三章 東の彼方へ秘密をのせて

その1


 夕食作りのため、なしつぼだいばんどころに出向こうと準備するさくらに、典侍ないしのすけしぶい顔をした。

「他の殿でんしやの台盤所に立てば、良くないうわさが流れるかもしれません。桜子様がとうぐう様の料理番を引き受けたことは、信用できる者だけの秘密にしておくべきことがらでございます」

「典侍は用心深すぎるわよ。料理番をたのんできたのは他ならぬ東宮様なのだから、かげぐちを言う人はいないと思うわ。それよりも、どんなかさね色目がいいか考えてくれない?」

 桜子は、紅や水色、菜の花色のうちきを持ったにようぼうたちに囲まれて、頭をなやませていた。

 にようの平服は、重ね袿にたけの短いうちぎを合わせた小袿姿だ。桜子はその上にほそながを着ることが多いが、どの格好も様々な色合いのころもえりそで元からのぞかせることで、季節を表現したり礼節を示したりする。

 ちなみに、からぎぬを羽織り、山折りのひだがついたこしに巻いた、いわゆるじゆうひとえは最上級の正装にあたる。自分より位階が高い人間と対面する場合の格好なので、典侍をはじめとしたじようろう女房は基本的にこの格好でいる。

 女御の桜子が十二単を身につける機会はそう多くないが、夕食を作るためとはいえ東宮がいる梨壺をおとずれるのだから、せめて移動中は十二単姿でなくてはならない。

「季節がらでいうならせちから更衣ころもがえまでは、色数少ない花やまぶきや梅染め辺りが好まれるのよね。けれど今回は、梨壺を初めて訪れるのだから、紅やもえを重ねてより格式高くした方が好まれる気もするし……」

 おもむろに紅の唐衣にれた桜子の手を、典侍はたたんだかわほりでぴしりと押さえた。

「色合わせよりも重要なお話でございます。よくお聞きくださいませ。桜子様にひとたび悪い噂が立てば、左大臣家までも悪評にさらされる危険があります」

 だいの中での評判は、さんだいする人々の口を通じて都に伝っていく。噂のこわいところは、人口をかいしていく間に、とんでもないひれがついてしまうことだ。

「ただでさえ、左大臣様がしつきやくすれば有利に立てる人間は、たんたんと桜子様のぼろが出るのを待っているのです。梨壺へおもむいての料理はおひかえくださいませ」

「典侍がそこまで言うのなら、私が通うのはあきらめた方がよさそうね」

 やむなく東宮には、夕食のたびにれいけい殿でんへ通ってもらうことになった。


 軽装になって台盤所に立った桜子は、しよくを広げながら昨晩のことを思い出す。

 花しか食べない東宮が、桜子が作った料理を口に入れて、それまで険しかった表情がふわりとゆるんだ時。

うれしかったな……)

 東宮の「おいしい」という一言がよみがえって、自然と顔がにやけてしまう。

 文字数にして四つの、たった一声。

 けれど、それは祭りでかなでられるおはやのように心をこうようさせるものだった。

 桜子は、すっかりやる気をかき立てられて次のこんだてを考える。

 美食譜には、前菜から主菜、かんまで、様々な料理の作り方が百ほど記されている。

 味付けの仕方も、塩気のあるもの、あまいもの、苦いもの、からいものとにわたるので、かれこうが分かればいくらでも合わせられるだろう。

「できればしゆんの食材を使って、それぞれの味のちがいを知ってもらいたいわ。長くお花とお酒しか口にしていなかったのなら、あっさりした味付けから少しずつ慣らして──」

「申し」

 とつぜんに話しかけられて、桜子は目を丸くした。

 見れば、ていないつながる戸口に、三十代くらいの見慣れない男性が立っていた。

 たけは、桜子の父より一尺ほど高いだろうか。この国ではまだめずらしい眼鏡をかけ、たてかぶったかみにはおくの一つもなく、のりがきいた白い直衣のうしはこざっぱりとしている。

