その2
桜子が東宮の料理番を引き受けて十日が
その間に
初めて夕食を作ったあの日から、悠斗は変わった。桜子へかける言葉は優しく、雰囲気は穏やかで、冷酷な
「ごちそうさま」
悠斗は、食事を終えて両手を合わせた。
夕食を共にするようになって判明したことだが、彼はとても
置かれた
器の蓋は、食べている間は膳の外に頭を下にして置き、食べ終わりに再び
物を口に入れている時は話さないし、食べ始めと食べ終わりにはきちんと手を合わせる。
行儀作法は
桜子が箸を止めて見とれていると、杯に口をつけた悠斗が気づく。
「どうかした?」
「いいえ、なんでもありません!」
膳を目視すると、三分の二ほどが悠斗の口に入った。山盛りにした
「食べる量が少しずつ増えてきましたね。とても良いことですわ」
桜子が
「なっ、なんでしょう?」
「料理の礼を」
開いた手の平には、桜の花を模した髪
細く伸ばした金線が花びらの形に折り曲げられていて、
悠斗は、
「見立てた
「ありがとう、ございます……?」
こういう場合は、
悠斗は、自分の畳に座り直して、酒を
いざ見られる側に立つと落ち着かなくて、桜子は視線を
悠斗から贈られた髪飾りは、桜子の
「ぜんぜん似合っていないような……」
むうっと口を曲げる桜子に、悠斗は
「そんなことないよ。桜子に桜の花はよく似合う」
「そうでしょうか」
悠斗に言われると、本当にそんな気がしてくるから不思議だ。
食べ終えた悠斗を
髪飾りを贈られてから、桜子は、そわそわと鏡が見ることが多くなった。
右に左にと顔の向きを変えると、下がり飾りがぶつかってくすぐったい音を立てる。
一人で見返すとやっぱり似合っていない気がするし、
(それでもいいわ。悠斗様が料理のお礼に贈ってくれたんだもの!)
桜子は、気持ちを切り替えて
雲に隠れた太陽の光は弱く、庭も
「
梨壺の方角に顔を向けたが、彼の姿が見えるはずもなかった。
本日は、悠斗にとっての『
忌み日とは、
最も危ない日は『
方違えとは、禍が起きる方角が決まっている日のことで、北が
悠斗は、西が凶方だと預言されているので、本日いっぱいは、梨壺から西に位置する麗景殿には渡ってこない。そこで問題になったのが、夕食をどうするかだ。
本人から事情を聞いた桜子は、すぐさま答えた。
「麗景殿で夕食を作って、悠斗様のもとへ持っていきます」
それなら、部外者に料理している場面を見られる心配は少ない。
梨壺へ行くのも、方違えに
桜子の提案を悠斗は快く受け入れて、
いそいそと台盤所へ向かった桜子は、
「ご苦労さま。東宮様の夕食を作りたいのだけど、手はずは整っている?」
「はい。夕食用の食材と、料理を盛り付ける
麗景殿では朱塗りの膳を使っているのだが、それに料理を載せて持っていけば、なぜ他の殿舎で作られた食事を梨壺へ運んでいるのだろうと不審がられるかもしれない。
桜子が東宮の料理番を引き受けていることは秘密なので、念には念を入れて、梨壺で常用されている黒い
「あとは、どんな料理を作るかね」
移動中に匂いが広まらないように、個性的すぎる料理は避けるべきだろう。
香辛料は控えめに。けれど、おいしく作りたい。
大棚の前で考えていると、
「姫様、梨壺から届いた食材を見ていただきたいのですが……」
彼女が
「何よこれ!」
用意された食材は、見るからに質が悪かった。野菜はどれも
(どうして今日に限って……。もしかして、悠斗様に起こる禍ってこのこと?)
