その2


 翌日、朝のたくを終えた桜子は、なしつぼに繫がるわた殿どのに腰を下ろしていた。

 東宮は、麗景殿の東隣に位置する昭陽舎で暮らしている。壺庭に梨の木があることから梨壺というつうしようで呼ばれており、代々の東宮が住む殿舎だという。

 通りがかった女房がおどろいた顔をしたが、東宮に嫌われて落ち込んでいると思ったようで、挨拶もせずに戻っていった。

 高欄を見つめていると、太陽がかがやく四ツ半頃になって、ようやく花膳を持った東宮が現われた。昨日と同じ位置に座り、花びらを口に運んでは酒で流し込む。同じ動作を気だるげにり返す様子は、みつの甘さも、酒のからみも感じていないようだ。

 好き好んで花と酒だけを口にしているようには、とうてい見えなかった。

(食が細い理由は分からないけど、このままではまた倒れてしまうわ)

 桜子は、すっくと立ち上がって麗景殿の母屋に戻った。

 典侍にあやしまれないように午後まで大人しく座っていて、彼女が顔合わせの段取りのためにそばをはなれたのを見計らって立ち上がる。

 かいろうを通って裏手に向かった桜子は、ちゆうで袿をてて、夕食作りの準備を始めていた台盤所に飛び込んだ。

「ご苦労さま。少しの間、私に料理を作らせてくれない?」

 声をかけると、おけめた水で野菜を洗っていた少女があわてた。

「台盤所での仕事は、姫様がやることではないですよ! 必要なら、膳司のあたしたちがお作りしますから、食べたいものをおっしゃってください!」

 もしも桜子が姫らしかったなら、ここで「では、なにそれを作りなさい」とでも命じたのかもしれない。けれど、桜子はどうしても自分で作りたかった。

「私にやらせて。自分で食べるためではなくて、東宮様のためなの」

 やんごとなき名前を出すと、台盤所で働く者たちは、戸惑いつつも下がらざるを得なかった。桜子はしゆひもかみをまとめながら、台の上に準備された食材をかくにんする。

 竹を編んで作ったざるの上に、抜きしたふきのとうが積み上がっている。

 皿には、小麦粉を水で練って作った皮に刻み肉を包んだ、こんとんというとうの作りかけがあった。あとはでれば完成といった段階だ。

(この材料で、おいしく作れそうなものは──)

 桜子は、今まで作った料理を思い浮かべながら、った髪を背中に払い落とした。

(あれだわ!)

 チリンとすずが鳴ったのを合図に、かわいたこんを手に取る。それをなべんだ水にしずめて、ふつとうする直前まで火にかけ、うまたっぷりのを取った。

 出汁が取れたら昆布を取り除いて、塩としようで味を調ととのえたあと、ふきのとうと餛飩を入れて弱火でんでいく。

 これは、唐でよく食べられるめん料理を参考にしている。

 本来は、水で練った小麦粉をでて、味付けしたしるひたした料理だ。

 朱塗りのさじで味見すると、味はたんぱくながら、出汁の旨味がしっかりと感じられた。つるりと透き通った餛飩はのどごし良く、肉の甘みが山菜特有の苦みと調和している。

(これなら、きっと東宮様だって食べてくださるわ)

