三章 東の彼方へ秘密をのせて
その1
夕食作りのため、
「他の
「典侍は用心深すぎるわよ。料理番を
桜子は、紅や水色、菜の花色の
ちなみに、
女御の桜子が十二単を身につける機会はそう多くないが、夕食を作るためとはいえ東宮がいる梨壺を
「季節
おもむろに紅の唐衣に
「色合わせよりも重要なお話でございます。よくお聞きくださいませ。桜子様にひとたび悪い噂が立てば、左大臣家までも悪評にさらされる危険があります」
「ただでさえ、左大臣様が
「典侍がそこまで言うのなら、私が通うのは
やむなく東宮には、夕食のたびに
軽装になって台盤所に立った桜子は、
花しか食べない東宮が、桜子が作った料理を口に入れて、それまで険しかった表情がふわりと
(
東宮の「おいしい」という一言がよみがえって、自然と顔がにやけてしまう。
文字数にして四つの、たった一声。
けれど、それは祭りで
桜子は、すっかりやる気をかき立てられて次の
美食譜には、前菜から主菜、
味付けの仕方も、塩気のあるもの、
「できれば
「申し」
見れば、
「昨晩、東宮様がここで作られた料理をお
「
巻物をするすると巻き上げる桜子に、男性は
「申し
「宮中料理を
「
大物の登場に、桜子は気が遠くなりかけた。長官というと、各部署の頂点に立つ人物である。内膳司の別当ということは、つまり忠成は、宮中料理の守り人だ。
「東宮様が召し上がった料理は、内膳司の方にお教えするほど立派なものではありませんわ!」
「花
東宮が口にしてくれたおかげで、内膳司まで興味を持ってくれるとは。
桜子は嬉しく思いながら、
「東宮様が召し上がったのは、
「ほう。ということは、あなたが作ったのですね?」
「!」
「膳司にしては、高貴な
「そうなんですか!?」
桜子は、
「手も
正体を言い当てられそうになって桜子が身を固くした時、ふいに
「
「東宮様!」
体勢を
身につけた
忠成は、いきなりの登場にも
「こちらで、東宮様の食事が作られたという報告があり参った
忠成の
「ああ。この姫の料理は食が進む」
「では、
桜子が不安そうに見上げると、東宮は分かっていると言いたげに目で
「そうだ。料理番は
「口出しなど
「では、去れ」
言われた通りに忠成が
「待ってください、忠成さん! 私が東宮様の料理番を引き受けていることは、秘密にしておいてもらえませんか。台盤所に立っていることが広まると困るんです!」
「そうですね……。内膳司としても、これが明るみに出れば、
「任せてください。責任を持って、東宮様の夕食作りを務めます」
桜子が胸を張って答えると、
「東宮様の料理番、何とぞよろしくお願いいたします」
忠成が台盤所を出て行くのを待って、東宮は、桜子を抱きとめていた腕を解いた。
「忠成は口の
「それなら安心ですね。助けてくださってありがとうございました」
桜子が頭を下げようとすると、東宮に片手で止められた。
「料理を作ってもらえなくなると俺が困るから割って入っただけだ。礼はいらない」
素っ気なく告げた東宮は、
「台盤所に入るのは久しぶりだが、こんな
「ここ特有だと思いますわ。香りのもとをご覧になりますか?」
桜子が手で示したのは、台盤所の
上中下の三段に区切られた棚には、父が集めた
上段の手の平ほどの大きさのひょうたん壺には
下段の
左大臣家では、香辛料や調味料は原料である実や枝ごと保管しているのだが、
「これらは、料理に味や香りをつける唐の食材です。上段のものは『香辛料』といって、独特な風味が強いので容器の外まで香ってくるのですわ。これらが
そもそも唐の食文化は、この国のものとはかなり異なっている。
あちらは、絹を運ぶことにより発達した
当然、海を
東宮は無言で大棚に近づいて、ひょうたん壺を一つ取り上げた。
「……お前は、いつ頃から料理を?」
「唐の料理に出会ったのが八つの時なので、八年前からですね。背が低かったので、味噌樽の蓋を
ちょうど冬毛の君と出会い、ほんのりと色を帯びたような
「本当に変わった姫だな……」
低く
「料理を作る場面に立ち会わせてもらう」
「私はかまいませんが……。火を使うので、
