その2
翌日、朝の
東宮は、麗景殿の東隣に位置する昭陽舎で暮らしている。壺庭に梨の木があることから梨壺という
通りがかった女房が
高欄を見つめていると、太陽が
好き好んで花と酒だけを口にしているようには、とうてい見えなかった。
(食が細い理由は分からないけど、このままではまた倒れてしまうわ)
桜子は、すっくと立ち上がって麗景殿の母屋に戻った。
典侍に
「ご苦労さま。少しの間、私に料理を作らせてくれない?」
声をかけると、
「台盤所での仕事は、姫様がやることではないですよ! 必要なら、膳司のあたしたちがお作りしますから、食べたいものをおっしゃってください!」
もしも桜子が姫らしかったなら、ここで「では、なにそれを作りなさい」とでも命じたのかもしれない。けれど、桜子はどうしても自分で作りたかった。
「私にやらせて。自分で食べるためではなくて、東宮様のためなの」
やんごとなき名前を出すと、台盤所で働く者たちは、戸惑いつつも下がらざるを得なかった。桜子は
竹を編んで作った
皿には、小麦粉を水で練って作った皮に刻み肉を包んだ、
(この材料で、おいしく作れそうなものは──)
桜子は、今まで作った料理を思い浮かべながら、
(あれだわ!)
チリンと
出汁が取れたら昆布を取り除いて、塩と
これは、唐でよく食べられる
本来は、水で練った小麦粉を
朱塗りの
(これなら、きっと東宮様だって食べてくださるわ)
角材が
桜子は、料理を底の深い
ようやく戻ってきた桜子を、典侍はお目付役らしく叱り飛ばす。
「桜子様、湯浴みもせずにどこへ行っておいででした! もう先触れが来ております!」
「分かってるわ。急いで着物を
女房たちに袿を着せられた桜子は、昨日と同じように、従者に前後を挟まれて歩いてきた東宮に向かって頭を下げた。廂に腰を下ろした典侍は、
「麗景殿の女御、桜子にございます」
大勢の人間がいるのに、水を打ったように静かだった。
東宮は、再び倒れるのではないかと不安げな空気を割って、桜子に近づいてくる。
伏せた視界の
「お待ちしておりました、我が君」
正々堂々と
「顔合わせに来い、と帯刀に告げたそうだな。俺に向かって、何様のつもりだ?」
昨日よりも
「お話の前に、これを。私が作った料理でございます」
蓋を取ると、溜まっていた湯気が浮かび上がり、作りたての料理特有のほっこりとした
お
「どうぞ、お
桜子は、両手で
「っ、やめろ!」
すげなくはたき落とされてしまった。
「え……」
空を舞った器はやけにゆっくりと動いて見えた。しかし実際は、落ちざまにひっくり返り、板の間に料理が飛び散るまで、
「俺は花と酒で事足りる。余計なことをするな」
料理をひっくり返したことを
「足りていないから倒れたんでしょう。そんなに意地を張りたいなら、周りの人に心配をかけないくらい健康になってから言ってください!」
叱りつけられたのが
桜子は、
「貴様に、何が分かる──」
桜子の視界いっぱいに映った東宮は、氷のようだと
首筋にひやりとした
「っ!」
動けば、切れる。殺される。
固まる桜子に、東宮は、地を
「どうせ
ぱっと衿を放されて、へなへなと座り込んだ桜子は、気づかないうちに止めていた息を吐き出した。息を吐ききると、
(なんて恐ろしい人なの……)
悲しいことに、これから桜子は彼を夫として敬っていかなければならない。
母に言われたように、たとえ相手が狼でも
──震えてる。
態度とは裏腹に、東宮の手は、まるで自分が
なぜ彼が
今度は本気で斬られるかと思うと、
見ないふりを通せばいい。そう分かっているのに、一人
(東宮様に、きちんと食事を取っていただきたいわ)
しかし、桜子が料理を作って出したところで、東宮は口に入れる前にはたき落としてしまう……。
(そういえば、高欄にもたれかかった東宮様は、花びらを召し上がっていたわ……)