 角材がとうかんかくに並べられたれんまどから外を見ると、太陽はかたむき始めていた。

 桜子は、料理を底の深いうつわによそってふたをかけ、母屋へと急いだ。

 ようやく戻ってきた桜子を、典侍はお目付役らしく叱り飛ばす。

「桜子様、湯浴みもせずにどこへ行っておいででした! もう先触れが来ております!」

「分かってるわ。急いで着物を調ととのえてくれる?」

 女房たちに袿を着せられた桜子は、昨日と同じように、従者に前後を挟まれて歩いてきた東宮に向かって頭を下げた。廂に腰を下ろした典侍は、めた声で告げる。

「麗景殿の女御、桜子にございます」

 大勢の人間がいるのに、水を打ったように静かだった。

 東宮は、再び倒れるのではないかと不安げな空気を割って、桜子に近づいてくる。

 伏せた視界のはしこんすそが見えたところで、桜子は、すっと顔を上げた。

「お待ちしておりました、我が君」

 正々堂々とむかえると、東宮は、きよかれた表情で足を止めた。

「顔合わせに来い、と帯刀に告げたそうだな。俺に向かって、何様のつもりだ?」

 昨日よりもれいたんな態度を向けられて、桜子はものじしそうになった。しかし、それでは彼の思うままだと心に活を入れて、長いそでに隠していた器を取り出す。

「お話の前に、これを。私が作った料理でございます」

 蓋を取ると、溜まっていた湯気が浮かび上がり、作りたての料理特有のほっこりとしたにおいが立ちこめる。この温かみには、誰だってなおにならざるを得ない。

 おなかがすいていると体は冷える。瘦せた体は熱を保ちにくいから、冷酷としようされる東宮も温かいものが恋しいはずだった。

「どうぞ、おし上がりください」

 桜子は、両手でかかえ上げるようにして、器を東宮に差し出したが──

「っ、やめろ!」

 すげなくはたき落とされてしまった。

「え……」

 空を舞った器はやけにゆっくりと動いて見えた。しかし実際は、落ちざまにひっくり返り、板の間に料理が飛び散るまで、まばたきをする間もなかった。

 ぼうぜんとする桜子から、東宮は、ばつが悪そうに顔をらす。

「俺は花と酒で事足りる。余計なことをするな」

 料理をひっくり返したことをあやまりもしない。勝手に料理を作ったのは桜子だが、だからといってこんな仕打ちをされる覚えはなかった。

「足りていないから倒れたんでしょう。そんなに意地を張りたいなら、周りの人に心配をかけないくらい健康になってから言ってください!」

 叱りつけられたのがくつじよくだったのか、東宮は、ぎりっとおくを嚙みしめた。

 桜子は、あらっぽい手つきでえりつかまれ、膝が床から浮くほど強く引き上げられる。

「貴様に、何が分かる──」

 桜子の視界いっぱいに映った東宮は、氷のようだとうたわれた瞳を見開いて、ふんの表情を浮かべていた。

 首筋にひやりとしたかんしよくがあって視線を下げると、東宮が抜いた太刀が、今にも肌を切りきそうな位置に当てられている。

「っ!」

 動けば、切れる。殺される。

 固まる桜子に、東宮は、地をうような低音で告げる。

「どうせい宮中料理など食う価値がない。いっそ花でも喰って生きた方がましだ。首を飛ばされたくなければ、二度と余計な世話を焼くな」

 ぱっと衿を放されて、へなへなと座り込んだ桜子は、気づかないうちに止めていた息を吐き出した。息を吐ききると、きようが胃の辺りをせり上がってくる。


(なんて恐ろしい人なの……)

 悲しいことに、これから桜子は彼を夫として敬っていかなければならない。

 母に言われたように、たとえ相手が狼でもくしていかなければならない。

 つらくなってうつむくと、直衣の袖から出た、骨張った指が目についた。

 ──震えてる。

 態度とは裏腹に、東宮の手は、まるで自分がおどされたように小刻みに揺れていた。

 なぜ彼がおびえているのか、桜子には分からない。

 今度は本気で斬られるかと思うと、たずねるのもはばかられた。

 見ないふりを通せばいい。そう分かっているのに、一人さびしく花と酒を口に運んでいた東宮の姿が、桜子ののうから離れてくれない。

(東宮様に、きちんと食事を取っていただきたいわ)

 しかし、桜子が料理を作って出したところで、東宮は口に入れる前にはたき落としてしまう……。

 なやんでいると、着ている袿にえがかれた桜の花が目に飛び込んできた。

(そういえば、高欄にもたれかかった東宮様は、花びらを召し上がっていたわ……)