新たに食材を調達するにも、大膳職の
「これじゃ、おいしい料理は作れないですよね。どうしよう」
責任を感じた小波が今にも泣き出しそうだったので、かえって桜子は冷静になった。
「いつもより手間が増えるけど、おいしい料理は作れるわ。私に任せて!」
袖をぐっと押し上げて気合いを入れ、歯が立たない
白い顆粒が溶けきったのを見計らって椎茸を丸ごと
「こうすると、甘み成分が
椎茸を戻している間に、膳司の手を借りて
下味をつけた材料を
醬油の色合いが
「名付けて『花形野菜の
桜子が鍋を持ち上げると、手を貸してくれた膳司の少女たちは「わぁっ」と
「あの食材から、こんな綺麗な料理を作り上げるなんて。すごいです、姫様!」
「作り上げられたのは、みんなが手伝ってくれたおかげだわ。ありがとう」
料理を器に盛って蓋をした桜子は、清潔な布で膳ごとくるんで台盤所を出た。母屋で十二単を着付けてもらい、典侍と女房たちに前後を挟まれて順調に
この調子なら、何事もなく悠斗に夕食を届けられそうだと思った矢先、梨壺へ繫がる透き渡殿の手前で、先頭を歩いていた典侍が手をかざして行列を止めた。
「桜子様、
渡殿の向こうで立ち止まったのは、右大臣家から入内した姫君とその女房たちだった。
先立つ男が腕に抱えるのは、大型の
立ち往生する桜子たちを見て、行列の先頭に立った唇の厚い上﨟が声を張り上げた。
「おやあ、麗景殿の
「ええ。東宮様の方違えが本日と聞きおよんで、馳せ参じた次第にございます」
夕食を運んでいるとはおくびにも出さずに典侍が答えると、上﨟はせせら笑う。
「それは
上﨟の後ろから
自分の口で「
桜子がぐっと
「わたくしどもは、東宮様より
「ぐっ」
上﨟は
「そういえば、宣耀殿の女御殿は箏の名手でございましたね。梨壺と接している麗景殿では、箏の音など少しも聞こえて参りませんでしたが、東宮様に演奏を拒否されたのでしょうか? だとしたら、わざわざ運んだのも徒労でございましたね。お
「くぅっ」
(すごいわ、典侍!)
「ふん! 参りましょう、絢子姫!」
上﨟は、すまし顔になって足を進めた。
桜子は、手にした膳を
「──そなたか」
「そなたが左大臣家の姫かえ?」
「は、はい。私が麗景殿の桜子です」
答えると、絢子は、がっかりした表情になって
「
美人を絵に描いたような絢子にしてみれば、
自覚がある
「女房を使わねば話もできぬとは、情けないものぞ。その手のものも、どうせ左大臣家の見立てで用意したのじゃろう。わらわに見せてたもれ」
絢子の手が膳を包んだ布に伸びてきたので、桜子は
「やめてください!」
制止を無視した絢子は、つまんだ布をさっと取り上げて、あ然とする。
「これは……、まさか東宮様の」
「い、急ぐので、失礼します!」
いぶかしむ絢子の手から布を引き抜いた桜子は、典侍を追い
(膳を見られてしまったわ!)
急ぎ足で離れていく桜子の背中を、絢子は
気だるそうに
「一人で来たのか?」
「…………」
桜子は、無言で悠斗の前に膳を置くと、そのまましゃがみ込んで膝を抱える。
うずくまる桜子に異変を感じて、悠斗は体を起こした。
「桜子?」
「……膳を運んでいるのを、見られてしまいました……」
恐らく絢子は、桜子が見舞いのためだけに梨壺を訪れたのではないと気づいただろう。膳を見られた
「どうしよう……。ここで料理ができなくなったら……」
まだ何も起きていないのに不安が
どんどん悪い方へと転がる思考を止めてくれたのは、悠斗の冷静な声だった。
「俺に夕食を運んでくる最中に起きたことなのだから、君が一人で抱え込むべきではないよ。話を
桜子が視線を上げると、悠斗は、
後を追ってきた典侍と、麗景殿からの行列を
その足音を聞きつけた悠斗は、
「頼りになる二人も来たことだし、話は桜子の料理をいただきながらにしようか」
運んできた膳を真ん中にして、桜子は悠斗と向き合っていた。桜子の
「人参が花の形をしている。すごいと思わないか、帯刀」
「すごいですが……。感動している場合ではありません。桜子様が膳を運んでいるところを見られてしまったのは、夕食の