「昨晩、東宮様がここで作られた料理をおしになったと、梨壺のとうぐうぼうからしらせがありましたが、事実でしょうか?」

たまがゆのことですね。おっしゃる通り、ここで作られたものです。あなたは?」

 巻物をするすると巻き上げる桜子に、男性はものごしおだやかに答える。

「申しおくれました。私は、ないぜんという部署で別当をしている安曇あずみただなりと申します。内膳司とは、みかどや東宮様に出す宮中料理を作っている部署で、各殿舎で料理をする膳司かしわでのつかさも私たちの調理法や盛り付け方にならっているのですよ」

「宮中料理をかんとくしているところなんですね。そちらの別当というと……」

です」

 大物の登場に、桜子は気が遠くなりかけた。長官というと、各部署の頂点に立つ人物である。内膳司の別当ということは、つまり忠成は、宮中料理の守り人だ。

「東宮様が召し上がった料理は、内膳司の方にお教えするほど立派なものではありませんわ!」

 あわてふためく桜子に、忠成は「とても興味深いものですよ」と眼鏡を光らせた。

「花う東宮様が料理をお気に召すことなどめつにありません。内膳司としては、東宮様がどういった料理なら食べてくださるのか、あくしておきたいのです」

 東宮が口にしてくれたおかげで、内膳司まで興味を持ってくれるとは。

 桜子は嬉しく思いながら、りをつけて説明する。

「東宮様が召し上がったのは、ねぎをたっぷり入れた玉子粥です。ふわふわした玉子が、池にいたれんの花のように見えるんですよ。の風味を生かした味付けを気に入っていただけて、とても光栄でしたわ」

「ほう。ということは、あなたが作ったのですね?」

「!」

 けつった。桜子が自ら台盤所に立っていることは、秘密にしようと決めたばかりだったのに。桜子はたじたじとあせをかくが、忠成の追及の手は止まらない。

「膳司にしては、高貴なふんの方だと思っておりました。身につけているものも上等ですね。てんじようけむしがあるとはいえ、かまどから上がるすすが着物をくすんだ色に変えてしまうので、台盤所では柄を織り出した布は着ないものなのに」

「そうなんですか!?」

 桜子は、鹿柄が浮き織りになった白い単衣ひとえを見下ろした。実家にいた頃と同じく、地味な衣を選んだのだが、それでも使用人に化けるには上等すぎたようだ。

「手もれてはいないようですね。もしや、あなたは、この麗景殿の──」

 正体を言い当てられそうになって桜子が身を固くした時、ふいにうでを引かれた。

ひめに何をしている?」

「東宮様!」

 体勢をくずした桜子をきとめたのは、げんそうな東宮だった。

 身につけたあいいろの直衣はこうたくが美しいおり。金のくみひもいており、折り目がきっちりついた灰色のさしぬきを合わせている。

 忠成は、いきなりの登場にもどうようすることなく頭を下げた。

「こちらで、東宮様の食事が作られたという報告があり参っただいです。どうやら、作られたのはその女御殿のようですね。葱入りの玉子粥はお口に合いましたか?」

 忠成のどうさつ力に、桜子は舌を巻いた。彼は少しの間に、桜子こそ東宮が口にした料理の作り手であり、さらに麗景殿の主人だといてしまった。

 きもを冷やす桜子とは違い、ちよくさいされた東宮は平然としている。

「ああ。この姫の料理は食が進む」

「では、だれかに強制されたわけではなく、ご自身で、女御殿を料理番にすると決められたのですね?」

 桜子が不安そうに見上げると、東宮は分かっていると言いたげに目でうなずいた。

「そうだ。料理番はおれの意思で頼んだこと。内膳司に口出しは許さない」

「口出しなどめつそうもありません。東宮様が健康になってくださることが何より重要です。それほどまでに女御殿の料理がお気に召したのでしたら、内膳司で預かっていた料理番の任はかのじよにお任せいたします」

