その2

花ざかりの桜の大木を回り込むと、思いがけないほど近くにひとみがあってびっくりした。

「あっ、あなた、何をしてるの?」

「……何もしてない」

 ねた口調で答えたのは、かげすわり込んだ少年だった。

 若草色の狩衣と灰色のはかまを身に着けた体は、桜子より二回りも大きくぽっちゃりしていて、結った髪は綿毛のようにふわふわだ。

 ひときわ桜子の目を引いたのは、黒々とした瞳だった。まっさらでくもりがなく、真っ白いみちのくがみに書きつけたすみよりもきわっている。

 高貴そうなふうぼうから、使用人の子ではないとすぐに分かった。

 どこから来たのかたずねようとした時、少年のお腹が鳴った。

「お腹がすいてるの?」

「………………」

 少年が口を引き結んで答えなかったので、桜子は、さっきの音の主はかれだと確信した。

 兄がいることもあり、このくらいの男子の意地の強さは知っている。本音をさらすことを、まるで弱点を明かすもののように思い込んでいて、人の言葉になおうなずかないのだ。

 相手をするのはめんどうだが、だからといって見過ごせない。迷い込んだのが子犬だろうが少年だろうが、空腹のつらさを、桜子は誰より分かっている。

「ほら、こっち!」

 桜子は少年の手を摑んで、全力で引っ張った。

 立ち上がった少年の足が止まらないように、勢いに任せて林を突っ切り、対の屋を仕切るがきに沿って建物に近づく。

 今日は、北の対に住む祖母をあまが訪問しているので、屋敷全体がひっそりとしている。

 東の対の裏手に出た桜子は、台盤所の戸に指をかけて、細く開いて目を当てた。使用人はいなかったので、中に入ってたなを見上げると、笹の葉包みが置かれている。

(ちょうどよかった)

 桜子は、少年をすみの円座に座らせて、彼のひざの上で包みをほどく。

 たがちがいに重なっていた笹の葉には、二つのおにぎりが包まれていた。

「どうぞ、し上がれ」

 がおすすめたが、少年は、ちらりといちべつしただけで手を伸ばさない。

「……しよみんと同じものは口にしない」

「えー!」

 喜んで食べるだろうと思っていた桜子はあきれてしまった。

 少年がどれだけ高貴だろうと、食べ物にせんがあるはずもない。しかも、これはげんまいきねで突いてぬかを取り除いた白米だ。庶民には手が届かないぜいたく品である。

(すぐになびかないのが貴族の作法って言うけど、あんまりだわ)

 他の料理を探すが、棚にもかごにも作り置きはない。食材も見当たらないから、使用人は総出で市に買い出しに行ったのだろう。

 あるものといえば、味噌樽と、父の下手な字で『あぶら』なる張り紙がされたへいと、火のくすぶる竈と平鍋だけ……。

(ん? 胡麻油?)

 同じ文字を見たおくがあった桜子は、美食譜を思い起こした。

 たしか、照り焼きの横に『焼飯』という料理が記されていたはずだ。炊いた米に醬油を塗って胡麻油で焼く料理だったから、ここにあるもので作れる。

 桜子が膝からおにぎりを取り上げると、少年はげんそうにまゆをひそめた。

「何をする」

「少しだけ待っていて。とびきりおいしい料理を作ってあげる」

 桜子は、手首に巻いていたしゆ紐をほどいて、髪を結った。

 かき上げて後ろに落とすと、紐の端に結びつけられたすずがチリンと鳴る。

 すずやかな音は、行動の合図だ。

 動き出した桜子は、おにぎりの表面に、味噌の上にまった醬油を塗った。それを鍋にかせて薪を竈に放り込むと、炎が強まってじわりと顔が熱くなる。

 続けて、瓶子に入っていた胡麻油を鍋はだにつつつとすべらせると、たちまちにと醬油の香ばしい匂いが台盤所に広まった。

「なんなんだ、この匂いは……」

 香りに引き寄せられた少年は、立ち上がって鍋の中を見た。興味深そうに目をかがやかせるのがおもしろくて、桜子は、鍋をすっておにぎりをひっくり返してみせる。

「わあ!」

 現われたお焦げに、少年は意地を張るのも忘れてかんせいを上げた。

 おかげで桜子は、自分がとびきりすごい料理人になったような気がした。

「さあ、できたわ。名付けて『焼きおにぎり』よ!」

「焼き、おにぎり?」

 笹の葉に取り上げると、少年は、ごくんと喉を鳴らした。視線は湯気を立てるおにぎりにくぎけだったが、食欲よりも意地がまさったらしく、口だけの文句をつけてくる。

「さっきより不格好なものを、おいそれと食べるわけにはいかない」

「そう? 食べないなら、私が食べるわね。うーん、おいしそうな匂い!」

「待って!」

 やはり興味はあったらしい。あせがおそでを引かれて、桜子はふふっと笑う。

「はい。熱いから気をつけて」

 二つの焼きおにぎりのうち、一つを笹ごとわたすと、少年はお焦げを不安そうに見つめた。食べるかどうかのしゆんじゆんの末に「いただきます」と小声で告げて、大きな口でかぶりつく。桜子も口にふくむと、香ばしくて味わい深い。今にもほっぺたが落ちそうだ。

