どちらかを捨てる潔さ」
「その通りだ。これはどう凌ぐかの戦いじゃない。お前がどう追い詰めるのか、そういう戦いだ。狩人の心を忘れるな」
セコンドアウトの時間が訪れ、竜也は勢いよく立ち上がる。
「虎子、もう遅刻すんなよ」
閉じられた金網の向こうから虎子の声が帰って来る。
「ばーか。試合が面白くなくなるだろ」
第四ラウンドが開始される。相変わらず竜也は唐澤の攻撃に翻弄され、ステップと迷いのないディフェンスでなんとか攻撃を凌いでいる。唐澤のミドルキックは兎に角厄介で、間合の外から竜也の体力を削っていく。
「どうして唐澤はさっき攻め手を緩めたんでしょう」
「中学生時代、カナダで開かれた極真空手の世界大会。あいつはそこで左のハイキックを受けてる。右ストレートを出したカウンターにな」
「あぁ。幼少時代の映像は私も見てます」
「あれ以来、唐澤は右のガードを徹底させた。つまりトラウマになったってことだな」
「だからワンツーパンチが多いのか。左でうまく距離を調整しないと右が打てない」
もっともこれは唐澤を完全に分析したもの同士でしか成しえない会話だ。
「竜也がしきりに左を相手の右側に当てることによってアイツのトラウマを無理やり呼び起こした」
「だから、意識が右のガードに寄って、左のガードが手薄になっている」
金網の外から見ていた虎子はふとカイリに問うた。
「お前、カウンター教えてあるよな」
「一応は。実戦で使えるかは分かりませんが」
「じゃあ後はアイツ次第か」
「……防戦一方ですね」
「反撃のための必要経費だ。さっきの殺戮ショーよりは随分とマシな立ち回りしてる」
「――たしかに、被弾する打撃の数は少なくなってます。ですが、竜也はそれ以上に満身創痍です」
「……前にやったバーチャロンってゲーム覚えてるか?」
「え、ええ」
「あれはな、体力の有利を取り合うゲームだ。体力のリードを奪われれば相手は全力で逃げる。こっちはそれを死にもの狂いで追い詰める。私が最初に使わせたアファームドコマンダーってキャラで、こいつがひどく器用貧乏なキャラでな」
「はぁ」
「どんな局面でも冷静に、そして確実にチャンスをものにしていかないとまず勝てないキャラだ。私はそれを何十時間も使わせることでアイツに戦いのイロハを教えた」
「今回もそうだと?」
「ああ。コマンダーと違ってアイツの動きは悪くないし、攻撃のキレもいい。やっぱりお前に預けて正解だった」
「ふん。あなたに言われるまでも無く最善を尽くすのがトレーナーの仕事です」
「いい自信だ。アタシに任せるとか言ったが、目は二つより四つ、四つより六つあった方がいい。何か気が付いたら言ってくれ」
「分かってますよ」
その後虎子は二人の戦いぶりを見ていた。黙って。何も指示も出さず。今は現場(たつや)の判断に任せるのが最善だと考えていたからだ。反撃のタイミングは教えてやることはできない。本人がタイミングを掴むしかない。
「……竜也、タイミングの取り方、覚えてるよな」
アファームドザコマンダーは頼りのない武装で地道に攻めながら、近接攻撃を狙っていく。そんなキャラだ。竜也はその戦い方を脳内にインストールさせた。
――GET READY?
という機会音声が竜也に降りて来る。そして竜也の世界は加速する。唐澤の攻撃を躱し、防御ではじき返し、そして時に受けながらも致命傷を避ける。
唐澤は殺気を纏った眼光を突き刺しながら、竜也に攻撃を仕掛けた。左のジャブから右のストレート、距離を取れば蹴り、そしてそれを機関銃のように繰り出す圧倒的スプリント力。
――たしかに、攻撃が単調になっている気がする。
フェイントが少なく、左のジャブから次の攻撃に移るまでの時間がすこし鈍っている。右手のガードは顔の高さまで上がり、左肩にはやや緊張が見られる。
――片方に意識が行ってるんだ
通常こういった場合は左のボディを打ちこんで体力を削ってもいいのだろうが、もうそんな悠長な戦法をとっているほどの時間はない。
「シッ」
唐澤の放ったミドルキックを竜也は躱した。
――目が慣れ始めた。距離も掴みだした
竜也の心にまた少し余裕が生まれた。
「余裕が出来たって面だな」
――え?