「見たこともない食材を使うのだから、この目で安全を確かめたい。それに、誰かに見られないように見張りが必要だろう?」
東宮は
まるで
(
割り切った桜子は、ぴりぴりした視線を感じながら美食譜を広げた。
どんな料理を作ろうか考えだすと視線の痛さなど忘れてしまったけれど、東宮は桜子が料理を作り上げるまで、目を
完成した料理を
時刻は、夕食を食べる七ツ時前。まだ日があるので、庭の様子が
様々な野の花が咲く麗景殿の庭には、しだれ桜の木が一本ある。
とはいえ、ようやく
庭が見える母屋の
手伝いの女房と入れ
女性が食事を取ることは『はしたないこと』とされているので、貴族の女性たちは男性の前では食べない。桜子の母は、父が食べる場に同席することはあっても自らが食す場面は見せなかったし、桜子も異性の前では味見以上の食事はしてこなかった。
「それでは東宮様。私は、こちら側に失礼いたします」
桜子が立てられた几帳の
「ここにいろ」
呼び止められて、桜子は息をのんだ。東宮の表情は、真に
「ここに、って……?」
問い返せば、東宮は、くだらないことを聞くなと言いたげに眉をひそめた。
「俺と共に食べろ、という意味だ。女だからといって、
どうやら東宮には、貴族の常識とは異なる持論があるらしい。
「几帳を外して、
「かしこまりました」
几帳を下げてもらう間、桜子は、どきどきと脈打った胸を押さえていた。
女房と典侍が一礼して別室へと下がると、桜子と東宮は二人きりになる。
「では、主な料理の説明からしますね。中央の蓋を取ってみてください」
東宮が白磁の蓋を開けると、
「使った食材にこういったものはなかったはずだが、これはいったいなんだ?」
「卵を割るのは見ていらっしゃいましたよね。こちらは、それを
美食譜には『
卵は、京の都ではあまり食べられない食材だが、唐の料理にはよく使われる。
「具材は、
桜子が手の平で示しながら献立を解説すると、東宮はしみじみと呟いた。
「唐の料理は、食材をあるがまま盛った宮中料理とは、見た目から異なるのだな……」
宮中料理は、都の貴族たちが食べている料理と同じく、蒸したり焼いたりした食材を皿に盛り、塩や
見た目はつまらないが、使われた食材は一目で分かる。それに比べて、一見すると何が使われているのか分からない桜子の料理は
東宮は、文句こそつけてこないものの、じっくりと料理を観察している。
「食べられそうですか? 無理でしたら残してください」
桜子は気を回したつもりだったが、東宮の表情はさらにこわばってしまった。
「……毒は、絶対に入っていないと言えるか」
「毒、ですか?」
食べ物の毒はおおまかに二種類あり、元から毒を
毒きのこが前者、
夕食用の食材は、宮中での食材配分を行う
「大膳職が質の良いものを届けてくれたので、食材が
「そうではない。ここでの毒は、盛られるものだ」
「盛られるって、料理に、ですか」
さらりと言われた言葉が信じられなくて、桜子は目を見張ってしまった。
「ああ。お前が作っている最中は俺が見ていたから心配はないが、女房の手を借りて母屋に運んでいる間は目が届かなかった」
桜子は、食事を
たしかに、
麗景殿で働く女房たちは、桜子の母が厳しく選定した
「私に仕える者たちは、そんなことはしないと思います、が……」
説得しようと思ったが、入内してからこれまで桜子に出された宮中料理は、毒見されてから運ばれてくるので冷めきっていた。ここまで神経質になるほど宮中が危険なのだとしたら、危機感を覚えなければならないのは桜子の方だ。
「分かりました。こうしましょう」
桜子は、自分用にと運んできた膳を、東宮の前に置かれた膳と取り替えた。
「もしも麗景殿の誰かが東宮様に毒を盛っていたなら、主である私が食べることになります。あなたの安全は、私が守りますから、安心してください」
忠成にも宣言した通り、桜子は、東宮の食にまつわる全てを
彼に安心して味わってもらうためなら、このくらいなんてことはない。
東宮は、はっとした顔で桜子を見たが、表情にはまだ
(他に、安心させられることはないかしら?)