「では、去れ」


 言われた通りに忠成がきびすかえしたので、桜子はとっさに呼びかけた。

「待ってください、忠成さん! 私が東宮様の料理番を引き受けていることは、秘密にしておいてもらえませんか。台盤所に立っていることが広まると困るんです!」

 けんめいうつたえると、足を止めた忠成は、眼鏡のつるを押し上げて一考する。

「そうですね……。内膳司としても、これが明るみに出れば、じゆだいしてきた姫に料理番をうばわれるとは何事だと批判が集まりかねません。私は秘密にいたしますが、料理を食べた東宮様のおんに異変があれば、誰が作ったのかに調べられてしまいます。くれぐれも注意して調理にあたっていただきたいです」

「任せてください。責任を持って、東宮様の夕食作りを務めます」

 桜子が胸を張って答えると、微笑ほほえんだ忠成はていねいに腰を折った。

「東宮様の料理番、何とぞよろしくお願いいたします」

 忠成が台盤所を出て行くのを待って、東宮は、桜子を抱きとめていた腕を解いた。

「忠成は口のかたい男だ。約束した以上は、他言される心配はないだろう」

「それなら安心ですね。助けてくださってありがとうございました」

 桜子が頭を下げようとすると、東宮に片手で止められた。

「料理を作ってもらえなくなると俺が困るから割って入っただけだ。礼はいらない」

 素っ気なく告げた東宮は、まゆをひそめて鼻先に袖を差しかける。

「台盤所に入るのは久しぶりだが、こんなにおいがするところだったか?」

 いつぱん的に、台盤所は煤と水と食材が混ざり合ったような独特なにおいがするものだが、ここに限っては他にはないかおりがただよっている。

「ここ特有だと思いますわ。香りのもとをご覧になりますか?」

 桜子が手で示したのは、台盤所のさいおうにあるおおだなだ。

 上中下の三段に区切られた棚には、父が集めたとうの食材がずらりと並んでいる。

 上段の手の平ほどの大きさのひょうたん壺にはこうしんりようの粉末が、中段にあるふたつきの白いとうには塩や砂糖といったりゆうが入れられている。

 下段のたるは、しようといった基本的な調味料をはじめ、植物の種からしぼり取った油など、空気に触れると長持ちしにくいものを大量にひとまとめにしてある。

 左大臣家では、香辛料や調味料は原料である実や枝ごと保管しているのだが、かさって持ち運びしにくいので、いつでもさっと使える形に加工して内裏に運び入れたのだ。

「これらは、料理に味や香りをつける唐の食材です。上段のものは『香辛料』といって、独特な風味が強いので容器の外まで香ってくるのですわ。これらがじゆうじつしているおかげで、この都で手に入る食材でも、風味豊かなおいしい料理を作れるんですよ」

 そもそも唐の食文化は、この国のものとはかなり異なっている。

 あちらは、絹を運ぶことにより発達した絹の道シルクロードと呼ばれる交易路によって、様々な地域の食材が手に入る。

 当然、海をへだてた平安の都では、手に入らない食材も多い。それらを別の食材で代用した時、たよりになるのがこの香辛料や調味料だ。

 東宮は無言で大棚に近づいて、ひょうたん壺を一つ取り上げた。

「……お前は、いつ頃から料理を?」

「唐の料理に出会ったのが八つの時なので、八年前からですね。背が低かったので、味噌樽の蓋をみ台にしてやっと、竈にせたなべを見下ろせたのを覚えています」

 ちょうど冬毛の君と出会い、ほんのりと色を帯びたようなはつこいをした頃だ。幼き日の桜子は簡単な料理しか作れなかったけれど、小さいなりに必死だった。

「本当に変わった姫だな……」

 低くつぶやいた東宮は、新たに手に取った牡蠣油オイスターソースびんを桜子に差し出した。

「料理を作る場面に立ち会わせてもらう」

「私はかまいませんが……。火を使うので、けむりが目にしみたり、お召し物がよごれたりしますわ。で待っていただいた方がいいと思います」

「見たこともない食材を使うのだから、この目で安全を確かめたい。それに、誰かに見られないように見張りが必要だろう?」

 東宮はかべぎわに積んでいたまきに腰を下ろして、地面に立てた太刀に両手を重ねた。さぐるような視線は、桜子の一挙一動までのがさないと言いたげだ。

 まるでしんしやのようにあつかわれて、桜子はむっとしてしまった。

いやな感じだけど、東宮様にとって未知のものである唐の料理への意識を変えるためにはこれも必要なことだわ)