唐澤の身体が回転する
――何をして
左足を軸に唐澤の身体が旋風のように鋭く回転し、そこから槍のような蹴りが放たれる。
――後ろ回し蹴り!
腹部を凄まじい衝撃が貫く。竜也の腹部に足がめり込んでいた。
竜也は一瞬膝をつく。
次の瞬間竜也が見たものは火竜の如き形相で殺到してくる唐澤の姿だった。竜也は素早く立ち上がり、迎撃態勢を取る。火竜の爪をあえて額で受け、その牙を、体を崩して強引に避ける。
「その魂の残りカス、今ここで喰らってやる」
唐澤は竜也を逃がさない。終わりなき打撃の乱舞が竜也の間合で吹き荒れる。無尽蔵ともいえる持久力の賜物だった。竜也は再びじりじりと形成を返され、金網際まで追い詰められる。
「背後が崖のほうが良かったかもな」
竜也はなおも左の腹を庇う素振りを見せた。膝は芯を失って弛緩し、押せば倒れるのではないかというほどのダメージだ。
唐澤がトドメを刺しに来る。左のステップを踏み、左拳が微動するその一瞬。
竜也の世界はスローモーションで流れ始めた。
この時、竜也の頭は驚くほど冷静だった。自分が追い詰められていることも、よく理解していた。
カイリによれば、唐澤はパンチで試合を終わらせるのを好む。
虎子によれば、唐澤の左側は防御の意識が薄れている
……ここだ
竜也の脳はたった六十分の一秒の間に常人離れした演算を開始する。山脈たる経験の蓄積から虎子の声が聞こえる。
――いいか、相手がトドメを刺しに来る時はチャンスだ。殺す気で攻めて来る敵は最も隙がデカい。
唐澤の打った左ジャブ。それは極真空手時代の癖か、顎ががら空きにしつつ、なおかつ重くやや遅いパンチだった。竜也の全身に芯が通う。ここまで温存していた体力を一気に解放する。起死回生のカウンターを放つべく。
――いや、ズレている!?
竜也は拳を打つ前にタイミングのズレを確信した。
いいか竜也、六道烈火を決めるコツはな時間を調整する事だ。
時間?
アタシだってタイミングがずれそうな時がある。だからレバーを動かしてボタンを押すまでに時間を調整するようにするんだ。
意味が分からん。
例えばタイミングが遅いと感じたらボタンを早く押し、早いと感じたらレバーの入力を気持ちゆっくりにする。
そんなの実戦でできるのか?
慣れれば分かるさ。後は練習だ
――時間を調整する……
竜也は右足のタメを少し重くする。まだ早い。足が地を蹴り身体が旋回する。拳が投げ出される瞬間に肩を力ませる。もう少し。そしてフックの軌道を少し大きくする。
それは丁度唐澤のジャブが伸び切ったのとほぼ同時だった。
そのがら空きの顎に、竜也の解き放った右フックが向かう。来る結果を確信した全身が歓喜に打ち震えた。それほど完璧なタイミングだった。
「チェストオオオオォォォ!」
拳が顎を打ち抜く感覚。はじけ飛ぶ唐澤の汗。唐澤の身体が水の様に脱力し、後方に一歩二歩とたたらを踏む。唐澤はその一瞬、ただ立っているだけだった。
完璧な手応え。
だが、踏み込みに力が入らなかった。六道烈火が万全の相手を仕留めきれないのと同じように、それは唐澤の体力を大きく奪い取ったに留まる。でも、でも……
「竜也ぁ! ワンチャン来たぞ!」
戦況は完全に逆転した。
アファームドコマンダーはアファームドバトラーへとそのフォルムを変える。バトラー。それは接近戦に最も特化したバーチャロイド。
平常心を失って目を向く唐澤に竜の双牙が襲い掛かる。左のジャブが唐澤の額を跳ね上げ、大振りの右ストレートを唐澤のガードの上にねじ込んだ。
「LWとRWをバランスよく使え! 戦術を崩壊させろ!」
虎子の言う通り竜也は両手をトンファーの様に振り回し、強烈な左右のフックを唐澤のこれでもかと叩きこむ。ここまで温存していた体力のリソースを攻めのエネルギーに変換し、竜也は暴走した兵器の様に荒々しく拳を浴びせていく。
