その2
花ざかりの桜の大木を回り込むと、思いがけないほど近くに
「あっ、あなた、何をしてるの?」
「……何もしてない」
若草色の狩衣と灰色の
ひときわ桜子の目を引いたのは、黒々とした瞳だった。まっさらで
高貴そうな
どこから来たのか
「お腹がすいてるの?」
「………………」
少年が口を引き結んで答えなかったので、桜子は、さっきの音の主は
兄がいることもあり、このくらいの男子の意地の強さは知っている。本音をさらすことを、まるで弱点を明かすもののように思い込んでいて、人の言葉に
相手をするのは
「ほら、こっち!」
桜子は少年の手を摑んで、全力で引っ張った。
立ち上がった少年の足が止まらないように、勢いに任せて林を突っ切り、対の屋を仕切る
今日は、北の対に住む祖母を
東の対の裏手に出た桜子は、台盤所の戸に指をかけて、細く開いて目を当てた。使用人はいなかったので、中に入って
(ちょうどよかった)
桜子は、少年を
「どうぞ、
「……
「えー!」
喜んで食べるだろうと思っていた桜子は
少年がどれだけ高貴だろうと、食べ物に
(すぐになびかないのが貴族の作法って言うけど、あんまりだわ)
他の料理を探すが、棚にも
あるものといえば、味噌樽と、父の下手な字で『
(ん? 胡麻油?)
同じ文字を見た
たしか、照り焼きの横に『焼飯』という料理が記されていたはずだ。炊いた米に醬油を塗って胡麻油で焼く料理だったから、ここにあるもので作れる。
桜子が膝からおにぎりを取り上げると、少年は
「何をする」
「少しだけ待っていて。とびきりおいしい料理を作ってあげる」
桜子は、手首に巻いていた
かき上げて後ろに落とすと、紐の端に結びつけられた
動き出した桜子は、おにぎりの表面に、味噌の上に
続けて、瓶子に入っていた胡麻油を鍋
「なんなんだ、この匂いは……」
香りに引き寄せられた少年は、立ち上がって鍋の中を見た。興味深そうに目を
「わあ!」
現われたお焦げに、少年は意地を張るのも忘れて
おかげで桜子は、自分がとびきりすごい料理人になったような気がした。
「さあ、できたわ。名付けて『焼きおにぎり』よ!」
「焼き、おにぎり?」
笹の葉に取り上げると、少年は、ごくんと喉を鳴らした。視線は湯気を立てるおにぎりに
「さっきより不格好なものを、おいそれと食べるわけにはいかない」
「そう? 食べないなら、私が食べるわね。うーん、おいしそうな匂い!」
「待って!」
やはり興味はあったらしい。
「はい。熱いから気をつけて」
二つの焼きおにぎりのうち、一つを笹ごと
もだえる桜子の横で、もぐもぐと口を動かしていた少年は、飲み込むなり頰を染めた。
「……おいしい」
口に出すと
「醬油で焦げた表面がほろほろとほどけて舌の上で
「そうでしょう、そうでしょう!」
あっという間に焼きおにぎりを完食した少年は、頰にご飯つぶをつけたまま、
「不格好とけなしてごめん。きみの作った料理は、とてもおいしかった。できることなら毎日食べたいくらいだ。いつも台盤所に立っているの?」
「え、えっと……」
うんともすんとも言えずに、桜子は
お腹をすかせた少年のためとはいえ、禁じられた料理をしてしまったのだ。料理を気に入ってくれたのは嬉しいが、母の
「あのね……。本当なら、私は料理を作ってはいけないの。母さまが、台盤所に立つなんて姫らしくないって言うのよ。誰かに見られたら一族の恥さらしだとも言われたから、自分で作るのはやめようと思っていたの。それに、父さまは才能があるって褒めてくれたけれど、不格好なものしか作れないし……」
父が言うには、唐の料理は、見た目も美しく飾りたてるものらしい。
桜子の腕が未熟なことは明らかだった。
「もっと上手だったら、あなたに毎日食べさせてあげたいんだけど……」
ふと
「いい考えがあるよ。きみが料理を練習している間、誰も近づかないようにおれが見張っている。その代わり、作った料理を