 割り切った桜子は、ぴりぴりした視線を感じながら美食譜を広げた。

 どんな料理を作ろうか考えだすと視線の痛さなど忘れてしまったけれど、東宮は桜子が料理を作り上げるまで、目をらさずに観察し続けたのだった。


 完成した料理をぜんに載せた桜子は、女房の手を借りて母屋へと運んだ。

 時刻は、夕食を食べる七ツ時前。まだ日があるので、庭の様子がわたせる。

 様々な野の花が咲く麗景殿の庭には、しだれ桜の木が一本ある。

 とはいえ、ようやくつぼみがつき始めたばかりで花のさかりはまだ先だ。楽しめる花は、地面に生えている白い節分草くらいである。

 庭が見える母屋のひさしには、二枚のたたみかんかくをあけていてあった。東宮の膳を運んだ女房は、向かって左手側の畳の前に置いた。自分の分を運んできた桜子は右手側に置く。

 手伝いの女房と入れわるようにして、別の女房が二人がかりで東宮との間に立てるちようを運んできた。

 女性が食事を取ることは『はしたないこと』とされているので、貴族の女性たちは男性の前では食べない。桜子の母は、父が食べる場に同席することはあっても自らが食す場面は見せなかったし、桜子も異性の前では味見以上の食事はしてこなかった。

「それでは東宮様。私は、こちら側に失礼いたします」

 桜子が立てられた几帳のかげに入ろうとすると、突然、腕を引かれた。

「ここにいろ」

 呼び止められて、桜子は息をのんだ。東宮の表情は、真にせまったものがある。

「ここに、って……?」

 問い返せば、東宮は、くだらないことを聞くなと言いたげに眉をひそめた。

「俺と共に食べろ、という意味だ。女だからといって、ものかげに入ってこそこそ食べることはないだろう。料理についての話を聞くのに、几帳はじやだ」

 どうやら東宮には、貴族の常識とは異なる持論があるらしい。

 まどいつつも、それもそうかとなつとくした桜子は、典侍を呼んで命じた。

「几帳を外して、ひとばらいもお願いできる?」

「かしこまりました」

 几帳を下げてもらう間、桜子は、どきどきと脈打った胸を押さえていた。

 女房と典侍が一礼して別室へと下がると、桜子と東宮は二人きりになる。

「では、主な料理の説明からしますね。中央の蓋を取ってみてください」

 東宮が白磁の蓋を開けると、し上がったお月様色のらんえきに、しおけにした桜の花が一つ載っている。

「使った食材にこういったものはなかったはずだが、これはいったいなんだ?」

「卵を割るのは見ていらっしゃいましたよね。こちらは、それをきほぐして作った『桜のちやわんし』です。出汁で伸ばした卵液に、唐から渡ってきた砂糖という調味料でほんのり甘みをつけて、くちけよく熱してあります。唐の料理を参考にして作りました」

 美食譜には『とんけいたん』と記されている料理だ。

 卵は、京の都ではあまり食べられない食材だが、唐の料理にはよく使われる。

「具材は、と竹の子、かもにく。東宮様が選んでくださった牡蠣油は、コクを深めるかくし味として混ぜ込んであります。あつものこんましじる香物こうのものを抜いたわらび。緑の葉で上下をはさんでいるのは、もちはちみつで丸めた椿つばき餅です」