 それなら、と顔を上げた桜子は、太刀をさやに収めた東宮の腕を摑んだ。

「花なら、食べてくださるんですね?」

 東宮は、反論されると思っていなかったらしく、かいそうにかたまゆを上げた。

「そうだ。何度も同じことを言わせるな」

「分かりまし──たっ!!」

 桜子は、東宮の腕を全力で引っ張った。反動で立ち上がると、入れわるように床に膝をついた東宮が、ぎょっとした表情で見上げてくる。

「き、さまっ!」

「座って、待っていてください。典侍、東宮様を引き留めておいてね!」

 さつそうと体をひるがえした桜子を見て、典侍が声を上ずらせた。

「桜子様、どこに行かれるのですっ!?」

「決まっているでしょう、台盤所よ!」

 桜子は、かいに載せていたしよくを摑み、台盤所までわきも振らずに走り抜けた。

 息を切らして主人が戻ってきたので、使用人たちはそうぜんとなる。

「まだかまどに火は残っているわね? 鍋をかけて、さっき取った出汁をかして!」

 桜子はてきぱきと指示を飛ばしながら、重ねた袿を脱ぎ捨てた。長い袖をまとめるようにたすきに掛けて左側でちようちように結び、前に下りていた髪を後ろに流す。

 鈴がチリンと鳴ったのを合図に、美食譜をしゅるりと開いた。

 目当ての料理は、端から二尺半ほどの位置にあった。

 桜子は分量にさっと目を通して、隅に置いてあった食材かごを見る。

ねぎと卵、両方ともあるわね。いたいいは準備できるかしら?」

こわいいでよろしければ、ここにあります!」

 膳司の少女が開けてくれたおりうずには、冷めたしろめしが入れられていた。

「ありがとう、使わせてもらうわ!」

 桜子は、飯のべたつきを水で洗い落としてから、温まった出汁に入れた。

 そこに包丁で手早く刻んだ葱を加える。出汁の中でこめつぶが上下に対流しだしたのを確認した桜子は、割った卵をきほぐしながらかべぎわに下がっていた少女を呼んだ。

「そこにいるあなた、名は?」

「あたしですか? なみと言います、姫様」

「小波さんね。少し手伝ってくれないかしら。竈の中に砂をかけてほしいの」

 すると、小波は困り顔で鍋を覗いた。青い葱は、まだなまえだ。

「姫様の料理は途中に見えますけど、ほのおを消してしまうんですか?」

「このままでは火力が強すぎるの。弱める程度にお願い」

「分かりました!」

 元気に答えた小波は、竈のそばに山盛りになった砂をぐちへと投げ入れた。

 二度、三度と砂をかけると、めらめらと盛っていた炎は、だいに小さくなる。

「このぐらいでいいですか?」

「ええ、ちょうどいい火加減だわ」

 煮え立ちが落ち着いた水面に点を描くようにらんえきを落としていくと、小指の先ほどの大きさに固まった玉子がふわふわと浮き上がってくる。

「卵は熱を加えると固まる性質があるんだけど、ぐらぐらと沸騰した状態の汁に入れると固まるより湯の動きが速くてはくだくしてしまうの。小波さんが炎を弱めてくれたおかげでくいったわ」

 められた小波は喜んだが、他の使用人たちは複雑な表情をしていた。殿舎の主人を台盤所に立たせて、あとで自分たちが叱られないか不安になってしまったようだ。

「あなたたちにおとがめはないから安心して。私は、自分で作りたかったから料理をしたの。台盤所を二度も使わせてくれて、本当にありがとう!」

 桜子は、完成した料理を器によそって蓋をかけると、匙を指に挟んで母屋に戻った。

 ようやく姿を見せた桜子に、典侍は物言いたげな表情を向けてくる。彼女に引き留めてもらった東宮は、母屋の中央にかれたたたみに腰を下ろして殺気を振りまいていた。

「お待たせしました!」

 桜子は東宮の真正面に座り、器をずいっと出した。

「どうぞ、開けてみてください!」

 東宮は、げんそうにしながらも蓋を持ち上げた。

 すると、出汁のきいた匂いが白い湯気に乗って広がった。

「これは……」

 葱の合間に浮かぶ玉子が、青い池に咲いたれんの花のように見えるこれは、味付けされたかゆだ。粥といっても、京の都で食べられているような喉に張りつくものとは違って、口当たりがさらりとして食べやすい唐の料理である。