梨壺で東宮の護衛や側仕えをする者たちを春宮坊と呼ぶ。その一員である帯刀は、自分たちこそ悠斗の方違えに対処して動くべきだった、と桜子に頭を下げた。
「ご迷惑をかけて申し訳ありません。しかし、どうか主の料理番は
「私の料理が、何かしたでしょうか?」
「主に大きな変化を
「ということは、悠斗様は、生まれつき冷酷な狼ではなかったのですね……」
前々から桜子は、悠斗の態度が急変したのはなぜだろうと不思議に思っていた。
料理番を始めた頃は、おいしい料理を食べて機嫌が良くなっているのだろうと考えていたが、典侍に聞いたところによると、彼は母屋で待っている間は冷酷な雰囲気をまとっていて、膳を運んでくる桜子の姿が見えると途端に気配を
悠斗が料理を通じて元の有り様に戻っているというなら、桜子の前でだけ
「悠斗様の性格がいつから変わられたのか、お聞きしてもいいでしょうか?」
「
また毒の話だった。顔をしかめた桜子を
「俺は、毒によって気づかされたんだ。市中で暮らしていた時のままでは、宮中では生きていけないと。人々は当然ながら、世継ぎである俺と親しくなろうと争うだろう?」
「その争いは、身をもって感じています」
桜子は、唐の料理を帝に認めてもらいたくて内裏に入ったが、世間的に見れば東宮の皇子を産むための入内だ。絢子が桜子を目の
東宮からないがしろにされれば、次の代で家族が下位の仕事にしか
「この争いの
悠斗はおもむろに言葉を切って、庭の桜に目をやった。
乱れ咲きの桜はすっかり落ちて、ごつごつとした枝がむき出しになっている。枝先は
人の心に
貴族は特に、美しく
「──本当に恐ろしい人間は、冷たく人を
「
桜子がぽつりと呟くと、帯刀と典侍も同じことを思ったらしく顔を伏せた。悠斗も気落ちしているだろうと思いきや、
「寂しくはないよ。俺には桜子がいてくれる。俺が人間らしさを取り戻せたのも、桜子の料理を食べて安心できたからだ」
「私の料理が、悠斗様を安心させているのですか……?」
「ああ」
悠斗は、こっくりと頷いてから、にこやかに微笑んだ。
「だから、俺の料理番を続けてほしい。桜子が料理を作っているという噂が流れたとしても大丈夫だよ。それを食べる俺が元気でいることが、君の料理はおいしくて安全なものだと証明するんだから」
悠斗の
「悠斗様のおかげで、宮中で料理を続けていく勇気が
「俺に対しても大らかに接してみてはどうかな。話し言葉を変えてみるとか」
「話し言葉というと、敬語のこと、ですよね?」
どうしてそんなことをと不思議がる桜子に、悠斗は穏やかに打ち明けた。
「実は、君と食事を取るたびに隔たりを感じていたんだ。俺のためを思うなら敬語をやめて話してほしい。名前も呼び捨てでかまわない」
「さすがに、それは……。不敬にあたりますわ」
悠斗はどんな性格だろうと東宮だ。本来ならば、桜子がこのように
「主、あまり桜子様を困らせてはいけません」
帯刀が
「桜子が俺を大切にしてくれていることは、料理から伝わってくるよ。大事なのは話し方ではないはずだ。それに、俺はつねづね、対等に話しながら君の料理を食べられたら、どんなに楽しいだろうと思ってきた」
悠斗は一息に
「君といると、俺は、毒を盛られる前に持っていた人間らしさを取り戻せるんだ。二人の時だけでいい。位階の意味を知らない子どもみたいに話してくれないかな?」
小首を
ぱちぱちと瞬きをしても、甘えるような雰囲気は変わらない。
こんな表情を向けられて、断れるわけがなかった。
「……二人きりの時だけですよ」
桜子が
こうも大喜びされると、悪い気はしないから困る。複雑な気持ちを抱えつつ、桜子は、悠斗の夕食がすむまで、
「東宮様、とてもおいしそうに召し上がっておいででしたね」
麗景殿へと戻る道すがら、典侍は桜子に語りかけた。
「ええ。悠斗様のお話も聞けてよかったわ」
(梨壺に膳を運んでいる私を見て、彼女は何を思ったのかしら……)
見上げれば、暗い雲は雨も落とさず、
桜子は、雲行きと似たじっとりした気配が、物陰からこちらを
花ざかり平安料理絵巻 桜花姫のおいしい身の上 来栖千依/ビーズログ文庫 @bslog
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