 もだえる桜子の横で、もぐもぐと口を動かしていた少年は、飲み込むなり頰を染めた。

「……おいしい」

 口に出すとおさえがきかなくなったらしく、少年はうわついた様子で感想をこぼした。

「醬油で焦げた表面がほろほろとほどけて舌の上でおどる。こんなおにぎりは、今まで食べたことがないよ!」

「そうでしょう、そうでしょう!」

 められた桜子は、えもいわれぬ幸福感を覚えた。作って自分で食べることばかり考えていたけれど、誰かに「おいしい」と言ってもらえるのも料理のだいなのだ。


 あっという間に焼きおにぎりを完食した少年は、頰にご飯つぶをつけたまま、しんすいした顔で桜子の手を取った。

「不格好とけなしてごめん。きみの作った料理は、とてもおいしかった。できることなら毎日食べたいくらいだ。いつも台盤所に立っているの?」

「え、えっと……」

 うんともすんとも言えずに、桜子はだまり込んだ。

 お腹をすかせた少年のためとはいえ、禁じられた料理をしてしまったのだ。料理を気に入ってくれたのは嬉しいが、母のいかりを思い出すと後ろめたい気持ちになる。

「あのね……。本当なら、私は料理を作ってはいけないの。母さまが、台盤所に立つなんて姫らしくないって言うのよ。誰かに見られたら一族の恥さらしだとも言われたから、自分で作るのはやめようと思っていたの。それに、父さまは才能があるって褒めてくれたけれど、不格好なものしか作れないし……」

 父が言うには、唐の料理は、見た目も美しく飾りたてるものらしい。

 桜子の腕が未熟なことは明らかだった。

「もっと上手だったら、あなたに毎日食べさせてあげたいんだけど……」

 ふとれた本音を拾った少年は、「それなら」と微笑ほほえんだ。

「いい考えがあるよ。きみが料理を練習している間、誰も近づかないようにおれが見張っている。その代わり、作った料理をいつしよに食べさせてもらえないかな?」

 思わぬ申し出に、桜子は、胸をはずませて飛びついた。

「それ、とっても素敵な考えね!」


 その日から、少年は屋敷に通ってくるようになった。

 林のおくの方に築地ついじくずれ目があるので、しのび込むのは難しくないのだという。

 少年と桜の木の下で待ち合わせた桜子は、使用人たちが買い物に出かける時間を見計らって、こっそり台盤所に忍び込んだ。

 桜子が料理を作っている間、少年が辺りに目を光らせていて、使用人が近づいてきたら大急ぎでかくれた。すきを見て完成した料理は、二人で並んで食べる。

 食事を共にすると、お腹も心も満たされた。

 桜子は、少年のことを知りたかったけれど、彼は養い親にめいわくがかかるからと名前すら教えてくれなかった。

「じゃあ『冬毛の君』って呼んでもいい?」

 ふわふわの髪の毛と黒いが、冬の寒さにえる子犬みたいで、ぴったりだと思ったのだが、少年は不本意そうに眉根を寄せた。

「それは、かっこ悪くないかな……」

「そんなことないわ。私、犬の堂々としているところが大好きなの!」

 桜子が幼い頃、とおえんしんせきが、飼っている成犬をこの屋敷まで連れてきてくれたことがあった。くるんと丸まったや、撫で回してもえない従順さ、差し出した手に前足を載せる利口さに、桜子はすっかりとりこになったのだ。

「犬はね、やさしくて、ゆうかんで、いざという時は、きばいて大切な人を守るのよ。すごくかっこいいんだから!」

「姫がそう思っているなら、それでも、かまわないけれど……」

 少年がしぶしぶながら『冬毛の君』呼びに同意してくれたのは、ちょうど三日目。

 大人の男性なら屋敷通いでけつこんが認められる日に桜子が作ったのは、甘みのある豆を混ぜたお団子だった。

 甘みにいしれる桜子の横で、冬毛の君は食べずに黙っている。

「……明日、よしの里に帰ることになった」

「え?」

 桜子は、予想外の言葉におどろいて、お団子を喉にまらせた。

 慌てて胸の真ん中をたたく間にも、冬毛の君の話は進んでいく。

「おれは、花見のために養い親と近くの寺にたいざいしていたんだ。都をはなれたら、宇治を過ぎ、松尾山まつのおやまえて、くろたきの辺りまでのぼる。きっともう姫とは会えない」