 顔をしかめた東宮を見た典侍と帯刀は、それぞれに声をかけてきた。

「女御殿、そんな怪しげな料理を出されては困ります」

「そうでございます。お下げくださいませ、桜子様」

 周囲の者が神経質になる一方で、東宮は見慣れない料理にきつけられていた。

 持ち上げた器に顔を近づけて、出汁のかおりをい込む。

「いい匂いがする……」

「一口、食べてみませんか?」

 桜子がすすめると、はっと我に返った東宮は、器を置いて横を向いた。

「いくら見た目が花のようでも、これは料理ではないか。俺は、得体の知れないものを口に入れたりするほどおろかでは──」

 文句を聞き流しながら、桜子は、白木の匙で玉子粥を一口分すくい上げた。

「東宮様、こちらを向いてください」

「──いったいなん、だっ!?」

 あ、の形に開いた口に、粥をひょいと放り込んで、匙を引き抜く。

 粥を入れられた東宮は、口元に手を当てて絶句した。周囲の者は、室のどこかにさけび出すための弁があったかのように、いっせいにぜつきようした。

「なんてことをなさったのです、桜子様────っ!」

「主っ、吐き出してください、すぐに!」

 中でも、典侍と帯刀の慌てっぷりは群を抜いていた。片や、赤い蝙蝠を投げつけようとするし、もう片方は、取り出したかいのほとんどを床に落としてしまう。

 二人とも、まさか桜子が東宮を騙しちにするとは思っていなかったのだろう。

(だって、こうでもしなければ、東宮様は口に入れてくださらないわ)

