その2


 桜子が東宮の料理番を引き受けて十日がった。

 その間にこんが開かれて、桜子は帝や殿てんじようびとたちに東宮としておされたが、形式ばったしきはあっけないものだった。

 初めて夕食を作ったあの日から、悠斗は変わった。桜子へかける言葉は優しく、雰囲気は穏やかで、冷酷なおおかみおそれられている東宮とは別人かと思うほどだ。

「ごちそうさま」

 悠斗は、食事を終えて両手を合わせた。

 夕食を共にするようになって判明したことだが、彼はとてもぎよう良く食べる。

 置かれたはしは、右手で持ち上げ、左手の親指の付け根で受けてから、右に持ち直す。

 器の蓋は、食べている間は膳の外に頭を下にして置き、食べ終わりに再びもどす。

 物を口に入れている時は話さないし、食べ始めと食べ終わりにはきちんと手を合わせる。

 行儀作法は乳母めのとから教育されるものだから、礼節をわきまえた女性にしつけられたのだろう。美貌の青年が、美しい所作で食事を取る様は、庭をひらひらともんしろちようのように目を引いた。

 桜子が箸を止めて見とれていると、杯に口をつけた悠斗が気づく。

「どうかした?」

「いいえ、なんでもありません!」

 膳を目視すると、三分の二ほどが悠斗の口に入った。山盛りにしたこわいいは半分ほどの高さになり、山菜の天ぷらを載せた器は空になっている。

「食べる量が少しずつ増えてきましたね。とても良いことですわ」

 桜子がめると、悠斗は「そうか」と微笑んで、腕をばしてきた。それぞれ別の畳にすわっているのできよは開いているのだが、突然のことに桜子はのけぞる。

「なっ、なんでしょう?」

「料理の礼を」

 開いた手の平には、桜の花を模した髪かざりがあった。

 細く伸ばした金線が花びらの形に折り曲げられていて、けるほどうすい布を張ってある。がくの辺りからは、細い金棒が連なった下がり飾りが揺れていた。

 悠斗は、ひざちになって畳に手をつき、桜子の耳元に髪飾りをす。耳たぶに触れた下がりが冷たくて目を細めると、満足げにくちのはを上げられた。

「見立てたがあった。よく似合っているよ」

「ありがとう、ございます……?」

 こういう場合は、なおに喜ぶべきなのか、それともけんそんしてみせるべきなのか。褒められ慣れない桜子には分からなくて、くやしがるような顔つきになってしまった。

 悠斗は、自分の畳に座り直して、酒をたしなみながら桜子をながめる。

 いざ見られる側に立つと落ち着かなくて、桜子は視線をけるように首を逸らした。すると、鏡台の鏡に映った自分の姿が目に留まった。

 悠斗から贈られた髪飾りは、桜子のじようそうな顔立ちにはいささか綺麗すぎた。

「ぜんぜん似合っていないような……」

 むうっと口を曲げる桜子に、悠斗はかろやかな笑みを向ける。

「そんなことないよ。桜子に桜の花はよく似合う」

「そうでしょうか」

 悠斗に言われると、本当にそんな気がしてくるから不思議だ。

 食べ終えた悠斗をわた殿どのまで見送りに行くと、何度も振り返って微笑まれたけれど、桜子は、彼が何を期待しているのかついぞ分からなかった。




 髪飾りを贈られてから、桜子は、そわそわと鏡が見ることが多くなった。

 右に左にと顔の向きを変えると、下がり飾りがぶつかってくすぐったい音を立てる。

 一人で見返すとやっぱり似合っていない気がするし、ずかしさは消えてくれない。

(それでもいいわ。悠斗様が料理のお礼に贈ってくれたんだもの!)