それなら、と顔を上げた桜子は、太刀を
「花なら、食べてくださるんですね?」
東宮は、反論されると思っていなかったらしく、
「そうだ。何度も同じことを言わせるな」
「分かりまし──たっ!!」
桜子は、東宮の腕を全力で引っ張った。反動で立ち上がると、入れ
「き、さまっ!」
「座って、待っていてください。典侍、東宮様を引き留めておいてね!」
「桜子様、どこに行かれるのですっ!?」
「決まっているでしょう、台盤所よ!」
桜子は、
息を切らして主人が戻ってきたので、使用人たちは
「まだ
桜子はてきぱきと指示を飛ばしながら、重ねた袿を脱ぎ捨てた。長い袖をまとめるようにたすきに掛けて左側で
鈴がチリンと鳴ったのを合図に、美食譜をしゅるりと開いた。
目当ての料理は、端から二尺半ほどの位置にあった。
桜子は分量にさっと目を通して、隅に置いてあった食材
「
「
膳司の少女が開けてくれた
「ありがとう、使わせてもらうわ!」
桜子は、飯のべたつきを水で洗い落としてから、温まった出汁に入れた。
そこに包丁で手早く刻んだ葱を加える。出汁の中で
「そこにいるあなた、名は?」
「あたしですか?
「小波さんね。少し手伝ってくれないかしら。竈の中に砂をかけてほしいの」
すると、小波は困り顔で鍋を覗いた。青い葱は、まだ
「姫様の料理は途中に見えますけど、
「このままでは火力が強すぎるの。弱める程度にお願い」
「分かりました!」
元気に答えた小波は、竈のそばに山盛りになった砂を
二度、三度と砂をかけると、めらめらと盛っていた炎は、
「このぐらいでいいですか?」
「ええ、ちょうどいい火加減だわ」
煮え立ちが落ち着いた水面に点を描くように
「卵は熱を加えると固まる性質があるんだけど、ぐらぐらと沸騰した状態の汁に入れると固まるより湯の動きが速くて
「あなたたちにお
桜子は、完成した料理を器によそって蓋をかけると、匙を指に挟んで母屋に戻った。
ようやく姿を見せた桜子に、典侍は物言いたげな表情を向けてくる。彼女に引き留めてもらった東宮は、母屋の中央に
「お待たせしました!」
桜子は東宮の真正面に座り、器をずいっと出した。
「どうぞ、開けてみてください!」
東宮は、
すると、出汁のきいた匂いが白い湯気に乗って広がった。
「これは……」
葱の合間に浮かぶ玉子が、青い池に咲いた
顔をしかめた東宮を見た典侍と帯刀は、それぞれに声をかけてきた。
「女御殿、そんな怪しげな料理を出されては困ります」
「そうでございます。お下げくださいませ、桜子様」
周囲の者が神経質になる一方で、東宮は見慣れない料理に
持ち上げた器に顔を近づけて、出汁の
「いい匂いがする……」
「一口、食べてみませんか?」
桜子が
「いくら見た目が花のようでも、これは料理ではないか。俺は、得体の知れないものを口に入れたりするほど
文句を聞き流しながら、桜子は、白木の匙で玉子粥を一口分
「東宮様、こちらを向いてください」
「──いったいなん、だっ!?」
あ、の形に開いた口に、粥をひょいと放り込んで、匙を引き抜く。
粥を入れられた東宮は、口元に手を当てて絶句した。周囲の者は、室のどこかに
「なんてことをなさったのです、桜子様────っ!」
「主っ、吐き出してください、すぐに!」
中でも、典侍と帯刀の慌てっぷりは群を抜いていた。片や、赤い蝙蝠を投げつけようとするし、もう片方は、取り出した
二人とも、まさか桜子が東宮を騙し
(だって、こうでもしなければ、東宮様は口に入れてくださらないわ)
桜子は開き直った。東宮のためを考えて、
料理を作り、それを口に入れてもらうまでが、作り手である桜子の領分。
いきなり放り込まれた粥を吐き出すか飲み込むかは、東宮の自由だ。
東宮は口を片手で押さえたまま、もう片方の手で懐を
懐紙を取り出して吐き出すつもりのようだったが、そのうちに