唐澤は完全に防戦一方に転じていた。
観客は静まり返り、やがてどよめきが生まれ、いつしかそれは歓声に変わった。
格闘技ファンは予定調和なKOを好む。だが、それ以上に逆転が大好物なのだ。唐澤の背中を後押ししていた歓声が、今度は一転して竜也の背中を押す。
竜也は拳を打つ。とにかく打つ。ステップで角度をつけ、時にフェイントを混ぜ、竜の牙が唐澤のガードにボディに食らいつく。唐澤の眉間に深い皺が刻まれ、ステップが緩慢になる。
その時虎子の声が聞こえた。
「反撃(リバーサル)!」
視界の隅から居合切りのように放たれたショートフックが竜也の眼前を掠めた。小回りの利いた打撃が次から次へと竜也の顔に襲い掛かる。竜也はその全てを回避し、鋭いジャブを唐澤の顔面に叩き込んでいく。
一撃、二撃と唐澤の顔がのけ反り、唐澤は金網まで追い詰められた。唐澤は妖怪でも見るように目を見開き、呼吸を荒くして金網にもたれ掛っていた。3Rまでは傷一つなかった身体は赤くなり、鼻からは僅かな出血が見られる。あと少しで勝利がその手に掴む。誰もがそう思った。
だが、この場で竜也と、恐らく虎子はそう考えてなかった。
ガードを固め、その間から血走った眼でこちらを睨む唐澤。このガードの奥にある勝利の遠さを、竜也は全身で感じ取る。
「竜也、リバーサルは反確をとっていけ!」
唐澤の返すパンチに竜也はジャブを叩きこむ。唐澤は攻撃の精彩を欠いていたが、決して致命傷は貰わない。顎を肩口に隠し、KOを防ぐべくしっかりと防御を固める。
それは技術というよりは執念の様にも見える。
竜也は気味の悪さを心に抱えながら、終に、4R終了のゴングを聞いた。
コーナーに戻る頃には竜也は体力をかなり消耗していた。帰るとまずは虎子が竜也を出迎えた。
「いいカウンターだった」
「ああ」
竜也は浮かない表情で椅子に座る。
「竜也、気付いてるか?」
竜也は意味深に頷いた。
「勝負の性質が変わった」
「お前の言う通りだ。恐らく勝利はさっきよりも遠くなった」
虎子の言葉にカイリが驚きをもって反応する。
「遠くなったって?」
「後で説明する。ここから主導権を握りつつ相手を崩しにかかる」
「どうすればいい」
「最終ラウンドの五分、相手はどこかでミスをする。その機を絶対に逃すな」
「それを逃したら負ける、か」
「ああ。だが、お前にはカイリやアレクの教えた技がある。その懐刀は必ず相手の心臓に刺さる」
「そういうのは、」
竜也は様々なことを頭に思い描き微笑する。
「得意だ」
「その意気だ。アイツの蹴りはかなり錆びついてる。蹴りが打てなくなったら攻撃を左右に散らしていけ」
「分かった」
セコンドアウトのコールが会場に響き渡る。泣いても笑っても、後五分以内に決着はつく。だけど、竜也も虎子も薄々分かっていた。
竜也の拳にはもう、唐澤を仕留める力はないことを。
唐澤にとって戦いとはゴミの掃除に似ていた。どいつもこいつも、自己満足の努力をして強くなった気でいる雑魚ばかりと思っていた。唐澤の拳は容易くなぎ倒してきた。
ある日暇つぶしにインターネット中継の格闘ゲームの大会を見ていた。賢明な彼はその戦いのレベルを理解していた。これほどの熱戦を演じることが出来れば、どれほど自分は充実するだろうか。それは嫉妬に近い感情だった。幸か不幸か、彼はその日のうちにその格闘ゲーマーと出会う。
あの画面の中にいた格闘ゲーマーが目の前にいる。愛朽竜也を初めて目の前にした時、唐澤の中に生まれた欲望。コイツを、こっちの世界に引き込めれば、もしや――
唐澤はハッとした。今唐澤は椅子に座っている。それを尻の感覚で理解した。