思わぬ申し出に、桜子は、胸を
「それ、とっても素敵な考えね!」
その日から、少年は屋敷に通ってくるようになった。
林の
少年と桜の木の下で待ち合わせた桜子は、使用人たちが買い物に出かける時間を見計らって、こっそり台盤所に忍び込んだ。
桜子が料理を作っている間、少年が辺りに目を光らせていて、使用人が近づいてきたら大急ぎで
食事を共にすると、お腹も心も満たされた。
桜子は、少年のことを知りたかったけれど、彼は養い親に
「じゃあ『冬毛の君』って呼んでもいい?」
ふわふわの髪の毛と黒い
「それは、かっこ悪くないかな……」
「そんなことないわ。私、犬の堂々としているところが大好きなの!」
桜子が幼い頃、
「犬はね、
「姫がそう思っているなら、それでも、かまわないけれど……」
少年がしぶしぶながら『冬毛の君』呼びに同意してくれたのは、ちょうど三日目。
大人の男性なら屋敷通いで
甘みに
「……明日、
「え?」
桜子は、予想外の言葉に
慌てて胸の真ん中を
「おれは、花見のために養い親と近くの寺に
「くふっ! そんな……。もう一緒にご飯を食べられないの?」
喉のつかえが取れた桜子の胸に
桜子は冬毛の君のおかげで、誰かと並んで料理を食べる喜びを知った。台盤所に立てたのも、桜子の胸中を理解して見張り番になってくれた彼がいたからだ。彼が通ってこなくなれば、ご飯を楽しく食べたり、こっそり料理したりすることは難しくなるだろう。
桜子が
「これを受け取ってほしい。姫の料理が上達するように、
受け取って開くと、上等な
「
そうっと匙を持ち上げた桜子の手を、冬毛の君は両手で
「何があっても、この匙が守ってくれる。だから、おれが通ってこなくなっても料理を続けてほしいんだ。おれは、姫の料理が大好きだよ」
「ありがとう。一人でも料理を練習するわ。都に来ることがあったら、この屋敷を訪ねてきて。今よりうんとおいしい料理を作れるようになって、おもてなししてあげる!」
「うん、きっと……」
寂しげに笑いながら、冬毛の君は、匙を握る桜子の指先にそっと
(っ!?)
どきり、と胸に切ない
その日を境に、冬毛の君は姿を見せなくなった。
けれど、彼との約束は、桜子の胸に消えない火を
母の目をかいくぐって乳母から料理の
すっかり身長が伸びた桜子は、踏み台がなくとも竈に向き合える少女に成長した。
大きくて丸い目が
しかし、長ければ長いほど美人の条件となる黒髪は、料理の
着ているものも貴族の姫らしい
「よし。
桜子は、菜箸で鍋の
盛り付けた料理は火の通りがよい
冬毛の君からもらった朱塗りの匙で味見をすると、黒砂糖で仕立てた甘い餡に、回しかけた酢の酸味が調和している。
「我ながら、
うっとり感じ入っていると、
「姫様がまた
「あや、恐ろしい色じゃ」
「鼻を突く匂いもするぞえ」
首をめぐらせると、青い顔をした使用人たちが、戦々
今日も、やれ「お止め
「みんな口だけ達者なんだから。今日こそは勇気を出して一口食べてみない?」
すると、使用人たちはさっと顔を
それだけ唐の料理への
それらを作る桜子も同様に、だ。
使用人のように自らの足で市におもむき、台盤所に立って料理を作るものだから、結婚
父が左大臣という要職にあるので、出世のために繫がりを持ちたい貴族は山ほどいるだろうに。
(まあ、
都の男性たちは、どこそこの屋敷に美しい姫がいるという噂を聞くだけで恋に落ちる。
桜子の実体が美人だろうが不美人だろうが、悪い噂があるならば落とし穴を回り込むがごとく避けるのは
桜子だって、料理することを
おっかなびっくりでもかまわないから、どんな料理を作っているのか、どんな味がするのか、興味を持ってくれるような男性がいい。
そんな人なら、見た目も育ちも、身分も問わないのだが。
「高望みなのかな……」
「桜子姫、お館様と北の方様が北の対にお呼びですよ」