何かに気づいたように表情が
「……おいしい……」
東宮は、ぱちぱちと瞬きしながら、粥が通っていった喉の辺りをさする。
「この粥は味がする……。塩気だけではなく、昆布の風味がついているのか」
小声で
次も、またその次も、東宮の口に吸い込まれていく。
器の中身が減るごとに、東宮の目には、殺気とは違う
「おいしいですか?」
「あ、ああ……」
桜子が
「この料理は、お前が一人で作ったのか?」
「はい。私は、料理が得意なのですわ」
答えた桜子は、両手を床について頭を下げた。
「
実際に食べてみなければ、料理が
桜子は、宮中料理を嫌うあまり食事を遠ざけていた東宮に、おいしい料理も存在すると伝えたかった。
「お怒りでしたら、私を
顔を上げると、東宮は「いや……」と言いよどんで床を見た。
先ほど彼がひっくり返した料理は、すっかり
「先ほどは、お前の料理をはね
そう言われて、桜子は驚いた。冷酷な狼が謝るとは思っていなかったのだ。
「いいえ! 私がお出しするのが
照れ笑いを浮かべれば、東宮は何か思うことがあったらしく
「おい、お前、俺の料理番になれ」
「料理番ですか?」
東宮からの思わぬ申し出に、桜子の心は大きく動いた。
昨日は二度と会わないとまで言っていた東宮が自ら
作った料理を誰にも食べてもらえないと
「お望みとあらば──」
喜んで引き受けようとした時、後ろから、ごほん、とわざとらしい
なんだろうと思って
(これが、紅のスケの
身ぶるいしながら視線を戻すと、すぐ目の前に瑠璃紺が広がっていた。
「引き受けないと言うのなら──」
細くしなやかな指先が、桜子の顎先をくいっと持ち上げる。
東宮は、上半身を倒して桜子の顔を覗き込むと、本気が
「──代わりに、お前を食べる」と告げた。
「っ、やります! 私、東宮様の料理番になりますっ!!」
桜子は、反射的に答えた。
そうしなければ、喉元に嚙みつかれるような気がした。
色良い返事が聞けた東宮は、桜子から手を引いてのっそりと起き上がる。
「では、明日の夕食から頼む。作る料理の味付けは問わない。お前が好きなように腕を振るえ」
しゃなりしゃなりと、花の精のように
「女御殿、あなたは某どもの恩人ですよ!」
駆け寄ってきたのは帯刀だった。大きな体に似合わず、目には
「今まで料理を口にしてくださらなかったのが
「面妖だけど、おいしそう……。本当にそう思う?」
「はっ。たしかに、そう見えました」
素直な感想を聞いて、桜子は実家で受けていた
左大臣家の使用人たちは、桜子がどれだけ「おいしい」と主張しても、見た目や香りが変わっていると恐れて、試食すらしてくれなかった。
対して東宮の
(東宮様が食べてくださったおかげだわ)
高貴な身分の人だから、
つまり、立派に東宮の料理番を務めれば、帝に唐の料理を認めてもらう夢へ近づく。
「私、心を込めて東宮様に料理を作りますね。目指せ、
天に拳を突き上げた桜子は、肩を
困り顔で手を宙に掲げた女房の後ろに、布で目元を押さえた典侍が立っている。
「桜子様、短い間でしたがお世話になりました。お
主が台盤所に立ったら宮仕えを辞める覚悟は本物だったらしい。
桜子は
「私が悪いのは分かっているけど、出て行かないでほしいの。これから、東宮様の料理番の仕事で
「ああ、桜子様!」
感動した様子で駆け寄った典侍は、次の
「へ?」
「東宮様に生意気な口をきいたばかりか、料理を作る約束までして。結果的に気に入られたからいいものの、本当に斬られたらどうなさるおつもりだったのです! これから一晩かけて、その向こう見ずな性格をたたき直して差し上げます!!」
「ひぇえ! 誰か、助けて……」
桜子は、離れて様子を見ていた女房に手を伸ばしたが、彼女たちは、我が身
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