 桜子は、気持ちを切り替えてを上げたみなみびさしを見た。

 雲に隠れた太陽の光は弱く、庭もしきの中も薄暗い。

しとねに座っているだけでゆううつだわ。悠斗様はだいじようかしら……」

 梨壺の方角に顔を向けたが、彼の姿が見えるはずもなかった。


 本日は、悠斗にとっての『かたたがえ』というだ。

 忌み日とは、いんようぎようで算出したわざわいが起こりやすい日のことで、不用意に出歩くとあやかしものに取りかれたり、思わぬ事故にあったりする。

 最も危ない日は『ものみ』と呼ばれる。信心深い父をはじめとした貴族たちは、おんみように頼んでその日をこよみに書き入れてもらい、当日には参内を休んでめにこもる。

 方違えとは、禍が起きる方角が決まっている日のことで、北がきようほうなら北に向かって出歩くのを避け、南ならば南に向かうのを避ける。

 悠斗は、西が凶方だと預言されているので、本日いっぱいは、梨壺から西に位置する麗景殿には渡ってこない。そこで問題になったのが、夕食をどうするかだ。

 本人から事情を聞いた桜子は、すぐさま答えた。

「麗景殿で夕食を作って、悠斗様のもとへ持っていきます」

 それなら、部外者に料理している場面を見られる心配は少ない。

 梨壺へ行くのも、方違えにす東宮をいに、という言い訳が立つ。

 桜子の提案を悠斗は快く受け入れて、たちはきをはじめとした気の置けない従者だけに知らせたのだった。


 いそいそと台盤所へ向かった桜子は、すべりのいい戸を開けて、朝の火を絶やさないように炭をくゆらせていた刀自の女性に声をかける。

「ご苦労さま。東宮様の夕食を作りたいのだけど、手はずは整っている?」

「はい。夕食用の食材と、料理を盛り付けるしつ膳は、梨壺から届いております」

 麗景殿では朱塗りの膳を使っているのだが、それに料理を載せて持っていけば、なぜ他の殿舎で作られた食事を梨壺へ運んでいるのだろうと不審がられるかもしれない。

 桜子が東宮の料理番を引き受けていることは秘密なので、念には念を入れて、梨壺で常用されている黒いうるし塗りの膳を用意してもらったのだ。

「あとは、どんな料理を作るかね」

 移動中に匂いが広まらないように、個性的すぎる料理は避けるべきだろう。

 香辛料は控えめに。けれど、おいしく作りたい。

 大棚の前で考えていると、なみがためらいがちに近寄ってきた。

「姫様、梨壺から届いた食材を見ていただきたいのですが……」

 彼女がかかえている食材かごを見て、桜子は目をいた。

「何よこれ!」

 用意された食材は、見るからに質が悪かった。野菜はどれもせていて、干ししいたけにいたっては、かんそうしすぎてかちんこちんに縮んでいる。

(どうして今日に限って……。もしかして、悠斗様に起こる禍ってこのこと?)