「くふっ! そんな……。もう一緒にご飯を食べられないの?」

 喉のつかえが取れた桜子の胸にさびしさが込み上げた。

 桜子は冬毛の君のおかげで、誰かと並んで料理を食べる喜びを知った。台盤所に立てたのも、桜子の胸中を理解して見張り番になってくれた彼がいたからだ。彼が通ってこなくなれば、ご飯を楽しく食べたり、こっそり料理したりすることは難しくなるだろう。

 桜子がしようちんすると、冬毛の君は「元気を出して」と言って懐から料紙を取り出した。

「これを受け取ってほしい。姫の料理が上達するように、ほとけに願をかけてきた」

 受け取って開くと、上等なしゆ塗りをほどこした匙が収められていた。持ち手には、五色の布が結ばれた鈴のまきが入っていて、陽光を受けると砂金のように輝く。

れい……」

 そうっと匙を持ち上げた桜子の手を、冬毛の君は両手でにぎりしめる。

「何があっても、この匙が守ってくれる。だから、おれが通ってこなくなっても料理を続けてほしいんだ。おれは、姫の料理が大好きだよ」

 しんけんに気持ちを伝えられて、桜子の胸はじんとした。

「ありがとう。一人でも料理を練習するわ。都に来ることがあったら、この屋敷を訪ねてきて。今よりうんとおいしい料理を作れるようになって、おもてなししてあげる!」

「うん、きっと……」

 寂しげに笑いながら、冬毛の君は、匙を握る桜子の指先にそっとくちびるを押し当てた。

(っ!?)

 どきり、と胸に切ないかんしよくを残して、短いおうは終わった。

 その日を境に、冬毛の君は姿を見せなくなった。

 けれど、彼との約束は、桜子の胸に消えない火をけた。


 母の目をかいくぐって乳母から料理のを学び、父にたのみ込んで美食譜をゆずってもらい、唐の料理を再現するために台盤所に立ち続けること、八年──。

 すっかり身長が伸びた桜子は、踏み台がなくとも竈に向き合える少女に成長した。

 大きくて丸い目があいきようある顔は、みづくりの人形のように小さく、きくを包む真綿のように白い手足は、台盤所のせまさをものともせずに立ち回る。

 しかし、長ければ長いほど美人の条件となる黒髪は、料理のじやになるので膝元で切り揃えてあった。

 着ているものも貴族の姫らしいうちぎ姿ではなく、白衣にいろ袴という軽装だ。

「よし。かにたま餡かけの完成!」

 桜子は、菜箸で鍋のふちを叩いて、料理を丸い皿に移した。

 盛り付けた料理は火の通りがよいあんばいで、お月様のような色合いの玉子とそれを包み込む餡ののうたんが美しい一品だ。

 冬毛の君からもらった朱塗りの匙で味見をすると、黒砂糖で仕立てた甘い餡に、回しかけた酢の酸味が調和している。

「我ながら、れするおいしさだわ……」

 うっとり感じ入っていると、明後日あさつての方向から声が上がった。

「姫様がまためんようなものをお作りになったぞ」

「あや、恐ろしい色じゃ」

「鼻を突く匂いもするぞえ」

 首をめぐらせると、青い顔をした使用人たちが、戦々きようきようとした様子で台盤所を覗き込んでいる。桜子が料理をして、彼らが大騒ぎするまでが一連の日課だ。

 今日も、やれ「お止めあそばせ」やら「北の方にしらせを」とか、どんどん物々しい方向に悪化していくので、桜子は、またかと思いながら皿をかたむけた。

「みんな口だけ達者なんだから。今日こそは勇気を出して一口食べてみない?」

 すると、使用人たちはさっと顔をそむけた。こうして名乗り出ないのも、いつも通りだ。

 それだけ唐の料理へのへんけんは根深い。都でいつぱん的に手に入る食材を使っているのに、刻んで混ぜて加熱してからふうに味付けすると、見慣れないからと不気味がられてしまう。