 桜子は開き直った。東宮のためを考えて、てつていてきに憎まれ役になると決めたのだ。

 料理を作り、それを口に入れてもらうまでが、作り手である桜子の領分。

 いきなり放り込まれた粥を吐き出すか飲み込むかは、東宮の自由だ。

 東宮は口を片手で押さえたまま、もう片方の手で懐をあさっている。

 懐紙を取り出して吐き出すつもりのようだったが、そのうちにけんからしわが消えた。

 何かに気づいたように表情がゆるみ、体のこわばりも解けて、最後に、こくりと喉が動く。

「……おいしい……」

 東宮は、ぱちぱちと瞬きしながら、粥が通っていった喉の辺りをさする。

「この粥は味がする……。塩気だけではなく、昆布の風味がついているのか」

 小声でつぶやくと、誰に強制されるでもなく匙を手にとって、次の一口を食べる。

 次も、またその次も、東宮の口に吸い込まれていく。

 器の中身が減るごとに、東宮の目には、殺気とは違うせいじような光が宿っていった。

「おいしいですか?」

「あ、ああ……」

 桜子が微笑ほほえみかけると、東宮は、決まり悪そうな顔で匙を置いた。女御が料理を作れるのはおかしいと気づいたらしく、細めた目で桜子を窺ってくる。

「この料理は、お前が一人で作ったのか?」

「はい。私は、料理が得意なのですわ」

 答えた桜子は、両手を床について頭を下げた。

とつぜん、料理を口に押し込むようなをして申し訳ありませんでした。東宮様に、何かしら口にしていただきたい一心からしたことです」

 実際に食べてみなければ、料理がいか不味いかは分からない。

 桜子は、宮中料理を嫌うあまり食事を遠ざけていた東宮に、おいしい料理も存在すると伝えたかった。

「お怒りでしたら、私をばつしてください。それくらいのことをしましたわ」

 顔を上げると、東宮は「いや……」と言いよどんで床を見た。

 先ほど彼がひっくり返した料理は、すっかりそうされている。

「先ほどは、お前の料理をはねけて悪かった」

 そう言われて、桜子は驚いた。冷酷な狼が謝るとは思っていなかったのだ。

「いいえ! 私がお出しするのがとうとつでしたから、気になさらないでください。家でも母に怒られていたんです。思いつきで台盤所に立って、使用人たちを驚かすなって」

 照れ笑いを浮かべれば、東宮は何か思うことがあったらしくあごさきに手を当てた。

「おい、お前、俺の料理番になれ」

「料理番ですか?」

 東宮からの思わぬ申し出に、桜子の心は大きく動いた。

 昨日は二度と会わないとまで言っていた東宮が自らさそいを持ちかけるなんて、心から桜子の料理を気に入らなければあり得ない展開だろう。

 作った料理を誰にも食べてもらえないとなげいてきた桜子が断るはずはなかった。

「お望みとあらば──」

 喜んで引き受けようとした時、後ろから、ごほん、とわざとらしいせきが聞こえた。

 なんだろうと思ってり向くと、口元にこぶしを当てた典侍が「断らねえと、どうなるか分かってんだろうな、あぁ!?」と言わんばかりに目を光らせている。

(これが、紅のスケのはくりよく!)

 身ぶるいしながら視線を戻すと、すぐ目の前に瑠璃紺が広がっていた。

「引き受けないと言うのなら──」

 細くしなやかな指先が、桜子の顎先をくいっと持ち上げる。

 東宮は、上半身を倒して桜子の顔を覗き込むと、本気がうかがえる声で一言。

「──代わりに、お前を食べる」と告げた。

「っ、やります! 私、東宮様の料理番になりますっ!!」

 桜子は、反射的に答えた。

 そうしなければ、喉元に嚙みつかれるような気がした。

 色良い返事が聞けた東宮は、桜子から手を引いてのっそりと起き上がる。

「では、明日の夕食から頼む。作る料理の味付けは問わない。お前が好きなように腕を振るえ」

 たんてきに言い残して、東宮は梨壺に帰って行った。

 しゃなりしゃなりと、花の精のようにゆうな、けれど、しっかりした足どりで。

「女御殿、あなたは某どもの恩人ですよ!」

 駆け寄ってきたのは帯刀だった。大きな体に似合わず、目にはなみだを浮かべている。

「今まで料理を口にしてくださらなかったのがうそのようだ! めんような見た目の料理でしたが、主が料理番にうほどとは、さぞやおいしいのでしょうね」

「面妖だけど、おいしそう……。本当にそう思う?」

「はっ。たしかに、そう見えました」

 素直な感想を聞いて、桜子は実家で受けていたあつかいとの差を感じた。

 左大臣家の使用人たちは、桜子がどれだけ「おいしい」と主張しても、見た目や香りが変わっていると恐れて、試食すらしてくれなかった。

 対して東宮のきんは、同じように感じつつも興味を持ってくれている。

(東宮様が食べてくださったおかげだわ)

 高貴な身分の人だから、つうに食べるだけでもおすみきになるのだ。彼に、唐由来の料理を気に入ってもらえたら、宮中で評判になって帝の耳にも入るだろう。

 つまり、立派に東宮の料理番を務めれば、帝に唐の料理を認めてもらう夢へ近づく。

「私、心を込めて東宮様に料理を作りますね。目指せ、へんしよくだつきやく!」

 天に拳を突き上げた桜子は、肩をたたかれて振り返った。

 困り顔で手を宙に掲げた女房の後ろに、布で目元を押さえた典侍が立っている。

「桜子様、短い間でしたがお世話になりました。おいとまをいただきたく思います……」

 主が台盤所に立ったら宮仕えを辞める覚悟は本物だったらしい。

 桜子はあせった。典侍がいなければ、この宮中ではやっていけない。

「私が悪いのは分かっているけど、出て行かないでほしいの。これから、東宮様の料理番の仕事でいそがしくなるから、麗景殿を取り仕切るのは典侍しかいないわ。母様のことは、私がふみで説得するから、お願い!」

「ああ、桜子様!」

 感動した様子で駆け寄った典侍は、次のしゆんかんには、手にしていた布を桜子のどうに巻き、ぎりぎりと締め上げた。

「へ?」

「東宮様に生意気な口をきいたばかりか、料理を作る約束までして。結果的に気に入られたからいいものの、本当に斬られたらどうなさるおつもりだったのです! これから一晩かけて、その向こう見ずな性格をたたき直して差し上げます!!」

「ひぇえ! 誰か、助けて……」

 桜子は、離れて様子を見ていた女房に手を伸ばしたが、彼女たちは、我が身可愛かわいさのあまりの子を散らすように逃げていったのだった。

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