 新たに食材を調達するにも、大膳職のせつはただでさえ広い内裏を囲うように広がるだいだいの南東のはしにある。今から向かっていては、とうてい夕食に間に合わない。

「これじゃ、おいしい料理は作れないですよね。どうしよう」

 責任を感じた小波が今にも泣き出しそうだったので、かえって桜子は冷静になった。

「いつもより手間が増えるけど、おいしい料理は作れるわ。私に任せて!」

 袖をぐっと押し上げて気合いを入れ、歯が立たないかたさの干し椎茸に取りかかる。

 かめから鍋に水をみ、棚の中段に置いていた陶器の砂糖を一匙加えてかき回す。

 白い顆粒が溶けきったのを見計らって椎茸を丸ごとしずめると、かさの間に入っていた空気がぽこぽこと抜けた。

「こうすると、甘み成分がしんとうして、早くふっくらと戻るのよ」

 椎茸を戻している間に、膳司の手を借りてにんじんさといもを梅花の形に飾り切りして、足りないうまを補うために昆布で挟んだ。

 下味をつけた材料をあぶらいためてから、醬油と砂糖と酒を同量ずつ入れてたせる。

 醬油の色合いがみたところに、かたくりばなの根から取れるでんぷん粉を使ってとろみをつけるとできあがりだ。

「名付けて『花形野菜のちくぜん』、完成よ!」

 桜子が鍋を持ち上げると、手を貸してくれた膳司の少女たちは「わぁっ」とかんせいを上げた。落ち込んでいた小波も、頰を紅潮させて感激している。

「あの食材から、こんな綺麗な料理を作り上げるなんて。すごいです、姫様!」

「作り上げられたのは、みんなが手伝ってくれたおかげだわ。ありがとう」

 料理を器に盛って蓋をした桜子は、清潔な布で膳ごとくるんで台盤所を出た。母屋で十二単を着付けてもらい、典侍と女房たちに前後を挟まれて順調にろうを進んでいく。

 この調子なら、何事もなく悠斗に夕食を届けられそうだと思った矢先、梨壺へ繫がる透き渡殿の手前で、先頭を歩いていた典侍が手をかざして行列を止めた。

「桜子様、せん耀よう殿でんのご一行にございます」

 渡殿の向こうで立ち止まったのは、右大臣家から入内した姫君とその女房たちだった。

 先立つ男が腕に抱えるのは、大型のことであるそう。女房たちも、すごろく盤や、投げ矢と的壺といった、ゆう道具を手に持って運んでいる。

 立ち往生する桜子たちを見て、行列の先頭に立った唇の厚い上﨟が声を張り上げた。

「おやあ、麗景殿のみなさま。東宮様のお見舞いでしょうか?」

「ええ。東宮様の方違えが本日と聞きおよんで、馳せ参じた次第にございます」

 夕食を運んでいるとはおくびにも出さずに典侍が答えると、上﨟はせせら笑う。

「それはしゆしようなことでございますねえ。我らがあや姫は、先日から東宮様の御身を心配なさって、せめてお話し相手になれればと足を伸ばしたのですわ。我らは太陽がのぼりきる前に出向きましたが、麗景殿の女御殿は今までおひるでもされていたのですかねえ?」

 上﨟の後ろからちようしようが上がったので、桜子はむっとした。

 自分の口で「なんくせ付けないでくれる」と言ってやりたかったが、作った料理を運んでいる手前、できるだけ目立たずに行列をやり過ごさなければならない。

 桜子がぐっとえる気配を感じた典侍は、懐から蝙蝠を抜いてはらりと開いた。

「わたくしどもは、東宮様よりじきじきに『案ずるな』とのお言葉をいただきましたので、ごめいわくにならない夕刻近くに参ったのでございます。朝早くからお見舞いされたということは、宣耀殿にはふみの一つも届かなかったようですわね……。東宮様からおづかいの一つもいただけない心中、お察しいたします」

「ぐっ」

 上﨟はかえるのようにうめいて、ゆうしやくしやくで顔をあおぐ典侍をにらみつけた。相手をおとしめるわけでもなく自分たちを持ち上げる、こうみよういやに対応できなかったようだ。

「そういえば、宣耀殿の女御殿は箏の名手でございましたね。梨壺と接している麗景殿では、箏の音など少しも聞こえて参りませんでしたが、東宮様に演奏を拒否されたのでしょうか? だとしたら、わざわざ運んだのも徒労でございましたね。お可哀想かわいそうに……」

「くぅっ」

 あわれみの視線を受けて、上﨟は身をよじった。自分たちのれつせいを感じてか、後方の笑い声も静まっている。典侍のあざやかなしゆわんに、桜子はれとした。

(すごいわ、典侍!)

 くれないのスケの異名に恥じないぜつは、いつちよういつせきできるものではない。台盤所に立つことに関してはうるさいが、宮中で暮らすのにここまで頼りになるそばづかえはいないだろう。

「ふん! 参りましょう、絢子姫!」

 上﨟は、すまし顔になって足を進めた。

 はなやかな女房行列は、廊の端にけた麗景殿の面々を睨みつつ通り過ぎていく。

 桜子は、手にした膳をとがめられないよう、うつむいて小さくなっていた。

「──そなたか」

 とうとつに話しかけられて顔を向ける。長いまつげにいろどられた瞳で桜子を見下ろしていたのは、つやめいた黒髪を背丈よりも長く伸ばした、世にも美しい姫君だった。

 おしろいはたいた顔はおもながで、唇には形良く紅を差している。桜色のつめうるわしい指は、しらさぎつばさのように上品に衣の合わせを押さえていた。

「そなたが左大臣家の姫かえ?」

「は、はい。私が麗景殿の桜子です」

 答えると、絢子は、がっかりした表情になってかたを落とした。

じようおおに人だかりを作ったたまのような姫君と聞いていたが、見た目も声もへいへいぼんぼんではないか。げに張り合いのないむすめよ」

 美人を絵に描いたような絢子にしてみれば、ごわい宿敵になるはずの桜子が、にもかからぬような小娘でがれたのだろう。

 自覚があるゆえに反論できない桜子を見て、絢子はさらに失望した。

「女房を使わねば話もできぬとは、情けないものぞ。その手のものも、どうせ左大臣家の見立てで用意したのじゃろう。わらわに見せてたもれ」

 絢子の手が膳を包んだ布に伸びてきたので、桜子はあせった。

「やめてください!」

 制止を無視した絢子は、つまんだ布をさっと取り上げて、あ然とする。

「これは……、まさか東宮様の」

「い、急ぐので、失礼します!」

 いぶかしむ絢子の手から布を引き抜いた桜子は、典侍を追いして梨壺へと進んだ。はかますそにつまずきそうになりながらも、絢子からはなれたい一心で足を動かす。

(膳を見られてしまったわ!)