 桜子が手の平で示しながら献立を解説すると、東宮はしみじみと呟いた。

「唐の料理は、食材をあるがまま盛った宮中料理とは、見た目から異なるのだな……」

 宮中料理は、都の貴族たちが食べている料理と同じく、蒸したり焼いたりした食材を皿に盛り、塩やひたしながら口に入れるものだ。

 見た目はつまらないが、使われた食材は一目で分かる。それに比べて、一見すると何が使われているのか分からない桜子の料理はけいかいしんを抱かれやすい。

 東宮は、文句こそつけてこないものの、じっくりと料理を観察している。

「食べられそうですか? 無理でしたら残してください」

 桜子は気を回したつもりだったが、東宮の表情はさらにこわばってしまった。

「……毒は、絶対に入っていないと言えるか」

「毒、ですか?」

 食べ物の毒はおおまかに二種類あり、元から毒をふくんだ食材が原因のものと、食材の状態が悪くなったせいで発生した毒素が原因のものがある。

 毒きのこが前者、びてしまった餅が後者、といった具合だ。

 夕食用の食材は、宮中での食材配分を行うだいぜんしきから梨壺に届けられたものを麗景殿まで運んでもらったので、市の品よりも安全性は高い。

「大膳職が質の良いものを届けてくれたので、食材がいたんでいる心配はありませんわ」

「そうではない。ここでの毒は、盛られるものだ」

「盛られるって、料理に、ですか」

 さらりと言われた言葉が信じられなくて、桜子は目を見張ってしまった。

「ああ。お前が作っている最中は俺が見ていたから心配はないが、女房の手を借りて母屋に運んでいる間は目が届かなかった」

 桜子は、食事をきよしていた東宮が、なぜ料理する場面に同席したがるのか不可解に思っていたが、毒が入れられないか注視していたらしい。

 たしかに、うつわに毒のしるを加えるなど、使われている食材とは関係ない部分から混入させる方法もあることにはある。しかし、桜子はかい的だった。

 麗景殿で働く女房たちは、桜子の母が厳しく選定したしんらいできる者ばかりだからだ。

「私に仕える者たちは、そんなことはしないと思います、が……」

 説得しようと思ったが、入内してからこれまで桜子に出された宮中料理は、毒見されてから運ばれてくるので冷めきっていた。ここまで神経質になるほど宮中が危険なのだとしたら、危機感を覚えなければならないのは桜子の方だ。

「分かりました。こうしましょう」

 桜子は、自分用にと運んできた膳を、東宮の前に置かれた膳と取り替えた。

「もしも麗景殿の誰かが東宮様に毒を盛っていたなら、主である私が食べることになります。あなたの安全は、私が守りますから、安心してください」

 忠成にも宣言した通り、桜子は、東宮の食にまつわる全てをった。

 彼に安心して味わってもらうためなら、このくらいなんてことはない。

 東宮は、はっとした顔で桜子を見たが、表情にはまだきんちようの色が残っている。

(他に、安心させられることはないかしら?)

 すぐにひらめいた桜子は、かいに挟んで帯に差していた、しゆりのさじを引き抜いた。

「念のため、毒見もいたしましょうか。失礼いたします」

 一言断ってから、自分の前に置かれた料理に匙を入れる。

 蒸した卵液は雲をいているかのようにていこうがなく、すくった一口分が持ち上げる動作に合わせてふるふるとれる。

 口に入れると、甘くて、なめらかで、舌の上でとろける。

「うーん、おいしい!」

 桜子は、落っこちそうになるほおに手を当てて、身もだえした。

 味付けた卵液をただ加熱しただけでは、この味わいは出せない。

 調味してからして、さいばしを伝わせてそうっと器に注ぎ、弱火で時間をかけて蒸すことによって、せんさいな口溶けが完成するのだ。卵液にほうが入っていたり、強火でふつとうさせたりすると、すが立ってぼさぼさした口当たりになってしまう。

 桜子は、匙を片手に持ったまま、逆の手を開いたり閉じたりした。筋肉のこわばりや、しびれといったしようじようは現われない。口と食道にも、むかつきや痛みは感じられなかった。