すぐにひらめいた桜子は、
「念のため、毒見もいたしましょうか。失礼いたします」
一言断ってから、自分の前に置かれた料理に匙を入れる。
蒸した卵液は雲を
口に入れると、甘くて、なめらかで、舌の上でとろける。
「うーん、おいしい!」
桜子は、落っこちそうになる
味付けた卵液をただ加熱しただけでは、この味わいは出せない。
調味してから
桜子は、匙を片手に持ったまま、逆の手を開いたり閉じたりした。筋肉のこわばりや、しびれといった
「私の体調からすると、毒は入っていませんわ。東宮様が食べるはずだった膳が無事なのですから、私の方の膳なら、なおさら心配はありません」
不安は取り除けたかと東宮を見ると、彼の目は、桜子のある一点に注がれていた。
「?」
何かと思って見れば、味見に使った朱塗りの匙があった。
「それは……」
「大切な人が
桜子は、ぬぐった匙を
「ずいぶんと物持ちがいいことだ」
これまでの冷たい口調ではなく、心の深い場所から
東宮の雰囲気ががらりと変わったので、桜子は、ぼうっと見入ってしまう。
その間に、白木の匙を手に取った東宮は、
「おいしい」
待ちに待った言葉が聞けて、桜子はほっとした。
順調に食べ進めていった東宮は、満足げな顔つきで匙を置く。
茶碗蒸しはほぼ完食。飯と羮は少しだけ手をつけてあり、香物は
「半分も食べられましたね。初日なのに
「食べられたのは、この料理がおいしいからだ。毒が入っているのではと疑って、すまなかった」
「いいえ。警戒されるのは悪いことではありませんわ。幼い頃から花びらをお召しになっていたなら、なおのこと料理は得体が知れないものでしょう?」
桜子が問いかけると、東宮は「花しか食べなくなったのは最近だ」と
「昔は、どんな料理だって食べていた。食べられなくなったのは、立太子してすぐに宮中料理へ毒を盛られてからだ。俺の毒見役は、それが原因で
ざっと
杯になみなみと注がれた酒は、当時の
「俺は、毒を盛られて初めて、人は食べ物でも死ぬのだと知った。それからは、ろくに味もしない上に危険な宮中料理を嫌々ながら食べることもないだろうと、食事を拒否してきた。毒を盛った犯人は、いまだに見つかっていない」
「そうだったのですね……」
桜子は、過去に起きた大事件に思いを
東宮は、次の帝になる人物だ。彼は、これから
当然、彼と
東宮は、やるせなさを
「俺は、命が
そして、懐紙に寄せていた桜の塩漬けを、そっとついばんで笑った。
「──君に頼んで正解だったな」
花と
笑いかけられただけなのに、頭のてっぺんからつま先まで、ありとあらゆる血管が開いたように熱くなる。
(いったいどうなってるの!?)
これまで桜子は、東宮を苦手だと感じていた。それは、
たとえ料理番になっても仲良くなりはしないだろうと思っていたのに、急に柔らかい態度を見せられて、さらに優しい言葉までかけられて、まったく理解が追いついてこない。
「そうだ、桜子」
「は、はいっ!?」
親しげに名前を呼ばれて桜子が
「俺のことは
「えっと、それは……」
貴族は、位階がそのまま
「私なんかが、そのようにお呼びしてもいいものでしょうか?」
桜子がそろりと
「ごちそうさま、桜子。また明日」
約束する声は、清らかな
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