 急ぎ足で離れていく桜子の背中を、絢子はげんそうに見つめていたのだった──。


 気だるそうにこうらんへもたれかかっていた悠斗は、足早に近づいてくる桜子に気づくと眉をひそめた。

「一人で来たのか?」

「…………」

 桜子は、無言で悠斗の前に膳を置くと、そのまましゃがみ込んで膝を抱える。

 うずくまる桜子に異変を感じて、悠斗は体を起こした。

「桜子?」

「……膳を運んでいるのを、見られてしまいました……」

 恐らく絢子は、桜子が見舞いのためだけに梨壺を訪れたのではないと気づいただろう。膳を見られたたんげてきたから、余計に不審に思われたはずだ。

「どうしよう……。ここで料理ができなくなったら……」

 まだ何も起きていないのに不安がふくらんで、桜子は今にも押しつぶされそうになる。

 どんどん悪い方へと転がる思考を止めてくれたのは、悠斗の冷静な声だった。

「俺に夕食を運んでくる最中に起きたことなのだから、君が一人で抱え込むべきではないよ。話をくわしく聞かせてほしい」

 桜子が視線を上げると、悠斗は、いだ水面のように落ち着いていた。

 後を追ってきた典侍と、麗景殿からの行列をむかえるはずだった帯刀が、慌ただしく二人のいる高欄に向かってくる。

 その足音を聞きつけた悠斗は、きんきゆう事態を忘れさせるような笑みを桜子に向けた。

「頼りになる二人も来たことだし、話は桜子の料理をいただきながらにしようか」


 運んできた膳を真ん中にして、桜子は悠斗と向き合っていた。桜子のななめ後ろには典侍が、悠斗の後方には帯刀が、それぞれ控えている。

 めた空気が流れていたが、悠斗は気にもめずに料理を箸でつまみ上げた。

「人参が花の形をしている。すごいと思わないか、帯刀」

「すごいですが……。感動している場合ではありません。桜子様が膳を運んでいるところを見られてしまったのは、夕食のうんぱんまでも委ねてしまった春宮坊に責任があります」

 梨壺で東宮の護衛や側仕えをする者たちを春宮坊と呼ぶ。その一員である帯刀は、自分たちこそ悠斗の方違えに対処して動くべきだった、と桜子に頭を下げた。

「ご迷惑をかけて申し訳ありません。しかし、どうか主の料理番はめないでいただきたいのです。主には、桜子様の料理の力が必要ですから」

「私の料理が、何かしたでしょうか?」

 こころもとなげな桜子に、帯刀は大げさなくらい明朗に答えた。

「主に大きな変化をあたえてくださいました。冷酷な狼と呼ばれているお姿からは想像できないと思いますが、せいである源氏を名乗っていた頃の主は、お優しくて大らかな青年でいらしたのです。今は、桜子様の料理をお召しになっている時だけ、その頃に戻ったように安らいでおられます」

「ということは、悠斗様は、生まれつき冷酷な狼ではなかったのですね……」

 前々から桜子は、悠斗の態度が急変したのはなぜだろうと不思議に思っていた。

 料理番を始めた頃は、おいしい料理を食べて機嫌が良くなっているのだろうと考えていたが、典侍に聞いたところによると、彼は母屋で待っている間は冷酷な雰囲気をまとっていて、膳を運んでくる桜子の姿が見えると途端に気配をやわらげるらしい。

 悠斗が料理を通じて元の有り様に戻っているというなら、桜子の前でだけへんぼうすることにも納得がいく。

「悠斗様の性格がいつから変わられたのか、お聞きしてもいいでしょうか?」

それがしが主の変化を感じ取ったのは、立太子されてから間もなく、毒を盛られる事件があった日を境にでしょうか……」

 また毒の話だった。顔をしかめた桜子をおもんぱかって、悠斗は箸を置いた。

「俺は、毒によって気づかされたんだ。市中で暮らしていた時のままでは、宮中では生きていけないと。人々は当然ながら、世継ぎである俺と親しくなろうと争うだろう?」

「その争いは、身をもって感じています」

 桜子は、唐の料理を帝に認めてもらいたくて内裏に入ったが、世間的に見れば東宮の皇子を産むための入内だ。絢子が桜子を目のかたきにしているのも、東宮のちようあいを受けられるかどうかに一族の命運がかかっているからである。

 東宮からないがしろにされれば、次の代で家族が下位の仕事にしかけず、生活が立ちゆかなくなってぼつらくする可能性だってあるのだ。

「この争いのめんどうなところは、どこかの勢力にたんすれば、不利な方から命をねらわれるということだ。俺には、話しかけてくる人間が、善人か悪人かの区別がつかなかった──」