「私の体調からすると、毒は入っていませんわ。東宮様が食べるはずだった膳が無事なのですから、私の方の膳なら、なおさら心配はありません」

 不安は取り除けたかと東宮を見ると、彼の目は、桜子のある一点に注がれていた。

「?」

 何かと思って見れば、味見に使った朱塗りの匙があった。

「それは……」

「大切な人がおくってくれた宝物なんです。これで味見をするのが、私の中で決まり事になっているんですよ」

 桜子は、ぬぐった匙をれいな懐紙に挟むと、再びふところに差し入れた。黒いひとみを揺らしてそれを見ていた東宮は、膳に視線を落として、ふっと微笑んだ。

「ずいぶんと物持ちがいいことだ」

 これまでの冷たい口調ではなく、心の深い場所かられ出たようなやさしい声だった。

 東宮の雰囲気ががらりと変わったので、桜子は、ぼうっと見入ってしまう。

 その間に、白木の匙を手に取った東宮は、おびえた様子もなく茶碗蒸しを口に含んだ。やわらかな食感におどろいたように、二、三度まばたきをしてから、頰をふわっと染める。

「おいしい」

 待ちに待った言葉が聞けて、桜子はほっとした。

 順調に食べ進めていった東宮は、満足げな顔つきで匙を置く。

 茶碗蒸しはほぼ完食。飯と羮は少しだけ手をつけてあり、香物はかじった程度だが、今まで花と酒で過ごしてきたことを思えば、大進歩だった。

「半分も食べられましたね。初日なのにらしいです!」

「食べられたのは、この料理がおいしいからだ。毒が入っているのではと疑って、すまなかった」

「いいえ。警戒されるのは悪いことではありませんわ。幼い頃から花びらをお召しになっていたなら、なおのこと料理は得体が知れないものでしょう?」

 桜子が問いかけると、東宮は「花しか食べなくなったのは最近だ」とていせいしながら、じやくさかずきへと酒を注いだ。

「昔は、どんな料理だって食べていた。食べられなくなったのは、立太子してすぐに宮中料理へ毒を盛られてからだ。俺の毒見役は、それが原因でくなってしまった。忠成の上司にあたる、気のいい男だった……」

 ざっといた風が、東宮の前髪を揺らす。

 杯になみなみと注がれた酒は、当時のそうぞうしさを映すようにうずえがいて乱れた。

「俺は、毒を盛られて初めて、人は食べ物でも死ぬのだと知った。それからは、ろくに味もしない上に危険な宮中料理を嫌々ながら食べることもないだろうと、食事を拒否してきた。毒を盛った犯人は、いまだに見つかっていない」

「そうだったのですね……」

 桜子は、過去に起きた大事件に思いをせた。

 東宮は、次の帝になる人物だ。彼は、これからそくするまでに、自分の臣下として働く信頼のおける人物をきわめなければならない。

 当然、彼とえんがある者は引き立てられてしようしんしていくだろうし、逆になんの繫がりもない者は、自分に有利なぎを求めて非道な手に出てもおかしくない。

 東宮は、やるせなさをみ込むように、一息に酒をあおった。

「俺は、命がしいなら、一人で花をつまむしかないと思って生きてきた。だが、この料理は、そのきようさえ忘れさせてくれる──」

 そして、懐紙に寄せていた桜の塩漬けを、そっとついばんで笑った。

「──君に頼んで正解だったな」

 花とぼうの競演にあつとうされて、桜子は口をぱくぱくと動かした。

 笑いかけられただけなのに、頭のてっぺんからつま先まで、ありとあらゆる血管が開いたように熱くなる。

(いったいどうなってるの!?)

 これまで桜子は、東宮を苦手だと感じていた。それは、れいこくいと唐の料理に疑いの目を向ける態度が、どうしてもいけ好かなかったからだ。

 たとえ料理番になっても仲良くなりはしないだろうと思っていたのに、急に柔らかい態度を見せられて、さらに優しい言葉までかけられて、まったく理解が追いついてこない。

「そうだ、桜子」

「は、はいっ!?」

 親しげに名前を呼ばれて桜子がぎようてんすると、東宮はおかしげに目を細める。

「俺のことははると呼んでくれ」

「えっと、それは……」

 貴族は、位階がそのまましようになる。東宮ならば、けいしようをつけた東宮様が一般的だ。名前で呼び合うとなると、かなり打ち解けたあいだがらとしか考えられない。

「私なんかが、そのようにお呼びしてもいいものでしょうか?」

 桜子がそろりとうかがうと、東宮──悠斗は何も言わずにくちびるを描いた。れいしようではなく、はにかんだといった方が近い、心がむずがゆくなるようなはなみだった。

「ごちそうさま、桜子。また明日」

 約束する声は、清らかなすずの音のように、桜子の胸にひびいた。

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