 それらを作る桜子も同様に、だ。

 使用人のように自らの足で市におもむき、台盤所に立って料理を作るものだから、結婚てきれいまっさかりの十六歳だというのに、こいぶみの一つも届いたことがない。

 父が左大臣という要職にあるので、出世のために繫がりを持ちたい貴族は山ほどいるだろうに。

(まあ、ける気持ちは分からなくもないけど)

 都の男性たちは、どこそこの屋敷に美しい姫がいるという噂を聞くだけで恋に落ちる。

 桜子の実体が美人だろうが不美人だろうが、悪い噂があるならば落とし穴を回り込むがごとく避けるのはけんめいな判断だ。

 桜子だって、料理することをとがめたてるようなきもの小さい男の妻にはなりたくない。

 おっかなびっくりでもかまわないから、どんな料理を作っているのか、どんな味がするのか、興味を持ってくれるような男性がいい。

 そんな人なら、見た目も育ちも、身分も問わないのだが。

「高望みなのかな……」

「桜子姫、お館様と北の方様が北の対にお呼びですよ」

 悩んでいると、騒ぐ使用人たちの間から乳母が顔を出した。

「父様と母様が? 分かった。すぐに行くわね」

 台盤所から出しなに髪をほどいた桜子は、袴のすそも伸ばさずに北の対へ向かった。冬毛の君と出会った頃には祖母が住んでいたが、くなった今は母の住まいとなっている。

 貴族の屋敷では、家族はそれぞれ別のむねに暮らすのが一般的だ。

 桜子は東の対に、家主である父は中央のしん殿でんに暮らしていて、呼ばれでもしなければおたがい顔も見ずに生活している。

「お待たせしました」

 桜子がひさしに膝をつくと、たたみに座った母のけんに深いしわが寄った。

「左大臣家の姫ともあろう娘がひどい格好じゃ……。せめて重ね袿ぐらいせぬか」

「だって、この格好が一番動きやすいのよ。綺麗な小袿姿で竈に近寄ったら、あっという間にすすよごれてしまうし、もしも火が燃え移ったら大変でしょう?」

「そういう話をしているのではない!」

 母は、いらちをあらわにして、たたんだおうぎを膝に叩きつけた。

「台盤所に立つなと何度も言っておろうに、なぜ竈に向かう前提になっておる! そなたがそんな風だから、通う殿とのがた一人いないのじゃぞ! いい加減に料理はやめよ!」

「今さらやめても、誰も通っては来ないと思うけど──」

 つい本音を漏らすと、母からにらまれた。うっ、と言葉をみ込むと、母のとなりに座った父が、どうどうと馬でも落ち着かせるようになだめる。

「聡子さん。今日はおん便びんに。特別なお話の前だから、ね?」

 普段からしりかれまくり、いつか平らになるのでは? と心配になるほど弱気な父だが、今日は輪をかけて元気がない。

 出仕帰りの束帯姿からあいしゆうまでも感じられたので、桜子は、おやと思った。

「父様、お顔色が悪いようだけど、どうなさったの?」

「実は、桜子にえんだんがきたんだよ。しかもじゆだいばなしなんだ」

「私が、入内?」

 入内とは、だいと呼ばれる都の中心にいるみかどしんのうのもとへとつぐことだ。広い殿でんしやと高貴な身分をあたえられて、市中とは比べものにならない上等な暮らしを約束される。

 つうの姫なら泣いて喜ぶ事態だろうが、桜子はいぶかしんだ。左大臣家の娘とはいえ、投げ売り状態ですら買い手がいない自分には、ずいぶんと大それた話だ。

「藤原一族からは、父様の妹のとお様が入内して、帝の皇子である四の宮を産んでちゆうぐうになっているでしょう。私が嫁がなくても勢力はばんじやくではないの?」

「まあ、聞いておくれ。相手は主上ではなくて、とうぐう様なんだ」

 現在十九歳の東宮は、きんじようていの三の宮である。皇后から生まれた先の東宮が病ではかなくなり、続けて二の宮も不幸にって、慌てて位に立てられた。当時、争乱が起きたように昼も夜もなくさんだいする父を見ていたので、桜子の記憶に残っていた。

「東宮様が立太子されたのは、もう二年も前よね。どうして今になって急に入内話を?」

「実は、政敵である右大臣家の姫君が東宮として内裏に入ったので、我が左大臣家からも姫を、という話が一族から出てね。いや、父様はお断りしたんだよ! なんせ、当代の東宮様といえば、てつくような氷の瞳と近寄りがたい殺気を帯びた、れいこくおおかみしようされるお方だ……」