 悠斗はおもむろに言葉を切って、庭の桜に目をやった。

 乱れ咲きの桜はすっかり落ちて、ごつごつとした枝がむき出しになっている。枝先はするどく、飛ぶ鳥をうがつ刀のようだが、桜が咲きほこっている間は花に隠れてしまっていた。

 人の心にひそむ悪意も、宮中が華やかであればあるほど見えにくいのだろう。

 貴族は特に、美しくつくろうことにけている。

「──本当に恐ろしい人間は、冷たく人をかくしたりはしない。いつもあい良く笑っていて、心のおくにただれた悪意を抱えているものだ。俺は、誰も信じられず、どこへも出歩かず、ただ花と酒を飲み込んで生きるうちに、人間らしさを忘れてしまった。気づいた時には冷酷な狼と呼ばれていた」

さびしいですね」

 桜子がぽつりと呟くと、帯刀と典侍も同じことを思ったらしく顔を伏せた。悠斗も気落ちしているだろうと思いきや、ねたような顔で言い返される。

「寂しくはないよ。俺には桜子がいてくれる。俺が人間らしさを取り戻せたのも、桜子の料理を食べて安心できたからだ」

「私の料理が、悠斗様を安心させているのですか……?」

「ああ」

 悠斗は、こっくりと頷いてから、にこやかに微笑んだ。

「だから、俺の料理番を続けてほしい。桜子が料理を作っているという噂が流れたとしても大丈夫だよ。それを食べる俺が元気でいることが、君の料理はおいしくて安全なものだと証明するんだから」

 悠斗のがおは、まるでせいりようこうのようだ。彼の笑みを見たら、桜子の不安定な心はすうっと落ち着いていった。

「悠斗様のおかげで、宮中で料理を続けていく勇気がいてきましたわ。一人で抱え込まずに、大らかな視点で物事を見なければですね」

「俺に対しても大らかに接してみてはどうかな。話し言葉を変えてみるとか」

「話し言葉というと、敬語のこと、ですよね?」

 どうしてそんなことをと不思議がる桜子に、悠斗は穏やかに打ち明けた。

「実は、君と食事を取るたびに隔たりを感じていたんだ。俺のためを思うなら敬語をやめて話してほしい。名前も呼び捨てでかまわない」

「さすがに、それは……。不敬にあたりますわ」

 悠斗はどんな性格だろうと東宮だ。本来ならば、桜子がこのようにれしく接していい人物ではない。主としても人間としても、おそれ敬わなければならない相手である。

「主、あまり桜子様を困らせてはいけません」

 帯刀がえんぐんを出してくれたが、悠斗はゆずらなかった。

「桜子が俺を大切にしてくれていることは、料理から伝わってくるよ。大事なのは話し方ではないはずだ。それに、俺はつねづね、対等に話しながら君の料理を食べられたら、どんなに楽しいだろうと思ってきた」

 悠斗は一息にき出してから、澄んだ瞳で桜子を見つめた。

「君といると、俺は、毒を盛られる前に持っていた人間らしさを取り戻せるんだ。二人の時だけでいい。位階の意味を知らない子どもみたいに話してくれないかな?」

 小首をかしげられて、桜子は言葉にまった。

 はかなげで美しい悠斗のおもちが、今はくるぶしにくっついてくる子犬のように愛らしく見える。

 ぱちぱちと瞬きをしても、甘えるような雰囲気は変わらない。

 こんな表情を向けられて、断れるわけがなかった。

「……二人きりの時だけですよ」

 桜子がりようしようすると、悠斗は特大の花束でも受け取ったかのように破顔した。

 こうも大喜びされると、悪い気はしないから困る。複雑な気持ちを抱えつつ、桜子は、悠斗の夕食がすむまで、なごやかに会話を続けたのだった。


「東宮様、とてもおいしそうに召し上がっておいででしたね」

 麗景殿へと戻る道すがら、典侍は桜子に語りかけた。

「ええ。悠斗様のお話も聞けてよかったわ」

 だんらんを振り返った桜子は、ふと布を取り上げた絢子の顔を思い出した。

(梨壺に膳を運んでいる私を見て、彼女は何を思ったのかしら……)

 見上げれば、暗い雲は雨も落とさず、かみなりも鳴らさずに、どんよりとわだかまっている。

 桜子は、雲行きと似たじっとりした気配が、物陰からこちらをうかがっているような気がした。

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花ざかり平安料理絵巻 桜花姫のおいしい身の上 来栖千依/ビーズログ文庫 @bslog

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