「あれ、俺、一体どうなって」
愛朽のカウンターが飛んできたところまではまだ覚えている。
「まさか、」
「記憶が飛んだか」
セコンドの松田が言った。だが完全に記憶が飛んだわけじゃない。愛朽竜也の猛攻をなんとかしのいでいたことは薄らと思い出せる。その記憶が描いた愛朽竜也という男の実像。
「野郎、やりやがった! やりやがった! あそこからひっくり返しやがった」
唐澤は独語するようにぶつぶつとそう言った。
「あの途中から現れた女子高生が来てからまるで別人のようになった」
セコンドの松田は注意深く金網の向こうにいる目つきの悪い女性を睨む。
あの女が来てから、未熟な格闘家の面の皮が剥がれ、怜悧な死神が金網の中に降臨した。戦った者だけが肌で感じる、愛朽竜也の変異。それはまさしく異常事態だった。
「あの野郎、狙ってやがった。あの中で俺を殺すタイミングを狙ってやがった」
セコンドが動揺する唐澤の肩に手を乗せた。
「お前でなければやられていたな」
セコンドの松田は唐澤の練習をずっと見てきたコーチだからこそ唐澤を落ち着ける方法を知っていた。
「お前が初めてぶち当たった壁だ。思い切って戦って来い」
唐澤の肩から余計な力が抜ける。そうだ。自分は弱者を狩る狩人ではない。自分より強い相手を喰らう飢えた狼だ。そのために獅子を自ら自分の檻に招いたのだ。
セコンドアウトのコールが聞こえる。
「……勝ってくる」
そう言った唐澤の顔はいつになく大人びて見えた。
唐澤は頭の位置をやや後ろにし、身体に一本の芯を通したように竜也の前に佇んでいる。
――落ち着いているな
格闘技において怒りや憎しみといった、「高ぶる感情」はほとんどの場合マイナスに作用する。ここで高ぶった感情をクールダウンできるのは強者の証ということだろう。
しかも竜也はラウンドを四つとられている。判定までもつれ込めばそれで負けが確定する。唐澤はその利を存分に生かし、竜也の攻撃を待つことにしたのだ。この牙城を崩すのは至難。不可能に近いのかもしれない。
竜也の脳裏に描かれる画面の中で幾百、幾千、幾万、と繰り返された戦い。それが一人の人間に凝縮され、一つの戦闘哲学となって全身に浸潤している。
難攻不落の防御を崩す。大丈夫
「それは得意だ」
竜也の果敢な攻めを、今度は唐澤がバックステップでいなしながら、鋭い蹴りやジャブを返していく。それを眺めながらカイリが
「勝ちが遠くなったってどういう意味ですか?」
「言葉の通りだ。あのカウンターが唐澤を冷静にさせた。唐澤の立ち回りを見ろ。ステップで距離を放し、自分からは無理に攻めて行かない。隙が見えた時だけコンパクトにパンチを打ち返し、時折KOを狙えるパンチを打ってる」
「たしかに慎重な立ち回りですが」
「身の程が分かったのさ。アイツは格下の相手を右の拳で仕留めることに拘ってきた。だけど、竜也は自分のエゴを押し付けて勝てるような相手じゃないって気付いた。だから今、アイツは自分が勝には何が必要か理解した上で戦ってる。土壇場でそういう切り替えが出来る奴ってのは、どんな競技でも強いんだ」
「じゃあ一体どうやってアイツを倒すんですか」
虎子は相手を鋭い眼光を唐澤に突き刺したまま答えた。
「布石は打ってある。後はアイツと、アタシ達次第だ」
きっかけは唐澤が遠距離から放ったミドルキックだった。こん棒のように薙がれたそれを、竜也の腕が蛇のように捉えた。
「チッ」
唐澤は強引に足を振り抜き、一回転して竜也と向かい合う。その間に竜也は自分の距離の中に唐澤を引き入れていた。
「久し振り」
竜也のジャブが唐澤の顔を跳ね上げ、続く強烈な右フックが側面を捉えた。なおも竜也の攻撃は続く。ジャブを浴びせて返ってきたフックを華麗に躱した。その一瞬、竜也の時間は限りなく引き伸ばされた。