悩んでいると、騒ぐ使用人たちの間から乳母が顔を出した。
「父様と母様が? 分かった。すぐに行くわね」
台盤所から出しなに髪をほどいた桜子は、袴の
貴族の屋敷では、家族はそれぞれ別の
桜子は東の対に、家主である父は中央の
「お待たせしました」
桜子が
「左大臣家の姫ともあろう娘がひどい格好じゃ……。せめて重ね袿ぐらいせぬか」
「だって、この格好が一番動きやすいのよ。綺麗な小袿姿で竈に近寄ったら、あっという間に
「そういう話をしているのではない!」
母は、
「台盤所に立つなと何度も言っておろうに、なぜ竈に向かう前提になっておる! そなたがそんな風だから、通う
「今さらやめても、誰も通っては来ないと思うけど──」
つい本音を漏らすと、母から
「聡子さん。今日は
普段から
出仕帰りの束帯姿から
「父様、お顔色が悪いようだけど、どうなさったの?」
「実は、桜子に
「私が、入内?」
入内とは、
「藤原一族からは、父様の妹の
「まあ、聞いておくれ。相手は主上ではなくて、
現在十九歳の東宮は、
「東宮様が立太子されたのは、もう二年も前よね。どうして今になって急に入内話を?」
「実は、政敵である右大臣家の姫君が東宮
「ああ、それで私にお
桜子は、何が起きているのか、はっきりと理解した。
いくら東宮位に
「つまり、狼のように恐ろしい東宮は、あちこちの有力者から娘の入内を
ふむふむと事態を吞み込んでいく桜子を、母は
「
「それは、もちろん分かっているけど……」
冷静な頭とは裏腹に、心の方はやるせなかった。
貴族の娘として、政略
東宮の
(内裏に入ったら、自由に台盤所に立てなくなるわよね……)
東宮に気に入られるためには、姫らしく
桜子がもの
「そうして大人しくしていれば、たいそう可憐なことよ。幼き日に唐の料理に
母に横目で睨まれて、父は
「本当にすまなかった。父様が唐物の食に
「
唐の料理と出会えたことは、桜子の人生においてこれ以上ない幸福だ。
冬毛の君との約束もあったけれど、台盤所に立つのをやめなかったのは、唐の食材が、美食譜が、そこから生み出される料理が素晴らしかったからである。
「悪いのは、
桜子は、作る料理にはすこぶる自信があったから、このまま誰にも食べてもらえずに入内するのは、偏見に負けて
「唐の料理のおいしさを、たくさんの人に知ってほしかったな……」
「それなら、この入内は良い
「え?」
桜子がぱっと顔を上げると、母は、これ見よがしに
三十九枚で一揃えの板面に
「よく考えてみよ。内裏の中で食べられている宮中料理は、この国で作られる食事の見本のようなものじゃ。入内すれば、実際に食べる立場になる。そうなってから『唐の料理に比べておいしくない』と、真っ当に文句を言えばよかろう。運良く帝の耳に入って、唐の料理の方がおいしいと認めていただければ、偏見などひっくり返るぞ」
「帝に認めてもらえたら、唐の料理への偏見がなくなる……」
まさに
「私、入内話を受け入れるわ!」
どうせ、たらい回しにされて、最後に桜子のもとへ流れ着いた縁談だ。
誰が嫁いでもかまわないというのなら、内裏に入る口実に使わせてもらおう。
すっかり乗り気になった桜子を見て、父はおろおろと
「落ち着いて、桜子。入内って結婚のことだよ。東宮様の妃になるんだよ。そんな軽い調子でお嫁に行ってしまったら、話を持ってきた父様が複雑な心境だよ!」
「あなたさま。当人が受け入れたのじゃ。夢見るくらいよろしかろう」
「そうは言っても。姫君が宮中で料理なんてしたら大事になってしまうよ、聡子さん!」
今にも泣き出しそうな父とは違って、母は冷静に扇絵を見下ろした。
「心配なさるな。さすがの桜子も、宮中に入ってしまえば姫らしくせざるを得まい……」
母の小さな呟きは、桜子の耳には届くことなく、初春の陽気に
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