「ああ、それで私におはちが回ってきたの」

 桜子は、何が起きているのか、はっきりと理解した。

 いくら東宮位にいているとしても、血が通っていないような冷たい男に、誰が嫁ぎたいものか。親の方も同じ思いで縁談をたらい回しにして、桜子に白羽の矢が立ったのだ。

「つまり、狼のように恐ろしい東宮は、あちこちの有力者から娘の入内をきよされて、やっと右大臣家の娘を摑まえたものの、今度は権勢争いに火がついて、弱気な父様が引き受けざるを得なかった、ということね」

 ふむふむと事態を吞み込んでいく桜子を、母はれつのごとくたしなめた。

ごとのように話すでないわ! 桜子、そなたには左大臣家のために東宮のきさきとなり、子を産んでもらわねばならぬ。たとえ相手が狼だろうと。分かっておろうな!」

「それは、もちろん分かっているけど……」

 冷静な頭とは裏腹に、心の方はやるせなかった。

 貴族の娘として、政略こんは避けて通れない運命だ。この時代、高い身分の相手と結婚して、その血が流れる子を産むことが、ひいては一族の生活まで保障する。

 東宮のちようあいを受けて男の子を産めば、遠くないに帝になる可能性がある。そして、娘が皇子をもうけた事実があれば、家のえいはより長く続く。そういうものなのだ。

(内裏に入ったら、自由に台盤所に立てなくなるわよね……)

 東宮に気に入られるためには、姫らしくわなくてはならないから、当然ながら料理は禁止されるだろう。また味のない粥に苦しめられる日々がやってくる……。

 桜子がものげに目をせると、母は、ふんと鼻を鳴らした。

「そうして大人しくしていれば、たいそう可憐なことよ。幼き日に唐の料理にりようされなければ、よめもらい手はごまんといたじゃろうに、まったく誰に似たものか」

 母に横目で睨まれて、父はあせをかきながら縮こまった。

「本当にすまなかった。父様が唐物の食にっているせいで、桜子までな目で見られてしまうなんて、考えてもみなかったんだ……」

あやまらないで、父様。私たちが愛する唐の料理は、決して変なものではないわ」

 唐の料理と出会えたことは、桜子の人生においてこれ以上ない幸福だ。

 冬毛の君との約束もあったけれど、台盤所に立つのをやめなかったのは、唐の食材が、美食譜が、そこから生み出される料理が素晴らしかったからである。

「悪いのは、こわがって味見もしてくれないくせに悪い噂ばかり立てる人たちよ。父様が謝ることはないし、周りから恐れられる覚えも、変人あつかいされる覚えもないんだから!」

 桜子は、作る料理にはすこぶる自信があったから、このまま誰にも食べてもらえずに入内するのは、偏見に負けてげるみたいでくやしかった。

「唐の料理のおいしさを、たくさんの人に知ってほしかったな……」

「それなら、この入内は良いけいとなるかもしれぬぞ」

「え?」

 桜子がぱっと顔を上げると、母は、これ見よがしにおうぎを広げた。

 三十九枚で一揃えの板面にえがかれているのは、みやびやかな宮中絵だ。貝合わせをするにようぼうと、ついたてへだてて、黒い膳に載った食事を口にする貴人の姿がある。

「よく考えてみよ。内裏の中で食べられている宮中料理は、この国で作られる食事の見本のようなものじゃ。入内すれば、実際に食べる立場になる。そうなってから『唐の料理に比べておいしくない』と、真っ当に文句を言えばよかろう。運良く帝の耳に入って、唐の料理の方がおいしいと認めていただければ、偏見などひっくり返るぞ」

「帝に認めてもらえたら、唐の料理への偏見がなくなる……」

 まさにつるの一声だった。桜子は、深く考える間もなく飛びつく。

「私、入内話を受け入れるわ!」

 どうせ、たらい回しにされて、最後に桜子のもとへ流れ着いた縁談だ。

 誰が嫁いでもかまわないというのなら、内裏に入る口実に使わせてもらおう。

 すっかり乗り気になった桜子を見て、父はおろおろとまどった。

「落ち着いて、桜子。入内って結婚のことだよ。東宮様の妃になるんだよ。そんな軽い調子でお嫁に行ってしまったら、話を持ってきた父様が複雑な心境だよ!」

「あなたさま。当人が受け入れたのじゃ。夢見るくらいよろしかろう」

「そうは言っても。姫君が宮中で料理なんてしたら大事になってしまうよ、聡子さん!」

 今にも泣き出しそうな父とは違って、母は冷静に扇絵を見下ろした。

「心配なさるな。さすがの桜子も、宮中に入ってしまえば姫らしくせざるを得まい……」

 母の小さな呟きは、桜子の耳には届くことなく、初春の陽気にけていった。

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