竜也は一瞬で唐澤の左に移動し、角度を付けて強烈な打撃を浴びせ続ける。その返す拳をブロックとダッキングで退ける。蹴りは腹で受け、その隙に無数の攻撃をねじ込んでいく。
「翳楼か」
「すごい、」
カイリも唖然とした。竜也のステップのリズムが変わっていたのだ。
「さっきまでワンステップで攻撃に入っていたのに、ツーステップに切り替えて攻撃のリズムを変えている」
「ステステ。動作をキャンセルして別の動作につなげて自分の攻撃を読みづらくする」
竜也の最も恐ろしいのは戦いになった時のアドリブと独創性である。
「アイツの戦いには決まったセオリーが無い。いや、セオリーを途中で変えれると言ったほうが正しい。ああやって複数の攻撃を織り交ぜる事で相手の思考メモリを圧迫するんだ」
それは虎子だけが知っていた竜也の特殊能力である。いや、その事実に気付いていた者はもう一人いた。
唐澤の思考は思考の体裁を保つのに精いっぱいだった。
距離を取った。その瞬間、竜也の身体が一足飛びで間合いに侵入してくる。カウンターを打つ。だがそれは躱されその隙に反撃が飛んでくる。唐澤の顔が打撃でのけ反った。顔は痛覚を失い熱を持つ。それ以上に心は深刻だった。
右か、左か、どこからくる、どこかから、どこから
左のフックの二連打、終わってもう一度左のフックの二連打。その度に唐澤の空手時代のトラウマが再生される。右のストレートに合わせられた左のハイキック。幼少の時の恐怖が今、圧倒的な臨場感を持って唐澤を襲う。竜也が、そうさせている。
――なんだこいつは、一体何をすればこんな年齢でこれ程の戦闘技術を体得できるのだ
唐澤がエゴを捨て勝ちに徹してもしのげない攻撃。決して情熱的でもなく凶暴でもない。平均的な格闘家の筋肉を纏った、平凡な男のはず。だが、その中に入っているのは歴戦のサイボーグだ。
――こいつ、俺が予想した以上にやべえ
だが、唐澤も異常者だった。
普通の人間ならばここで相手の攻めに屈服していただろう。だが、唐澤は違った。唐澤一徹は、どこまでも一流の格闘家だった。
――成程。そういうことか。
唐澤はエゴと不要な自信の殻を完全に脱ぎ捨てる。肩の力を抜き、両掌を広げ、顔の高さで相手に向けた。両手で一枚の壁を作るような特殊な構えだ。
「認めてやる。お前は俺より強い」
飛んできたジャブを唐澤の前手がまるでカーテンのようにいなして落とす。ジャブはそれで全て弾き落とし、タックルは足を後方に投げ出して潰す。後は絶妙のステップワークで竜也の全ての攻撃を迎撃する。それは唐澤が今まで見せたことの無い構え。
唐澤の空手家としての経験から引きずり出した、最適解だった。
防御の型が変わった!?
唐澤は両掌を相手に向け、ステップワークで距離を取り乍ら竜也の攻撃を待ち構えている。それは一枚の分厚い鉄の盾にすら見えた。
竜也の攻撃が全て弾かれる。ローキックは必要経費とばかりに足で受け止められ、全ての種類のパンチが唐澤の顔に届くことすらなくなった。
恐らくこの攻めは難攻不落ではない。必ず落とす方法がある。
しかしそれは時間が十分にあればの話だ。竜也は既に攻撃に三分以上の時間を費やしている。そこで型を変えられるのは竜也にとっては殴られるよりも致命的な一手だった。
――成程、実力を見誤っていたのはお前だけじゃないということか
竜也は攻撃を止めない。攻撃を全てスカされながら、ひたすら頭の片隅でこの戦局を打開する方法を考えていた。
「空手の構えになりましたね」
「直線形の打撃を全て弾いてる上に横からの攻撃もよく見えてやがる……大した野郎だ」
虎子は呼吸一つ乱さず、ビジョンのデジタル時計を一瞥する。時間は残り二分を切っている。
虎子は心の中から焦りという感情を一瞬で駆逐した。そのうえで冷たい思考で唐澤を分析する。唐澤の防御は完璧だろうか。いや、そんなことはない。格ゲーではごくまれにあるが、現実では完璧な防御は存在しない。
虎子は唐澤の防御の奥にあった眼を見た。その目はいつになく高い集中力を発揮し、竜也の上半身に向かっている。それを見た虎子が呟いた。
「……あいつ視野が狭くなってる」
「狭くなってる?」
「集中し過ぎてるんだ。竜也の攻撃は直線形とフックしかない。ローキックは捨てればいいし、時間の無い今はタックルなんか自殺行為だ。だから、アイツはストレートとフックに攻撃を絞り、それに特化した防御を取っている」
「じゃあ、今までと違う軌道の技が入りやすいってことですか?」
「お前、アッパー教えてるか」
「一応は。きったないフォームですけど」
「なんでもいい。直線形の攻撃になれた今なら、今まで一度も下からの攻撃に反応しづらいはずだ。大丈夫、アイツなら要領よくやる」
何かを叫ぼうとして虎子はカイリを向いた。
「アッパー打てって言ったらバレるよな」
「バレます」
カイリは冷静に答えた。
時間はもう一分を切っている。盛り上がっていた観客もすでに決着がついたものとして試合を見ている。59、58、と時間が刻まれていく。
「何かいいワードはないんですか? 昇竜拳とか」
「昇竜はアイツの脳内にはアッパーじゃなくて対空技としてインプットされてる。かといってマイナーな技だと誤解される恐れがある。お前こそなんか無いのか」
「あるわけないでしょ。格ゲーなんて竜也の家で妹にやられた時くらいしかやって……」
虎子はその時、画面に繰り広げられていた光景を思い出す。恐らくカイリも同じことを思い出しただろう。
「「あ」」
二人は顔を見合わせ、同時竜也の方を向いた。
「「竜也! ごあんない!」」
残り三九秒。
……なにせ初恋の女性の技なのだ。忘れるはずがない。むしろそれを真似だってした。だから、竜也は「ごあんない」の意味がすぐに分かった。その体は驚くほどスムーズにその攻撃に移行する。
竜也はジャブと同時に左足から深くステップを踏み込み、右ストレートを振りかぶる。唐澤は攻撃に備えて前手を出してくる。その腕の下を翻った右拳が潜り抜ける。拳は唐澤の胸板に沿うように上昇し、その先の顎を打ち抜いた。
――ごあんない
汚いアッパーだ。だが唐澤の顎を打ち抜いた。手ごたえは十分。
歓声が巻き起こり、レフェリーが駆け寄って来る。
「まだだ!」
唐澤はなおも体制を取り戻し、ふらつく足で距離を取った。これほどまで打っても彼の執念を屈服させるには至らない。
残り三〇秒。
「落ちろぉ!」
竜也の右ストレートが火弾のように唐澤の顔面に突進する。唐澤は尋常ならざる精神力で顔の前に防御を集めた。
「貴様の拳は俺の魂に届かん!」
まだ彼の防御は活きている。そして、竜也の右ストレートはその防御の下を狙いすましていた。
「届かせて見せる!」
――くらえ
「匕首(ドス)竜!」
鋭いボディストレートが唐澤の鳩尾を抉る。拳に肉と内臓を深く抉る感触が伝わった。
「か、は」
唐澤は口から涎を吐き、身体を大きく折って「く」の字に折り曲げる。
残り二〇秒。
がら空きになった唐澤の顔面を竜也の左フックが打ち抜いた。唐澤の防御は完全に崩壊した。あとは竜也の拳が唐澤を仕留めれるかどうか。
「まげるがあぁ!」
唐澤は最後の力を振り絞り、死に体となった身体をカタパルトのように発進させた。最後の最後に苦し紛れに見せたタックル。タックルとしての威力は無い。だが、攻撃は貰わない。
残り一五秒。
――虎子の言ってたミスはこれか!
竜也は足を後方に投げ出し、唐澤の身体を自身の体重で押し潰す。
「竜也! アナコンダです!」
竜也は唐澤に覆いかぶさったまま、喉の下に右手を差し入れ、左手で唐澤の身体の左側面を掴んだ。相手の身体を掴んだ左手を、相手の喉を通した右手でTの字に掴んでこの技は完成する。突撃してきた相手に覆いかぶさり絞め落とす、カイリ直伝の寝技。
残り一〇秒。
――だめだ
自分の腕がTの字になった瞬間確信した。何度もやったからこそ分かる。締めが浅い。これじゃ絞め落とせない。
「冷静さを失うな!」
虎子の声が竜也の心に最後の余裕を与えた。
「そうだ。キリシタンになる」
竜也は唐澤の喉を通していた右腕を自分の左手を横切るようにさらに強く絞め直す。すると右手がより強く相手の喉を圧迫した。
残り七秒。
「これでトドメだ!」
竜也は唐澤の身体ごとくるりと反転する。それはまるで小動物を絞殺す大蛇のような動きだ。竜也が唐澤の喉を締め上げた状態で、二人の身体は頭を合わせて一文字の字になる。そのまま竜也は自分の足を唐澤の身体に近づけ、二人の身体は「く」の字になる。より強く、より強く唐澤の喉が圧迫されるのが分かった。
残り三秒。
二秒。
一秒。
「ストップ!」
レフェリーが二人の間に割って入る。
音が死んだ。
静寂の中、竜也は、その場に立った。呆然と、虚空を見上げる。
天井の照明が、会場の、静謐な空間に、剣の様に刻まれている。
その中心で、竜也は立っていた。
今にもこの場に倒れてしまいたい。
それほど身体は疲労していた。戦闘のスイッチが途切れたことで疲労と痛みが体に帰って来たのだ。一度、二度と深呼吸をし、竜也は振り返った。
そこにはグランドに寝たままの唐澤の姿がある。白衣を着たドクターが駆け寄り、唐澤の呼吸やなんやらを確認している。
遅れて、レフェリーが竜也の腕を掴む。
「5ラウンド四分五九秒! アナコンダチョークにより勝者、愛朽竜也!」
爆発のような歓声が巻き起こった。拍手と称賛の飛沫が竜也に降り注ぐ。竜也は唾をのみ、大きく息を吐き、ペコりと一礼をした。その間も歓声は鳴りやまない。格闘ファンであればすぐにそれと分かる咬ませ犬。そいつが猛獣をかみ殺したことへの称賛はこんなものでは足りないのだろう。
金網が勢いよく開け放たれ、半泣きになったカイリが走り寄って来る。
「よく勝ちました!」
カイリはぎゅっと竜也の身体を抱きしめ、竜也の鎖骨に顔を埋めた。
「ほんとに、ほんとに。あなたはよく頑張りました」
二人はその後顔を見合わせ、微笑を交わす。
「お前のおかげだよ」
竜也はこつんと、軽く頭突きをする。
「あなたのおかげです」
カイリも少し拗ねるように照れて頭突きし返した。加減が分かってないのか、ちょっと痛かった。
それが終わると、今度はポケットに手を突っ込んで歩み寄って来る虎子と目が合った。虎子は何も言わず右手を上げた。そこにグローブを付けた手がハイタッチをする。
虎子と竜也は言葉を交わさずニッと悪戯っぽい笑顔を交わしただけだった。それで十分だった。
竜也の後ろで人の立ち上がる気配があった。振り向くと、そこには唐澤一徹が虚ろな目を浮かべて立っている。彼はセコンドと一言二言やりとりをすると全てを悟って肩を落とす。その目は一度地面を向き、次に竜也の方を向いた。
唐澤はふらふらっと竜也に歩み寄ると、その右手を掴む。
「いい勉強になった」
そう言うと唐澤は竜也の手を高々と掲げた。それを合図に落ち着きを取り戻していた歓声が再び噴火する。永遠に続くかと思われるような拍手の嵐が竜也を包む。
「これがお前の上げた勝利の価値だ」
唐澤はぽんと竜也の肩を叩いた。
「いずれ追いつく」
去りゆく背中に竜也は
「待ってる」
唐澤は言葉を返さずそのまま花道を後にした。
『さぁ、愛朽選手、』
そう言いながら駆け寄ってきたのはアルゴンの専属インタビュアーである。
『とんでもない大金星になりました。これからの目標はどうしますか?』
竜也は一瞬考え込んだ。
心は晴れやかで、幼少の頃から竜也の心を覆っていた靄ののようなものは消えているのに気が付いた。トラウマを乗り越える、というのはこういうことなのだろうか。
竜也はふと天井を見上げた。
竜也は見下されて生きてきた。だから、ずっと上を向いていた。それは今も変わらない。自分は一体どこまで出来るのか。この充実感を後何度味わえるのだろうか。
次に虎子を見ると、虎子はいたずら小僧のようにニッと笑って顎で竜也に何かを促した。竜也は虎子に首肯を返し、インタビュアーの方を向く。
そして竜也は口を開いた。
「俺より強い奴に、会いに行く」
烈風竜虎 @enja6
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